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英語圏でのサービスを目指す ~ウノウ社長 山田進太郎氏(前編)
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映画の口コミサイト「映画生活」や写真共有サイト「フォト蔵」など、ユニークなサービスで知られるウノウ。ウノウとはもちろん“右脳”から取った名前だ。最近、子会社として、インターネット広告関連会社「サノウ(左脳)」ができたことでも話題になった。このユニークな社名の会社やサービスはなぜできたのか。そこに込めた思いは何なのか。代表取締役社長である山田進太郎氏に話を聞いた。
● 軍師だった子ども時代
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ウノウ株式会社社長山田進太郎氏。子供の頃はリーダーというよりは軍師や参謀的なポジションにいたという
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子どもの頃住んでいたのは愛知県の新興住宅地で、周囲には山があり、森もありました。崖を登ったり池で遊んだり、缶蹴りやドッジボールをして遊んでいましたね。本が好きで、ちょっとオタクな感じの子どもだったかもしれません。
常にちょっと変わったことを考えている子で、ドッジボールの新しいルールなど、遊びに関するアイディアを考え出すのが好きでした。小学生の頃は軍師、いわゆる諸葛孔明的なポジションにいました。自分でまとめるよりは参謀といった役目で、中学高校までそうでしたね。
今は社長として代表を務めていますが、それまでリーダー的なことはやったことがなくて、大学に入ってサークルのトップとなったくらいでした。
● 大学でポータルサイト作り
父が弁護士、母が税理士という家庭で育ちました。両親が共に新しいもの好きだったので、MSXなどのパソコンがありました。プログラムの本を見ながら見よう見まねでプログラムを打ち込んだりもしましたが、当時はほとんどゲームしかやらなかったですね。高校生の時にPC98を買ってもらったのですが、やはりゲームしかやりませんでした。
インターネットを使い始めたのは、大学に入ってからです。1996年に早稲田大学に入ったのですが、その頃はネットがちょっとしたブームになっていました。Netscape 1.0や、無料プロバイダーのハイパーネットなどがあった時代です。使ってみるとこれが面白くて、ホームページを作ったり日記を公開したりしていました。
それで、インターネット関係でおもしろいことができないかと思って、「早稲田リンクス」という早稲田のポータルサイトを作るサークルに入りました。はじめてリーダー的なことをしたのがここになります。そのポータルサイトは、休講情報やイベント情報などが一覧できるなど、当時としてはすごく新しかった。飲食店や学内で活躍している人に取材しに行ったり、学内の可愛い女の子の写真集を作ったりもしました。
もっとも今から思えば、Webメディアではありますが、内容的には一方向というか、リアルタイムであったり双方向の情報交換など、ネットならではという使い方はしていませんでしたね。
● 楽天の内定を辞退して起業へ
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会社を作ったのは、自分が動くための枠がほしかったのと、会社にした方が大きな仕事が受けられると思ったため。それに、両親が弁護士と税理士なので、会社が簡単に作れるという家庭の事情もありました(笑)
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1999年に、楽天に内定してインターンになりました。楽天では、楽天フリマオークションの立上げなどに関わりました。楽天は、当時できてから2年目のベンチャーで、社員も20数名くらい。大企業にも内定をもらっていたのですが、僕は楽天に入るつもりでした。
ところが卒業直前、村岡洋一教授や同級生らが、学生のネットベンチャー旗揚げを支援するプロジェクトを立ち上げると聞きました。NPO“Zaiya.com(ザイヤドットコム)”です。結局、2000年2月に楽天の内定を辞退して、NPOに関わることにしました。
その後、2000年末くらいからフリーでWebディレクターやプログラマーとして活動し始め、2001年8月には会社を作っていました。それから3年間くらいはいろいろな仕事を受けていましたね。
会社を作ったのは、自分が動くための枠がほしかったのと、会社にした方が大きな仕事が受けられると思ったからです。それと、実は両親が弁護士と税理士なんです。弁護士と税理士がいれば、会社は簡単に作れるので、そういう家庭の事情もあります(笑)。その頃は、基本的に僕一人でやっていくつもりで、人を雇う気はありませんでした。
● 「映画生活」の成功
楽天にいた頃はプログラミングの経験に乏しく、掲示板を拾ってきて設置する程度のことしかできませんでした。そこで、大学を卒業した2000年頃、プログラミングの練習がてら、映画の口コミサイト「映画生活」を作ったのです。映画は、手軽に色々な世界観に触れられ、忘れがちな感覚を思い出させてくれるところが好きで、よく観ていました。
データベースなどを作ったのはそれが初めて。今は本職のプログラマーによってシステムが一新されていますが、当時は自己流で作ったので、ソースコードはお世辞にもきれいとは言えない、ゴチャゴチャしたものでした。ただ、サービスは何ができるかが重要なので、当時そういうことはあまり気にしていませんでした。
