ようやく暑さのピークは過ぎたが夕暮れには早い昼下がり、西新宿の街はまだまだ暑い。こころなしかヨドバシカメラのスピーカーの声もだるそうだ。私と担当編集者のSは喫茶店に座って、数週間前に会った電子協の東條喜義参事のインタビューを反芻している。店に入って1時間あまり。そろそろコーヒーのお代わりが欲しいタイミングだが、彼女は気づいてくれないだろうか……。
「……東條さんは親委員会とWG2の合同委員会が増えてから、親委員の集まりが悪くなって、そこからおかしくなったって言っていたけど、でもね、どうもこれは彼の記憶違いではないかと思うんですよ」
「記憶違い?」
「そう。僕が日本規格協会から複写してもらった議事録案によれば、親委員会とWG2の合同委員会は、'99年の3月8日、26日、27日、それから'99年度になって、7月15日、8月23日、9月10日、11日、そして'00年2月24日。つまり全部で8回みたいなんです。たしかに東條さんが言ったように、これだけの回数、性質の違う親委員会とWG2の審議を一緒にやれば何か問題がおこるようにも思える。でも、そのことを例の要望書と関連づけては言えないのではないか。まず、この8回のうち'99年度分はいずれも東條参事達が要望書についての協議をはじめた後の話だから、その動機として考えるなら、この場合ひとまず除外できますよね」
「あ、そうですね、日本IBMとNECが電子協をたずねたのは6月ですからね」
「うん。しかも3月26日、27日のは公開レビューの後、応募してきた外部の人たちを招いておこなった“公開審議”の1日目と2日目で、審議の内容としては1回分のまとまりと考えてもよいものですよ。それに、開発作業のおおきな節目である公開審議に親委員も同席することじたい、問題点は見いだしにくい」
「あれ、東條さんは公開審議の前からけっこう合同委員会はあったって言ってましたよね」
「そうなんですよ。でも僕の持っている資料を見るかぎり、公開審議の前には1回しか合同委員会はひらかれていないように見える。東條さんの言うように、合同委員会が続いて親委員会のチェック機能が果たせなくなったというのが本当なら、最初の3月8日の合同委員会だけで彼は“これではおかしい”と思い、それが要望書につながったことになってしまう。つまり、仮に合同委員会の弊害が本当にあったとしても、それは要望書とは関連づけにくい」
「うーん、なるほど、たしかに辻褄があいませんよね。でもちょっと待ってください、なんかさっきから“思う”とか“ように見える”とか、ハッキリ言いませんね」
「やっぱり気づきました? 実はね、僕の持っている資料は正式な議事録じゃないんですよ。委員会の承認をうけた紙の議事録は、埼玉かどこかにある倉庫に収納されていて、整理しないと外部に出すことができない。だからそれまではと言って、とりあえず規格協会の担当者の手元にあり、すぐに出すことのできる議事録の前段階のテキストファイルを、CD-Rでいただいたんですよ。ところがこのファイル、よく見ると抜けがあったり、たまに記述が粗い議事メモみたいなものが混ざっていたりで、やはり正本を見ないと正確なことは言えない。だから現時点では“~と思う”というような、断定をさけた言い方しかできないんですよ」
「そうなんですか。じゃあこの問題はちょっと保留ですね」
「ただ、前段階の議事録案といっても、単なるメモというわけじゃないから、議事の流れを抑えることはできる。だから断定はできないけれど、けっこう確度をもった推測ではあると思うんですよ」
「まあ、本当のところは正式な議事録をいただけば分かるんだから、それからにしましょう。そうだ、お代わりをたのみましょうよ。小形さんは同じものでいいですか」
彼女は立ち上がり、自分のバッグから財布を取り出すと、カウンターの方へ歩きだした。
Sが自分用にオーダーした2杯目のドリンクは、アイスココアにホイップクリームをトッピングし、さらにガムシロップを増量したものだった。この人が甘党だとは知らなかった。しかし、よくこんなものを頼むな。見るだけで胸焼けしそうだ。夏だからダイエットがどうのと言ってなかったっけ。いや、待てよ、この前打ち合わせしたときも、深夜なのに『知床鳥のみぞれ和えセット』をたのんで、しかも食後に『白玉あずき』をとっていた。してみると単なる食いしん坊か。
