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Illustation:青木光恵 |
特別編第8回 国語審議会への手紙・中/表外字体案は私たちに何を求めているのか?
前回は、『表外漢字字体表(案)』(以下、表外字体案)で規定している“印刷文字”という考え方と根拠の不明確さを述べました。今回は文字コードに即して、表外字体案にJIS文字コードが対応した場合に起こるであろう混乱について述べたいと思います。
表外字体案では、『情報機器との関係』として〈将来的に文字コードの見直しがある場合、表外漢字字体表の趣旨が生かせる形での改訂が望まれる〉(p.9)としており、将来のJIS文字コードの変更をうながしています。しかし私が調査したかぎりでは、そのような変更をした場合、けっして小さくない混乱がおこりそうです。
文字コードという技術じたいは、前回述べたように情報交換の際に文字の形まで相手に伝わることを保証できません。私のパソコンから送ったメールは、そのままの文字の形で相手のパソコンに表示されるという保証はないのです。なぜならば、私のメールソフトで使っているフォントと同じものが、相手のパソコンにも入っている保証はなく、仮にそれが入っていたとしても、相手がそのフォントを使ってメールを読むという保証はないからです。
これに対して、このような不安定性を一定の枠内におさめようとするのが、JIS X 0208/0213でいえば包摂規準です。JIS X 0208/0213では、包摂規準にしたがってフォントが作られているかぎり、ユーザーは情報交換の相手と、とんでもない齟齬に出会うことはなくなります。これを表外字体案にあてはめていえば『表外漢字における字体の違いとデザインの違い』(p.34)ということになるでしょう。
となれば、ここで問題になるのは、この『字体の違いとデザインの違い』がどれだけ現実的に有効かということでしょう。この点で、全1万1,233文字を対象とするJIS X 0213の包摂規準とくらべると、わずか1,022文字を収録する表外字体案の『字体の違いとデザインの違い』の方が、かえって包括的とは言えないように思います。
たとえば、JIS X 0208/0213では『包摂規準連番1』(p.39)として区別しない“王”“壬(にん、ノ+士)”“壬(てい、ノ+土)”(図1)の3つの部分字体ですが、表外字体案では、この扱いが不徹底です。
『字体の違いとデザインの違い』では、【逞】(p.37、4-A-(2)の9番目)が“王”と“壬(にん)”の包摂(図2)、【挺】(p.37、4-A-(6)の3番目)が“壬(にん)”と“壬(てい)”の包摂(図3)と考えられます。
▲図1 ▲図2 ▲図3 さて、それでは“王”と“壬(にん)”は包摂されるのでしょうか、それとも区別されるのでしょうか? “王”←→“壬(にん)”、“壬(にん)”←→“壬(てい)”を、別々に分類してあることから、おそらくは包摂しないのだろうという解釈も可能です。しかし、これはあくまで“解釈”にすぎず異論のでる余地を残してしまいます。
これにより、たとえば表外字体案460番の【閏】は、印刷標準字体として門構えに“王”の字体で収録されていますが、はたして門構えに“壬”も許容されるかどうかが不明になっています。
ちなみに、幕末期から1946年にわたる23の明朝体活字の字形が一覧できる『明朝体活字字形一覧』('99年、文化庁)によれば、この門構えに“王”と“壬(にん)”のふたつが併存しています(図4)。ちなみに『道光版康煕字典』と『大漢和辞典』でも両方とも収録しています。さて、これらのうち、いずれが“いわゆる康煕字典体”(後述)なのでしょう?
