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世界に通用する技術の会社を目指す モディファイ社長 小川浩氏(前編)
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Web 2.0を解説した「Web2.0BOOK」や、林信行氏との共著「アップルとグーグル」などの著者として知られる小川浩氏は、RSSフィードを中心としたセマンティックWeb技術のベンチャーである株式会社モディファイのCEO兼クリエイティブディレクターでもある。一度自らの会社を清算した経験のあるという小川氏が、再び会社を作った理由は。そして、小川氏から見たWeb 2.0のその先とは?
● マレーシア駐在の商社マンから起業へ
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「Web2.0BOOK」や共著「アップルとグーグル」などの著者として知られ、講演も多くこなす小川浩氏。2008年に入って正式に設立したばかりのセマンティックWeb技術を手がけるベンチャー、株式会社モディファイのCEOでもある
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モディファイはRSSフィードやマイクロフォーマットなどのセマンティックWeb技術にこだわるベンチャーです。Web上の分散したさまざまな情報を収集して、整理して、構造化されたメタデータ(データを整理するためのデータ)に変換して、データベースとして再利用できるようにする技術を持っています。構造化されたメタデータの表示形式としてRSS 2.0を採用しています。
僕の場合は、はじめからIT系の仕事をしていたわけではありません。最初に入った会社は、鉄鋼関係の商社です。9年半くらい勤めていました。入社以来ずっと海外に関わる仕事をしていて、後半の2年間はマレーシアに駐在していました。
マレーシアへはペトロナスツインタワービル(KLCC)のプロジェクト入札がきっかけで駐在しました。新空港(KLIA)にも関わりましたね。KLCC は、台湾の台北101(台北国際金融大楼)ビルが2003年に竣工するまでは世界一高い超高層ビルで、ツインタワーのタワー1を日本の間組が、タワー2を韓国のサムスンが請け負ったことでも話題になったビルです。
僕が最初に起業したのはWindows 95が普及し始めた1996年のことです。当時の東南アジアでは、日本語PCを購入するのは入手性の点からかなり大変だったんです。だから商機があると考えて、PCの通販会社を作り、アキアの代理店として東南アジアに日本語OSが載ったPCを販売することにしました。これが最初の起業です。
やがて、当時マレーシアに工場を持っていたゲートウェイやDellに交渉して、東南アジア在住邦人や日系企業への代理店権を獲得し、1996年から1999年までにマレーシア以外にも香港、シンガポールに販売していました。
● 「海外で仕事をしたい」の思いで起業
当時勤務していた商社から異動命令があったのですが、まだマレーシアでやり残したことがあると思いました。そこで、自己資金と、シンガポールの華僑から支援していただいた資金を元手に起業しました。起業自体が目的というより、やりたいことを続けたい、という思いが強かったですね。
そもそも駐在するときにマレーシアを選んだのは、英語が通じるからですね。できれば米国でチャレンジしたいと思っていたのですが、当時いた商社では東南アジア向けの仕事が多く、景気もとても良かったというのも理由のひとつです。
また、マレーシアに知識と情報の開発を促進するための一大拠点を作ろうという「マルチメディア・スーパーコリドール(MSC)」というプロジェクトがあり、アジア版シリコンバレーというか、マレーシア版「深セン(中国の経済特区)」が生まれるという期待があったこともあります。だから、その国でベンチャーを起こすのは面白い、と思いました。
ところが、その後アジア通貨危機があり、タイやマレーシアの通貨が短期間に暴落します。PC通販事業はキャッシュが要ります。そこで、主力事業の転換の必要性からネットに注目するようになったのです。NetscapeやGoogleが華々しくメディアに登場した時期でもありましたし。
そこでまず、東南アジアの情報を日本人に向けて発信するポータルを作ってメディア事業に手を付けましたが、コンテンツ勝負では、いつか資金力で勝るところに負けると思いました。コンテンツではなく、テクノロジー勝負でないとならない、と思ったのです。オリジナルの技術でユニークなサービスを作りたい。僕は次第に「技術中心のネットベンチャーになりたい」と考えるようになっていました。
● SNSに目を付けて日本へ。そして挫折
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光通信の株価暴落で始まったネットバブル崩壊の影響を受け、出資の話もご破算に。「人生で一番辛く苦しい時期でしたね。会社を閉じた後、数年間はかなりの額の返済に追われることになりました」