いや、それはそれとしてだ。私は想念を無理矢理Sの紙コップから引き剥がして、彼女に聞いた。
「東條さんは、企業として、原案作成の段階と最終審査の段階とで、言うことが違ってくることもあり得るって言ってましたよね。これ、Sさんはどう思いました?」
「そういうもんじゃないですか。組織ですもの、しょうがないですよ」
Sは特に疑問をもっている様子はなかった。そうか、そう言えばこの人も組織労働者の一人だった。
「ふーん、やっぱりサラリーマンと僕みたいなフリーランサーで、考えに差が出るのかな。僕は、それは言い訳だろうと思った」
「ええと、それは……?」
「つまりね、基本的にメーカーが原案作成委員会に人を出すのは、技術的な知識“だけ”を期待されてじゃないと思うんですよ。たとえばOSメーカーが0213の原案作成に加わっていれば、制定後はそのメーカーのOSが0213をサポートすることが、当然期待されたりするわけでしょう? 企業が原案作成に参加するっていうことは、つまりそれじたいが企業のマーケットに対する姿勢を象徴していると思うんですよ。だからJCS委員会では専門的な技術知識、情報部会ではマーケットをふまえた経営判断なんて、きれいに役割を分けて考えるのは、ちょっと都合がよすぎると思う。比重の違いは多少あっても、求められるのは両方、これが原則でしょう」
「うーん、でもWG2に参加していたのは、わりと若手の技術者が多いんでしょう? だったら、そういう人たちにまで企業の重い看板を背負わせるのは、ちょっと酷じゃないでしょうか」
「しかし、その若手技術者の背後には、それこそ組織としての企業があることを忘れちゃいけない。彼はWG2で得た知識を組織にフィードバックし、自分一人では手にあまる判断を迫られた時には、上司から指示をうけていたはずじゃないでしょうか」
「そうかなあ……」
納得できない顔で、Sは首をかしげている。もしかしたら、彼女は自分と“割の合わない責任を背負わされている若手技術者”を重ね合わせているのかもしれない。ちょっと話の角度を変えた方がいい。
「それよりも思い出して欲しいのは、前に工技院の永井さんがメーカーの一連の行動について、実に的確に総括していたじゃないですか」
「なんでしたっけ」
「ええとね、〈力関係が逆転するような場を選んで、自分たちのパワーを見せつけるというのは、あり得る話じゃないでしょうか。たぶん今回は、そういうことなのだと思います。〉(第2部第9回より)って永井さんは言ってたんですよ」
「あ、思い出しました。あの時もすごく率直に話してくれましたよね」
「そう。あれを僕なりに言いなおすと、原案作成委員会では大企業といえども1票しかもたない平委員で、自分の主張を通せない場合もある。だけど情報部会なら色々な作戦が使える。部会の委員以外の味方を募り、業界の意志だという形を整え、万全の体勢で逆転狙いの勝負に打って出た。要はそういうことだと思いますよ」
私はコーヒーを飲み、一息ついてから、こう言った。
「……まあ逆に言えば、メーカー企業はそうしてまでも、シフトJISの外字領域を使って拡張する方式を飲みたくない事情があったのだとも言えるのでしょうけどね」
「ふうん。分かってきました」
Sの目がすっと細くなり、同時にイタズラっぽい笑いが口の端に浮かんだ。
「小形さんは、こう言いたいんじゃないですか。つまり、JCS委員会のボスは芝野さんだ。でも情報部会では芝野さんは関係者の一人に過ぎない。JCS委員会では通らない主張も、情報部会でなら通せる」
「な、なにを言いだすんですか」
私はむせそうになりながら答えた。
「別に僕はそこまで言っていない。それに、そういう一見分かりやすそうな絵解きは、分かりやすいだけに思考停止におちいると思うけどなあ」
「ああ、そうですね」
Sはすこし得意げに言った。
「すみません。私の悪い癖なんですよね、先回りして想像しすぎちゃうのって」
言葉とは裏腹に、Sの顔には勝利感がただよっていた。私は窓の外に目を転じた。強い陽射しがアスファルトに反射してまぶしい。まだまだ外は暑そうだ。勘弁してくれよ。胸のなかで私はつぶやいた。
