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金曜コラム

神戸の事件があらわにしたこと(その2) (97/08/29)

 2週間おいたおかげで、前回コラムを書いたときからさらに整理することができた。結局のところ、この事件が露わにしたインターネットの問題点とは次の2つに集約される。

  1. インターネットでは制約なく問題のあることでも発信できるという怖さ
  2. プロバイダーの都合で簡単に情報発信ができなくなってしまう怖さ

 これらは、実は立場の違う人から見た怖さであり、利点欠点が相反する。つまり、1はインターネットを外から見た人にとっての怖さであり、2はインターネットを使って情報発信する側の怖さである。情報発信する側にとって、1は逆に最大の利点となる。個人も中小企業も大企業も区別なくマスコミと肩を並べることができるのは、インターネット最大のメリットと言えるだろう。一方、1の恐怖を感じている人にとって、2は当然のことと思うだろう。

 理想的なことを言えば、みんなが「問題のないこと」だけを発信して、どのプロバイダーも「一切の情報発信制限をしない」となるのかもしれない。しかし、これは現実的ではないだろうし、もし現実となったら非常にゆがんだ状態だと言える。「問題となること」の基準は個人によって異なるのが当たり前だし、そこに一律の基準を設けるのはまさに「言論統制」なのだ。これをはみ出す人がいないと言うことは、まさに「言論の自由がない」状態といえる。


価値観や利益の衝突というリスクを覚悟する

 つまりは、「個人の価値観が異なる以上、発信された情報に問題を感じる人がいて、その問題を感じた人が抗議することによってホームページの閉鎖という事態が発生する」というのは永遠になくならないと考えた方がよい。一般的に言い直すと、情報を発信すると、その情報で不利益を被むる人やその情報を不快に思う人と衝突するリスクを背負うことになるのだ。

 このことを実感している人は少ないのではないだろうか?そこで、考えてもらいたい。自分の上司が不正をしているらしい「状況証拠」を知ったとする。これを駅前で「うちの上司は不正しているらしい」とビラをまくと考えてみよう。当然、上司からにらまれることになるので取りやめる人も多いだろう。また、不正を見逃せないと思ったとしても、「確実な証拠」を掴んでからやろうと判断する人が大半だろう。いや、そもそもビラを撒くといった不特定多数へのアピールではなく、しかるべき関係者に連絡を入れるのが適切な判断と言えるだろう。

 一方、個人の日記ページだったりすると簡単に「実は最近うちの上司が不正をしているらしいのです」などと書いてしまったりしがちではないだろうか?この行為が「不特定多数へ特定個人の不利な情報を提供する」ことだと認識して書く人がどれくらいいるだろうか?よくよく考えれば、人気のあるコーナーなら個人ページでも数千~数万の人が読むことになるのだ。おそらく、東京の混雑した駅前でも一人で万単位でビラを配るのは至難のわざのはずである。インターネットは、駅前でビラを配るより広範囲に公開することが可能なメディアなのである。こう考えれば、インターネットで発信した情報に、それ相応のリスクが発生するのは理解できるだろう。

 もちろん、これは「大多数に公開されたメディア」であることが大前提だ。インターネットを使っていても、個人間でメールをしたり、仲間の間でのメーリングリストなら、何を言ってもリスクが生じる心配は少ない。これは、たとえば電話で噂話をしたり、居酒屋で仲間とばか話をやったりするのと同じで、こうしたことまでリスクを背負わなければいけないのでは、気楽に息抜きもできない。そうしたプライベートな会話はここでは問題としない。


インターネットだから回避できるリスクはない

 もちろん、リスクがあるからと言って情報発信を止めろとは私は言わないし、言う権利もない。まさにそれは「言論の自由」そのものだからだ。しかし、リスクは最初から覚悟しておいてもらいたい。最近、警察によるインターネット関係の摘発に対して「インターネットの自由の危機」と言ったような表現で、インターネット利用者全体の問題のようにすりかえる発言があるがそれは適切ではないだろう。インターネットだから特別に許される自由はないのだ。警察からにらまれるような行為をしたなら摘発を受けるようなこともあるだろう。そうした、リスクも覚悟すべきである。