ユーザーは徐々に増えていきました。今でこそYahoo!などでも映画の感想が書けるようになっていますが、当時は、映画でインタラクティブな要素があるサイトは個人ベース以外ではなかったんです。広告はまったくしませんでしたが、質問したり感想を書いたりできるところがウケて、口コミで広がっていきました。
その頃は何よりも「米国に行きたい」という気持ちがとても強かった。楽天にいた頃、ネットビジネスの中心はシリコンバレーだと感じていたからです。
2002年からは、雑誌定期購読エージェンシー「富士山マガジンサービス」に参画し、Webサイトの設計の手伝いもしていました。出資もして業務にもかなりコミットしていたのですが、米国に行くつもりだったので、立場は外部スタッフということにしていました。
● ギャップを感じた米国
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グリーンカードを持っていたので、移民するつもりで行った米国だったが、実際に住んでみるとカルチャーの違いは大きい。「米国を拠点とするなら、日本的なものをある程度捨てないといけないと思った。」
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2004年2月、起業への思いを抱えて米国に向かいました。日本にいるだけだと見えないものがあるのではないかと思ったのと、試さないで諦めるのはもったいないと思ったからです。僕は、何でも実際に自分で試してからいいか悪いか判断したい質です。ビザはグリーンカードが運良く当たっていたので、移民するつもりで行きました。
サンフランシスコまで電車で行けるような場所に住んだので、刺激は多かったですね。シリコンバレーは田舎で、自転車で山に行くなど、DIY(Do It Yourself)で自分で楽しめないといけないような場所にあります。そういうのが向いていない人にはニューヨークや東京の方がいいでしょう。僕は都会好きなので、行ってみて、若いうちは大都市の方が面白いかもしれないと感じました。
初めの半年くらいは、現地に溶け込もうと頑張りました。ところが、食事が合わなくて、お腹の調子が悪いわけです。食事の違いというのは結構、感覚の幹になる部分なので、結構厳しかったです。また、医療保険やインフラ(電気、ケーブルテレビなど)など社会システムの多くの部分が弱肉強食で作られていたりして、非常にストレスを感じました。
米国で生きて行くには、日本的な部分をある程度捨てないといけないと思いました。しかし、僕にはアメリカ人になるという選択肢は取れなかった。起業するにも、日本なら知り合いがいるけれど米国ではゼロから始めねばならず、言葉の壁と考え方の壁もありました。
たとえば、アメリカ人は野菜を食べません。中西部の人などは、いつ食べたかわからないくらい、ほとんど食べない人もいるくらいです。非常にマッチョな文化で、端的に言えば、男はワイルドでカウボーイという感じでしょうか。
一方で、サンフランシスコなどは洗練された都会でベジタリアンもいます。僕がルームシェア探しをしていたときに出会った、あるオーナーさんはベジタリアンだったのですが、肉類は室内に持ち込み禁止でした。彼は猫を飼っていたのですが、本来肉食であるはずの猫も肉を食べられなくて可哀想でした。もちろん、そこでルームシェアはしてません。
サンフランシスコではゲイやレズビアンもものすごく多くて、学校の先生なども二人に一人はってくらい多かったんです。他にも、たとえば僕が寒くて震えているのに半袖の人がいたりとか、それこそ肌で「まったく違う人種だ」と感じました。
日本には時々帰って情報交換をしていたので、日本の状態はそれほど悪くないと感じていました。米国のネットサービスはコンセプト重視で、作りが大雑把なものが多いです。これは日本に戻って、日本的な質の良い物を作って輸出する方がいいかもしれない。漫画やアニメのように日本人的な緻密な設計のサービスを出せば、勝機があるのではないかと考えたのです。そこで帰国を決めました。米国にいたのは、約1年間でした。
● レストランよりネットビジネスを選んだ理由
実は、ネットビジネスの前に、現地でレストランをやろうと考えていたんです。米国は食べ物が美味しくないので、ヘルシーで美味しくリーズナブルな日本食レストランをやればウケるだろうと考えたのです。過去にレストランを成功させて引退した方にいろいろと聞いて勉強し、一緒に物件周りもしたりしてました。
しかし、事業計画を作っているうちに「結局、自分はインターネットサービスを作るのが好きなのだ」と気付いたんです。たとえば、Skypeは世界で2億人以上のユーザーがいます。自分の作ったサービスも、hotmailやGmailのように、たくさんの人たちに使ってもらえたら――それには、やはりネットしかありませんでした。
(後編につづく)
関連情報
■URL
ウノウ株式会社
http://www.unoh.net/
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・ 英語圏でのサービスを目指す ~ウノウ社長 山田進太郎氏(後編)(2008/07/29)
2008/07/28 11:19
取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
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