午後4時を過ぎて、西新宿の街はようやく夕暮れの気配がしのびよろうとしていた。照りつける陽射しはまだ強いが、1時間ほど前のようなきびしさはない。街を歩く人からも、気のせいかほっとした表情がうかがえる。
私と担当編集者のSは喫茶店に座り、数週間前に取材した電子協の東條喜義参事のことを話し合っている。ふたりでテーブルを囲んでから、もう2時間以上がすぎようとしていた。私はすでに2杯のコーヒー、しかも250mlのトールサイズを飲み干して、いささか胃がもたれている。しかしSの鉄の胃袋は、3杯目にオーダーしたフレッシュジュース(もちろんトールサイズ)に加えて、今ペストリーを呑みこむところだった。
口の中に消えゆくパンの切れ端をながめながら、うんざりするより驚嘆する私をよそに、恬然とSは言った。
「東條さんのインタビューで一番面白いところは、工技院の取材では分からなかった舞台裏を明かしてくれたところじゃないかと思うんですけど」
そうだ、問題は……文字コードだった。一瞬遅れて私は彼女に答えた。
「……ああ、そうですね。工技院に話を聞いたときは話してくれなかったことがだいぶ分かった。なかでも富士通が、要望書の音頭取りをした日本IBM、NECと同じく0213のシフトJISに反対の立場をとりながらも、微妙にスタンスが異なっていたという点は興味深いですよね」
雲ひとつない空で、盛んに存在を主張していた太陽も、ようやくビルの谷間に姿を消したようだ。そろそろ夕暮れ、辻の奥にはすでに夜の気配さえただよっている。私の尻は、洒落てはいるがひどく固いイスに悲鳴を挙げはじめていた。はやく、この話をきりあげて家に帰りたいものだ。
しかし仕事熱心なSは、フレッシュジュースの最後の一口をストローで吸い上げると、私の心中などおかまいなしに言った。
「テクニカル・レポートにあった現実的な計算って、どういう意味なんですか」
「もともと要望書に署名したメーカーは文字の拡張は国際規格からっていう立場。そういう立場からすれば、国際の場で典拠として使えるならテクニカル・レポートでも十分ですよね。通用しないと分かった時点でJISに看板を付け替える手もあるし。それにテクニカル・レポートなら、実装しなくてすむ分だけ国内に不要な混乱をもたらさず、そういう意味でも都合がよい。そういう、きわめて現実的な計算にもとづくロジックだったんじゃないかな」
「なるほどね。さすがにいろいろ考えていますよね」
「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」
「なんですか、それ?」
「ウィスキーのコマーシャル。それはともかく、要望書メーカーは思った以上に作戦を練ったうえで行動をおこしているように思うんですよ。例えば……うーん、これはあくまでも僕の想像なんですけど、実は要望書のメンバーと富士通の間で、事前に交渉が成立していたんじゃないか」
「交渉?」
「うん、つまり日本IBMはあくまでも芝野さんに突っ張る。NECもそれに援護射撃をする。当然激しい議論の応酬になるだろうから、膠着状態になったところを見はからい、今度は代わりに、富士通が附属書1~3を参考にする妥協案を出す。そんな役割分担を事前に決めていた、つまりは“0213包囲網”のフォーメーション・プレイじゃないか……」
「本当ですか!?」
「いや、そう思いたくなるほどメーカー企業の“反0213作戦”は、見事に決まっているってことなんですよ。事前に決めていたかどうかはともかくとして、今僕が言った流れは、実際の1回目の情報部会の議事進行そのものなんですからね」
「どうでしょうね……」
「実はその後、直接東條さんに富士通と事前に呼吸を合わせていたのかと聞いてみたんです」
「どう答えました?」
「笑いながら言下に否定されましたよ。ただ、富士通だって0213のシフトJISには反対なのは同じ。要望書メーカーからすれば、富士通が要望書への署名に参加しないと言ってきた時点で、彼らが情報部会で自分たちよりすこし穏健な折衷案をだしてくるのは、実は十分予想の範囲内だった。これは東條さんに確認ずみです」
「なんか小形さん、さっきから謀略小説の読み過ぎじゃないですか」
「そうね、でも確実に言えることは、情報部会での論戦は、実は芝野さんにとって非常に分の悪いものだったってことです」
「そうですか、議事録を読むと芝野さんは全然負けていないって感じでしたけど」
「たしかに負けていないけど、議論は全然かみ合っていないですよ。もともと要望書メーカーにとっては原案全体をテクニカル・レポートにしてしまうものから、問題部分だけを参考にするものまで、いくつも選択肢があった。他にも附属書1~3を削除したり、この部分だけ独立させてテクニカル・レポートにする方法だって考えられるかもしれない。とにかく実装に問題がでそうな部分さえJISにならなければ後はどっちでもいい。つまりいろんな戦略が立てられた。でも、芝野さんにとっては防戦するしかオプションがない。となれば、これは芝野さんにとって厳しい戦いですよね」
「ああ、それはそうかも。でもなんか、すごい話だなあ」
「情報部会でおきたことを将棋に例えると、実は要望書が工技院に提出された時点で、すでに“詰み”だったんじゃないか、そう僕は思います。芝野さんは技術的な立場から反論したけど、要望書ってパワーゲームの産物ですよ、これに技術で対抗することじたいに無理があるんです。だから、議事録を読んでも全然話しが噛みあってないですよね。たぶん、それは我々にとっても不幸なことなんだろうけど……」
不幸って? そう目で聞くSをよそに、そろそろ腰をあげたい私は言った。
「まあそれは追々話すとして」
私は痛くなってきた尻の位置を、微妙にずらしながらSに言った。
「たぶん今回の東條さんのインタビューで最大の目玉は、1回目と2回目の情報部会の間で、工技院がどういう“調整”をしたのか、具体的に説明してくれたところだと思うんですよ」
「そうですね、工技院はなかなかはっきり言ってくれませんでしたからね。でも工技院も仕事とは言え、メーカーと芝野さんの板挟みになって大変ですよね……」
(次回、21日配信の「完結編」につづく)
(2000/9/20)