 しかし、もし警察に睨まれるような行為であっても、あなたが合法だと思うなら、裁判でも何でも行なって最後までそのリスクと付き合う必要がある。もし摘発が不適当だと思うのなら、「インターネットの自由の危機」ではなく、なぜ警察の摘発が不当であるかを主張すべきである。その主張が一つの流れになって、新たな自由を得ることになるかもしれない。

 今回の神戸の事件に関するプロバイダーによるWebの閉鎖にしても、本当に不当だと思うのなら裁判でも何でも行なって自由を勝ち取るべきであると思う。大手出版社でも、問題があると判断されれば流通経路がストップしてしまうのだ。インターネットだけが特別に自由であると思うのは幻想と言える。「多くの人の常識」や「良識」と地道に戦わずにして、言論の自由を勝ち取るのはあまりに虫がよすぎるというものだ。


リスク管理はどのようにすればよいのか

 では現実レベルとしてどうすれば良いのだろうか?神戸の事件のケースで考えるといくつかのポイントがあるように思う。

 まず、不特定多数が書き込める掲示板である。これらは、普通管理者が24時間監視しているわけではないので、だれでも何でも書き込める。とはいえ、比較的掲示板の趣旨が理解され、問題となるような発言が少ないのなら、今のままの運営でも良いだろう。しかし、広告や意味不明な書き込みも多いようなら、それ相応のリスクを考えるべきだ。もちろん、その自由な雰囲気を大切にして、何か起こったら掲示板の閉鎖という圧力も有り得るという覚悟があるのならそのままにしておいてもよい。もし、あなたが問題ないと思うのならプロバイダーと最後まで戦えばよいし、あなたも問題があると思うのなら閉鎖すればよいのだ。

 しかし、自由な雰囲気は保ちたいが、そうした閉鎖といったトラブルは避けたいというのなら、誰でも登録できるが、登録した人しか読めない掲示板にすると良いだろう。こうすれば、実際問題のある発言があったとしても、登録者しか見ることができず少なくとも不特定多数への公開は避けられる。クローズドな中での会話となれば、前出の「居酒屋の会話」同様、仲間内の会話とみなされリスクも少なくなるだろう。もちろん、登録者数が多くなればリスクはどんどん増えることになるし、居酒屋で聞き耳を立てている人がいるように、仲間内のつもりが意外な人が読んでいたというような可能性もある。しかし、無制限に閲覧を許すより影響力が少ないのは事実である。また登録者数で、自分のメディアの影響力を実感することもできるだろう。

 一方リンク集の運営はどうだろうか?こちらも、まずは「リンクだから問題ない」と言い切るのは難しい。結局は受け取り手の問題といえるからだ。リンク集の意図が明確であるなら問題とされるリスクも大きくなると考えるべきだろう。もちろん、コンテンツそのものを持っているより、リスクは小さいだろうが、それでもノーリスクではない。意図的に問題となっているサイトへの誘導するようなリンクなら問題とされる可能性もある。一方、客観的なリンク集であればリスクも小さくなるだろう。リンク集の運営が最優先であれば、クレームが付けば、該当するサイトをリンクから外すぐらいの柔軟性もあってよい。一方で、クレームがついてもそのサイトを紹介することに意義があるというのなら、やはりプロバイダーと戦うべきだ。


出版とはリスクとの戦いである

 ここまで書くと、「何だウォッチの編集長って保守的なんだ」と思われるかもしれない。しかし、メディア側はクレームが付いても傷つかないが、不利益な情報を流された方は一旦メディアで紹介されれば、取り消してもその情報が消えることはなく、まったく元の状態に戻すことはできないのだ。それだけに、慎重に慎重を期して過ぎるということはない。

 だがそれは、リスクを考えて保守的になれということではない。時として、メディアは誰かを傷つけてでも真実を公開したり、新しい考え方を提示しなければいけない時がある。ただその時は、自らが傷つくことも覚悟しなければならない。そうした最後まで責任を持つ態度がインターネットを成熟したメディアに押し上げると信じている。言いたい放題、やりたい放題やっておいて、いざ圧力がかかると「インターネットの自由」で問題をすりかえるようなことはフェアではないと思うのである。

[編集長 山下:ken@impress.co.jp]


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