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【解説】

WTOの電子商取引非関税宣言とは?

 いささか旧聞となるが、5月20日付でお伝えしたように、世界貿易機関(WTO)閣僚会議において電子商取引に関する特別宣言が採択された。これはインターネットを中心とした電子商取引によるソフトウェア、音声、映像などのデジタルコンテンツの国際間売買に対して関税をかけないという、現在行なわれている慣行を、当面('99年まで)は継続することを骨子としている。

 そこで、この問題について国際司法やWTOの問題を専門とするVino氏とインターネット技術一般や国際経済問題に明るいウォッチャーの矢口氏の2人が背景を解説する。


◆WTOのインターネットへの関わり

 WTOは、その前身である関税・貿易に関する一般協定(GATT)を改編する形で'95年に発足した。その大きな目的は、国際社会の長年の懸案であった多角的自由貿易を統括する国際機関として、WTO設立協定とその他の多角的貿易協定の実施を円滑にし、各協定を実りあるものとするためにある。WTOの組織は、閣僚会議と常設の一般理事会、そして物品、サービス、知的財産権の貿易的側面(TRIPS)の3つの理事会からなる。今回の宣言が成された閣僚会議は、各国の担当閣僚が参加する場であることからも、この問題の重要性は高いといえよう。

 '86年から開始されたGATTのウルグアイ・ラウンド(多角的貿易交渉)では、それまでのGATTのルールでは保護が限定されていたサービス、投資、知的財産といった各分野に関するルール構築に関し、重要な前進が見られた。近年のインターネットを利用した国際取引の増加に伴い、また技術進歩によって過去には想定していなかった新たな問題の発生、あるいはこれらの分野における紛争が生じつつある。こうした問題へのWTOの取り組みの重要性が今後も増していくのは間違いなく、そんな矢先に行なわれたのが先日の閣僚宣言だ。

 ここでひとつ気をつけなければならないことは、今回の閣僚宣言はあくまで「閣僚宣言」であり、法的拘束力をもつ「条約」とは区別されるところ。したがって、閣僚宣言の条項に違反するからといって即座に紛争処理手続きに発展するわけではないし、各国の課税権を拘束するものでもない。しかし、法的拘束力のない宣言だとしても、各国の同意が得られたという点で、また多くの発展途上国を含む多数国間の交渉の場であるWTOにおいて、このような議題が重要なテーマとして話し合われたという点で、インターネットがメディアとしてあるいは商取引の一手段として認知されているということを窺い知ることができる出来事であろう。そして、今回の宣言は、今後の電子商取引に関する国際的なルール構築の上で、きわめて重要な第一歩を築いたといえる。

 ところで、WTO自体も近年のインターネットを中心とした通信技術の変化が通商問題に与えうる影響に対応すべく、通信に関するWTOでの交渉をWebサイトにまとめてみたり、「Electronic Commerce and the Role of the WTO(電子商取引とWTOの役割)」といった研究を行なっていたりする。それらから明らかになるWTOの電子商取引に関する現在の立場は微妙だ。インターネットをはじめとした、通信技術の発達によってもたらされる潜在的な貿易の拡大が利益をもたらすだろうが、たとえばデジタルコンテンツのネット上での取引をこれまでの物品の貿易ルールと同様に扱うべきかどうかという根本的な問題に加えて、注文、決済、配送、プライバシー保護などに関する未解決の問題が多数ある、と指摘しているにとどまっている。つまり、現実の急速な進展に制度の方が追いついていないことを示唆している。

 さて、ここまで本題をよりよく理解するための補足をしたが、国際間の通商問題や通商政策一般についての知識やその変遷、あるいはWTOという組織についてより詳しく知りたい方は、たとえば、先日公開されたばかりの通産省の今年度版「通産白書」、英語、フランス語、スペイン語をいとわなければWTOのサイトを参照していただきたい。これらのサイトでは、この問題について簡単にまとめられているので、背景知識の理解やこの問題が通商問題全体の中でどのような位置にあるかの理解の助けとなるだろう。


◆なぜ、アメリカは非関税化を推進しようとしたのか

 今回の閣僚宣言は、元々は昨年の7月1日にアメリカのクリントン大統領が提唱したアメリカの電子商取引に関する基本枠組が発端となり、各国がそのアメリカの提案に賛同するという形で行なわれた。アメリカが提示した枠組とは、民間主導で電子商取引を推進、政府の電子商取引への過度の介入をやめ、電子商取引に関する世界共通のルールを確立する、といったことを骨子としている。アメリカがいち早くこの問題について主導的な役割を果たそうとした理由は、大きく分けて以下の3つが考えられよう。

 まず、アメリカなどの先進国では、関税収入が国家の収入あるいは税収全体に占める割合が低下しており、関税自体は財源として重要でない。また、自由貿易推進の観点からも関税を低くする、あるいは無くすというのが国際貿易の大きな流れとなっている。実際、アメリカはもとより経済発展が進んだ国々では、工業製品やサービス産業の関税率はゼロないしきわめて低く設定されている。そのため、税収全体に占める関税収入の割合は、たとえば日本の場合、ここ数年9%程度となっている。仮にデジタルコンテンツの国際間取引が今後増えて課税されたとしても、税率自体が低率であると予想されるため税収全体に占める割合が高くなることは起こりにくいだろう。