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当時、1999年ですが、NTTコミュニケーションズ(以下NTT Com)がさきほどの、マレーシアが国家主導で行なったマルチメディア・スーパーコリドール(MSC)計画に進出していて、その中の日本人エンジニアに友人がいました。
彼は複数の情報の偏差から近似値を取得し、それをJavaScriptでグラフ化するという、いまでいうソーシャルグラフを研究していました。この技術を面白いと思った僕は、彼と NTTコミュニケーションズマレーシアと交渉することにしました。その結果、PC通販会社は人に任せ、技術供与と資金をNTT Comに出してもらい、共同で新しく合弁会社を作ったのです。
現在ではSNSやBlogが先にあってソーシャルグラフ、というコンセプトの流れですが、僕たちの場合は逆でした。まずソーシャルグラフを表現するテクノロジーがあって、それを事業にするにはどうするか、と考えたのです。そこで作ったのが、今でいうSNS です。
ユーザーにWebメールなどのサービスを提供するとともに、アンケートに回答していただき、その回答結果を自動的に分析して、分析結果が似ている人同士をソーシャルグラフ化してコミュニケーションのきっかけを作るというサービスで、現在に置き換えても画期的だと思っています。
しかも、日本語OSでログインすれば日本語で、英語OSでログインすれば英語に切り替えるというマルチ言語のグローバルサービスでした。mixiより3年は早かった、いや早すぎた、ですね。アイディアは僕ですが、これを実現したのはNTT Comです。さすが、と思いました。
そこで、ベンチャーキャピタルに声をかけ、東京に拠点を移して日本でのIPOを目指すことにしました。2000年のはじめのことです。ところが、周知のように、この頃は時期が悪すぎました。2000年4月に光通信の株価暴落があり、日本でもネットバブルがはじけると、約束してもらっていた出資がご破算になってしまったのです。
その後1年間奮闘したのですが、結局資金繰りが苦しく、会社を閉じることになりました。この経緯は日経新聞にも載りましたが、債権者集会をしたり、人生で一番辛く苦しい時期でしたね。株式会社なので負債を全て個人が負うわけではないですが、それでもその後数年間は、かなりの額の返済に追われることになりました。
● 世界標準の大切さ
情報を収集する重要性や、必要性に応じてフィルタリングする技術にはには元々関心がありました。先述のベンチャーで開発したサービスも、SNSと言っても、コミュニティ作りではなくテクノロジーを磨き上げることに興味がありました。コミュニティやコンテンツはローカル、つまり国柄や民族の特性に左右されますが、優れたテクノロジーの価値は普遍だからです。世界標準を目指さないとならない、と思っていました。
例えば、東南アジアでは携帯電話の普及スピードが早く、1990年中頃では、日本より普及が進んでいました。アジアでは一般的に、携帯電話はヨーロッパのGSM規格が採用されており、グローバルに使えます。当時の日本の標準規格はPDCで、日本の独自規格。ヨーロッパにいっても通じる携帯電話が日本では使えない、なんて不便なんだ、日本の携帯電話事情は鎖国そのものだと当時思っていました。
今は世界で最も成熟した日本のケータイ市場ですが、海外がキャッチアップしつつある今では、やがて「世界標準」の前に屈服する時代が来る、それもそんなに先の話ではないと思っています。世界標準を目指せるテクノロジー、世界標準に合わせた開発は大事なことなんです。
ともかく、そんなわけで僕のキャリアの半分以上は東南アジアに絡んでいることになります。世界標準に合わせる重要性を感じるのは、やはり海外生活が長いからなのでしょう。米国ではなく東南アジアだからこそ、かもしれません。
当時の東南アジアでは自前のIT技術なんてありませんし、最先端の情報はすべて英語でダイレクトに入ってきます。Yahoo!やGoogleが登場してきた時なども、日本にいるより早く情報をキャッチしました。米国ではなくマレーシアにいるだけに、インターネットというフロンティアならアジア発の挑戦もできるかも、と強く思えたのです。逆に、日本にいると情報が日本語に翻訳されるタイムラグや、国内のIT技術も世界標準ではないという問題がありつつも独自な環境で洗練されているので、米国発の衝撃波が弱められてしまっている気がします。
● 一転、日立製作所へ
マレーシアで興し、日本に逆上陸した会社を閉じたのは2001年の4月でしたが、さて、借金返済のためと、もちろん生活のために、これからどうしようかと途方に暮れていたとき、日立製作所にネットビジネス開発をする実験的な部署があることを知り、会いにいきました。そうしたら、すぐに入社しないかということになって。大企業の一員に再びなることに一抹の不安はありましたが、当時の僕には選択の余地はなく、翌月に日立に入社しました。
その部署で作っていたのは、オンラインカレンダー、メール、ストレージなどの情報共有機能を統合したオンラインアプリケーションなどですが、携帯電話で操作できることはもちろん、音声で予定の入力や確認ができる画期的なサービスでした。ただ、当時は回線速度が遅くて。ちょっと時代より早すぎたのかもしれません。僕の人生はほんとに二転三転で、事情があってその部署が入社一年で廃止となってしまい、法人向けのSI部署にプロジェクトごと映らざるを得なくなって、そのアプリケーションは大幅に機能を削って一種のグループウェアとして再開発することになってしまいました。