▲図4(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)
しかし、それよりももっと影響力がおおきいと思われるのは、表外字体案に収録された1,022文字と、その他の表外字一般の関係が、きわめて曖昧であることです。 表外字体案のなかで数少ない例としてふれられているのは、以下の箇所です。
なお、この字体表は、芸術その他の各種専門分野や個々人の漢字使用まで及ぶものではなく、従来の文献などの固有名詞に用いられている字体にまで及ぶものでもない。(p.5『2 表外漢字字体表の性格(1) 表外漢字字体表の適用範囲』)
なお、表外漢字字体表に示されていない表外漢字の字体については、基本的に印刷文字としては「いわゆる康煕字典体」によることを原則と考える。(p.6『2 表外漢字字体表の性格(2) 対象とする表外漢字の選定について』)
たとえば、表外字体案が選定した1,022文字以外の文字をコンピューターでつかう際に、どうすればよいのでしょう? これでは、わかりません。
同様に、『字体の違いとデザインの違い』が、表外漢字一般にも適用されうるのか、それともこの表外字体案の1,022文字だけを対象にするのかについても不明です。ただ1カ所だけ、以下のような記述はあります。
また、この字体表に掲げられていない表外漢字についても、現に印刷文字として「//」の字形を用いているものについては、3部首許容を適用してよい。(p.13『字体表の見方 5』)
この記述によれば、3部首だけは、表外字体案だけでなく明確に表外字一般に及ぶようです。しかし、これ以外の字体差や字形差は、どうなのでしょう? かえって分からなくなっています。こうして、表外字体案を読んだうえで、表外字一般について起こしうる行動が、すくなくとも以下の4つになってしまいます。
(1)これからは表外字体案1,022文字以外を、〈芸術その他の各種専門分野や個々人の漢字使用〉以外には使わないことにする。
(2)これからは、“いわゆる康煕字典体”を表外字体案の1,022文字以外でもつかうために、『字体の違いとデザインの違い』のうち“デザイン差とされていない”違いを類推して表外字一般に当てはめ、字体をあらためる。
(3)これからは、“いわゆる康煕字典体”を表外字体案の1,022文字以外でもつかうために、『字体の違いとデザインの違い』のうち“デザイン差とされていない”違いでも無視し、より“いわゆる康煕字典体”と考えられる字体にあらためる。
(4)表外字体案1,022文字以外は無関係とし、従来通りとして一切手を加えない。
ここであげた(2)と(3)の違いは、(2)が『字体の違いとデザインの違い』を表外字体案の1,022文字以外においても尊重しようとするのに対して、(3)が1,022文字以外には適用しないという違いです。前述したとおり、『字体の違いとデザインの違い』の適用範囲が表外字体案にかぎるのかどうかが不明であるので、(3)のような解釈も十分に成り立ちうるわけです。
このようにして、表外字体案における最大の不明点が浮上します。それは、
【“いわゆる康煕字典体”とは何なのか、具体的に明示されていない】
ということです。表外字体案では、これについて以下のように述べてています。
印刷標準字体には、「明治以来、活字字体として最も普通に用いられてきた印刷文字字体であって、かつ、現在においても常用漢字の字体に準じた略字体以上に頻度高く用いられている印刷文字字体」及び「明治以来、活字字体として、康煕字典における正字体と同程度か、それ以上に用いられてきた略字体や俗字体などで、現在も、康煕字典に掲げる字体そのものではないが、康煕字典を典拠として作られてきた明治以来の活字字体(以下「いわゆる康煕字典体」という。)につながるものである。(p.3 『表外漢字の字体に関する基本的な認識(2) 表外漢字字体表作成に当たっての基本的な考え方』)
なんとも晦渋で分かりづらい、悪文と言ってもさしつかえない表現ですが、ここでは印刷標準字体・簡易慣用字体と“いわゆる康煕字典体”の関係について、前者が後者に〈つながるもの〉という曖昧な表現(p.3、10行目)しかしておらず、イコールのものとしては書いていません。印刷標準字体と簡易慣用字体は具体的に字体が明らかにされていますから自明ですが、ではこれらとも違うらしい、“いわゆる康煕字典体”とは、いったい如何なるものでしょう? 不明である以上、当然利用者は恣意的な、それぞれの解釈にしたがって“いわゆる康煕字典体”を考え出して使うことにならざるをえないのです。
こうして、〈実態を混乱させないことを最優先に考えた〉(p.4、8~9行目)はずの表外字体案が、結果として正反対の結果を招くものになりかねなくなるわけです。もし答申にいたっても上記の点について明確化されない場合、表外字体案の目論見とはうらはらに、かえって字体が乱立して大混乱になることでしょう。これは、絶対に絶対に避けねばならない事態です。
この表外字体案がもとめるものの曖昧さは、JIS文字コード改訂の際の対応にも影をおとすと思われます。それも、残念ながらけっして小さくない影をです。
文字コードに触れられないまま、再度紙幅が尽きてしまった。次回こそ、JIS文字コードと表外字体案の関係について述べ、完結することにしたいと思う。
◎関連URL
■「国語審議会における委員会試案のまとめについて」意見募集
http://www.monbu.go.jp/pcomment/00000104/
文部大臣の諮問機関である国語審議会は、常用漢字にない文字(表外漢字)を使う場合の指針となる『表外漢字字体表』について審議してきたが、さる9月29日『表外漢字字体表(案)』を発表し、これに対するパブリックコメントを募集している。[実際に提出されたパブリックコメントのPDFファイルはこちら(2000年11月10日リンク追加)]
(2000/10/31)
[Reported by 小形克宏]