Sはプラスチックのスプーンでごっそりとホイップクリームをすくい、ぺろりと口におさめてから言った。
「でも、もうひとつ分からないことがあるんですよ。小形さんは、0213のシフトJIS拡張方針を、メーカーはどうしてもコスト的な理由で呑めなかったんだとおっしゃいましたよね」
「そう、対立点はそこだけ。文字の選定についてはまったく異存がないと、東條さんは何回も言ってましたからね」
「ええと、話がこんがらがっていて、もしかしたら誤解しているかもしれないんですけど、そのシフトJIS拡張方針を打ち出したのは芝野さんなんですよね?」
「そうでしょうね。例の芝野研究室のサイトで公開されていた資料 (こちら
ただし9月12日現在まだアクセスできない)によれば、基本方針の文書起草者は芝野さんですからね」
「じゃあ、なんで芝野さんはメーカーの反対を押し切ってまでシフトJISの拡張にこだわったんでしょう? だって芝野さんって国際の方では、むしろISO/IEC
10646(Unicode)を推進する立場ですよね。それに、規格の一番のユーザーはメーカーだろうから、その反対って大きいんじゃないかと、私は思うんですけど」
「そこなんですよ、最大の謎は。正直言ってこれが分からないんだ。理由じたいは去年のインタビューでも明解に言ってましたよね。つまり、現状ではシフトJIS対応のシステムが圧倒的に多いから、一刻も早く新しい文字を使おうと思ったらシフトJISしかない(第1部第4回)。それから『開発意向表明』[訂正](こちら)の『集合の大きさ』の項からもうかがえるけど、中国や韓国でもシフトJISとよく似た符号化方法が制定されたという状況もあったで
しょう」
「他の国にもシフトJISがあるんですか」
「符号化方法がよく似てるってことです。それはともかく、芝野さんは0213の普及後まで、まだシフトJISが支配的な符号化方法であるという確固とした見込みをもっていたようだ。一方で、要望書を読んでもメーカーのUnicode(ISO/IEC
10646)の実装を進めていく姿勢が強くうかがえるから、早い話、情報部会での芝野さんとメーカーの対立は、この“シフトJISの普及予測”をめぐる対立だと言い換えられるかもしれない」
Sはすかさず言った。
「でも、今から考えれば、それって間違いですよね。来年になればマイクロソフトも、Unicode(ISO/IEC 10646)に完全対応した一般向けのWindows『ウィスラ』を出すし」
「いや、状況がはっきりした現在から過去を非難するのは間違いですよ。簡単だけど、それをやっても何も生まれない。そうじゃなくて考えるべきは、0213の開発方針が決まった時点で、シフトJISはどのような状況にあったか、現在のような状況は予測可能だったかどうか。あるいは芝野さんの判断の根拠は正しいものだったか、そしてその判断はWG2でどのように審議されたかということでしょう」
「ええと、ちょっと待ってください……」
Sは紙コップのストローをくわえ、上目づかいに私をうかがうように言った。
「ひょっとして、小形さんって0213のシフトJISで文字化けは起こらないって書きませんでしたっけ?」
私は思わずコーヒーを飲んでいた手をとめた。
「いや、正確には0213のシフトJISによって新たな文字化けが起こるわけではなく、0213以前から文字化けは起きていたって書いたんですけどね(第2部第4、5回)。さんざん考えたけど、このロジックは現実的じゃない。お詫びして訂正しますよ」
Sはストローから口をはなして、じっと私を見つめていた。私は彼女の視線から目をそらしてつづけた。
「たしかに0213以前から文字化けは起きていたのは現実だけれど、反面0213のシフトJISが正式なJISの規定になっていれば、市場になんらかの混乱が起きたのも、やっぱり現実でしょう。芝野さんはこの混乱を“新しい文字コードが普及するまでの当然のコスト”であり“新しい文字が使えるベネフィット(利点)と比較して、ベネフィットが上まわると思うなら”選択すればいいだけだと表現した(第1部第4回)。でもUnicode(ISO/IEC