● 「ずっといてしまうかも」と転職
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日立では一目で生え抜きじゃないと見破られていました(笑)。でも、日立という会社は相当懐の広い会社で、実は日立生活は僕にとって快適だったんです。
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日立時代は、一目で生え抜きではないことを見抜かれましたし(笑)、よく「いつまでいるの?」とからかわれたりもしました。また、よく日立で我慢できてるね、と言われたりもしたのですが、実は日立という会社は相当懐の広い会社で、僕のような型破りの人材をかえって賞賛してくれるようなムードがありました。大きい会社だけに、いったんプロジェクトが認められるとベンチャーでは考えられない予算がつくし、長期間腰を据えて取り組む時間を与えてもらうこともできました。
意外に思われるかもしれませんが、日立生活は僕にとって快適だったんです。Googleの本社に行ったり、テクノラティやシックスアパートなどの新興ベンチャーと交流を持ったのも日立時代です。日立には、結局4年間いたことになりますが、退職する決意をしたのは、その快適さゆえに、このまま一生勤めるか、もう一度ベンチャーの厳しい世界に戻れるのかを自問自答した結果でしたね。
● ネットビジネスを求めてサイボウズへ
日立時代の終わり頃、2003年には、ブログやブログ検索といった新しい波、今から思えばWeb 2.0の波が静かに起き始めていました。個人ブログの流行の兆しから始まって、簡易ホームページとしてSOHOのビジネスツールとしての可能性が論じられるようになっていたのです。
しかし、僕はそうではない、むしろ大企業こそブログを使える、と考えました。僕自身がブロガーとして、定期的に自分の考えをまとめては発表するようにもなっていましたが、ビジネスブログといった用語、あるいは社内ブログをイントラブログと称したのは僕が最初です。そこで、シックスアパートと組んで日立で大企業向けブログサービスを開始し、同時にその成否を世に問うために「ビジネスブログブック」という本を執筆したりしました。また、ネットエイジ(現ngi)ともイントラブログ専用ツールを開発しました。
そうこうしているうちに、僕はブログそのものよりもブログの更新通知を配信する技術としてのRSSフィードの方が重要であると気づきました。早速Joi(伊藤穣一氏)にお願いして、エンジニアを借りて法人向けRSSリーダーを開発することにしました。ネットサービスとして消費者向けに公開したかったのですが、日立にいる以上はやむを得ず、法人向けに販売を開始したのです。
そんなおり、あるきっかけでサイボウズの青野社長と出会ったのです。サイボウズでもネットサービスを企画している、と伺い、興味を持った僕は日立を辞してサイボウズに移ることにしました。紆余曲折がありましたが、サイボウズの子会社としてRSSリーダーを核にしたフィードパスという会社を作ることになり、そのCOOとして経営とRSSサービスの開発を指揮するに至ったのです。しかも、フィードパスではネットエイジと一緒に作ったイントラブログツールも扱うこととなり、僕が作ったプロダクト中心でのベンチャーが期せずして立ち上がったのです。
そこまではよかったのですが、サイボウズはやはりソフトウェア開発と販売の会社であり、グループウェアが本業です。同じソフトでも、Webのベンチャーではない。しかも、アメリカのベンチャーの製品やサイボウズの製品の販売代行を行なうことが主力事業となることが決まり、もう僕がいるべきではない、と判断し、1年足らずで辞職することになってしまったのです。
何度も言いますが、自分自身でオリジナルのテクノロジーでユニークなサービスを作るのが僕のポリシーです。それをしないなら日立を辞めた甲斐がないですし、もっと遡れば、商社を辞めた甲斐もないのです。このポリシーを曲げることは、いままで応援してくださった方々を裏切ることにもなると思いました。
ただし、サイボウズやフィードパスの皆さんとはいまだに交流がありますし、ともに素晴らしい会社です。離れることになったのは、ひとえに僕が自分のポリシーに忠実でありたいと願ったからです。
(後編につづく)
関連情報
■URL
株式会社モディファイ
http://www.modiphi.co.jp/
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・ 世界に通用する技術の会社を目指す モディファイ小川浩氏(後編)(2008/04/22)
2008/04/21 11:12
取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
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