10646)による文字拡張を固守するマイクロソフトやアップルコンピュータ等OSメーカーの姿勢や、要望書を出してまで反対したメーカーの意志を踏まえれば、芝野さんがいうような“コストとしての混乱”は、じつは非現実的なオプションでしかなかったと言える」
私はため息をつきながら続けた。
「もちろん僕がこう言うのも、状況がはっきりした現在から、過去の芝野さんの判断を裁いていることでしかない。くだらん態度ですよ。だから本当に考えるべきは、今言ったOSメーカーの姿勢や要望書メーカーの反対の意志が、0213の原案作成の過程のなかで、どのようにして反映されたか、もしくは反映されなかったかでしょう」
私が目をあげると、Sはまだ私を正面から見つめていた。
「そしてね、これは結局、さっきSさんが言った疑問にもどることになるんです、つまり“シフトJISの拡張になぜこだわったのか?”」
Sはまたストローに口をつけて、中味を飲むと言った。
「ふうん……それで小形さんは、どう思われるんですか?」
「いや、ごめんなさい、今はまだちゃんと調査しきれていないんですよ。勉強中です。でも僕は、もしかしたら芝野さんにはいくつか誤解したポイントがあり、そこから判断ミスが生まれたのではないかという仮説をいだいている。これは整理して近いうちにちゃんと話します。たぶん、その上で本人に直接確かめないといけないだろうな」
「へえ」
Sは残ったアイスココアを一気に飲み終えると、紙コップをトンとテーブルにおいて言った。
「それは楽しみですね」
私は、一瞬ぐっと詰まり、それから言った。
「まあ……ね」
あの精力的な実務家、該博な国際通、文字に関するJISを一人で全部改正してしまった辣腕家に、「あなたは誤解していませんでしたか」などと聞く勇気は、正直な話し、私にはこれっぽっちもなかった。過去インタビューをした2回とも、私は圧倒されっぱなしだったのだ。やれやれ、誰か代わりにやってくれないかなぁ……。
午後4時をまわろうとしていた。西新宿の街は、まだうだるような暑さの中にある。
(次回、『3.電子協の根回し・下』につづく)
※別記
JIS X 0213にある附属書1『Shift_JISX0213』を使って、その文字を使うことができる、フリーのTrueTypeフォント(Windows95、Windows98、Unix、Macintoshに対応)が以下のURLで公開されている。
http://www11.freeweb.ne.jp/computer/wakaba/
ただし、今までの拙稿でも触れているように、Shift_JISX0213じたいは規定ではなく参考だ。従来のシフトJISフォントで表示させようとすれば文字は化けるし、近い将来出るであろうJIS
X 0213の文字をサポートするUnicode対応OSの間で、正常に文字が変換される保証も現在のところはない。そのためこのフォントの使用には十分に注意されたい。
また、『青空文庫』の手によって、上記のフォントの紹介や使用方法、あるいはShift_JISX0213を使って従来の外字の穴を埋めたデータや、その作成のノウハウ等が解説されている。
・『新JIS漢字時代の扉を開こう!』
http://aozora.gr.jp/newJIS-Kanji/newJIS1.html
・『青空文庫 明日の本棚』(Shift_JISX0213を使って入力した文学作品のテキストファイル)
http://www.sumomo.sakura.ne.jp/~aozora/jisx0213/
青空文庫では、これらを公開する意図として、私の質問に答え〈新JIS漢字が使えるようになることで将来の青空文庫にはどのような変化が生じるのかを見せる「窓」のような存在として、「明日の本棚」を設けました。〉と説明している。すなわち将来に向けた限定的な“実験”として、これらを考えているようだ。
以上、前号の“別記”の書き方では、誤解をまねくおそれありという読者の川俣晶さんの指摘(いつも、ありがとうございます)をふまえ、多少の状況説明を補足して紹介し直すことにした。
(2000/9/13)