 次に、ネット上での商取引については、その買い手を特定するのが非常に困難な場合がある。というのは、ネット上では本人確認が完全には行なえない場合があり、代理人による売買が簡単に行なえるからだ。また、今回の問題のようにデジタルコンテンツの売買においては、購入後の国境間を越えた電子転送が容易に行なえるため、本当の買い手の国籍を特定するのは不可能とは言わないまでもかなり難しいし、関税徴収のためには正確な購入者の追跡調査も場合によっては必要かもしれない。もしもそうした監視のための費用が政府の関税収入を上回るのなら、関税をかける経済的意義が薄れてしまう。実際、こうした監視を行なうことは現状の技術では大変難しく、莫大な費用がかかるであろうから、正確な買い手の国籍調査をしてまでも関税徴収することは現実的ではない。6月にアメリカの下院で通過した、インターネットへのアクセスとサービスに対して新たに課税することを3年間禁止する法案「The Internet Tax Freedom Act」を提案したクリス・コックス(Chris Cox)議員の同法案に関する公式ページでは、法案提案の根拠の1つとして、インターネットへのアクセスやサービスが土地に縛られず州や国をまたいだり移動できたりすることを挙げている。

 そして最後に、アメリカにおける電子商取引に関わる産業界によるロビー工作の結果、その業界に有利になるような方向での国際ルール作りをアメリカ政府が推進しようとした点があげられる。それを裏付けるかのように、WTO閣僚宣言の出された翌日に、ネットワーク関連のソフトウェアやルーターで有名なCisco Systems社が自社サイトでこの宣言を歓迎するプレスリリースを発表している。そのプレスリリースでも触れられているように、Ciscoは電子商取引での受注が全体の52%をも占めるというから、電子商取引に対する関税やその他の規制がかけられることは同社の業績に直接的に影響を及ぼしかねない。そうした業界が、ロビー活動を通して政府や政治家に働きかけて、自社に不利となるような貿易体制を未然に防ごうとするのは当然のことだろう。

 結論として、アメリカ政府としては関税をかけたとしても税収という面で得られるメリットは少ない。むしろ、アメリカの将来の基幹産業となりうるソフトウェアの輸出が関税を賦課されることで価格面で競争力を失うよりは、現段階で非課税のルールを既成事実化し、将来もその体制を維持した方が得策となる。ここでアメリカ政府と産業界との思惑が一致したのだ。


◆なぜ、途上国や欧州連合(EU)は非関税化に消極的なのか

 アメリカ製のソフトウェアが圧倒的な競争力を持っている現状では、欧州を中心に自国のソフトウェア産業を育成したいという国が関税を中心とした国境保護措置をとりたいと考えるのは特別なことでない。なにも電子取引されるソフトウェアに限ったことでなく、他の製品も同様だ。自国の文化に誇りを持つフランスは、こうしたアメリカ優位の状況に危惧し、彼らの常套句である「外国からの文化流入を防ぐために」関税化を含めて規制を行なうことを将来は検討すると主張し、今回の宣言に必ずしも積極的に賛成したわけではないという姿勢をみせた。事実、今回の宣言が期限付きであるのは、フランスをはじめとする国々のこうした主張が反映されているからだ。

 また、政治経済的な側面以外に、技術的な面からもヨーロッパの国々はアメリカ主導のやり方には抵抗があるのだろう。フランス、ベルギー、ドイツではICカードによる決済、認証システムの設備投資がすでにかなり成されており、その一部はすでに実用化されている。これらの国々では、インターネットとコンピュータを利用した電子商取引システムよりは、むしろICカードのネットワーク、あるいはインターネットとICカードのネットワークのハイブリッド型によるシステム(たとえば、フランスの「e-comm」)を推し進めたいため、アメリカの技術主導で話が進んでしまうことへの危惧もあるとみられる。今回の宣言で触れられたのは、電子商取引の中でもデジタルコンテンツの取引に際しての非関税化という限られた範囲だったとはいえ、今後も技術的優位を楯にアメリカ主導で話し合いが進んでいくのなら、近い将来さまざまな取り決めや標準化が必要となる決済、認証、プライバシー保護、電子署名などの分野でも、次々とアメリカで主流となっている技術を取り入れていく方向で制度が決定されていくかもしれない。つまり、これまでの投資や制度をムダにしかねないアメリカ主導のやり方に欧州の一部の国が警戒感を顕わにしたものと捉えられよう。

 一方、途上国側がこの問題について消極的なのには、また別の理由があるようだ。先ほども説明したように、途上国では依然として関税収入が国家の収入に占める割合が高く、税収の7~8割を関税が占める国も珍しくないこともあり、関税は財源として無視できない。したがって、今回成されたような非関税の取り決めを現在の段階で世界共通のルールとして決められてしまうと、将来の関税権を制限されかねず、抵抗があろう。 また、途上国の中でもソフトウェア産業の成長が著しいインドなどの政府は、ソフトウェア輸入に際して支払う通常の関税とは逆に、ソフトウェアの輸出に際して輸出関税をかける余地を残しておきたかった、ということも考えられる。さらに、電子商取引を利用できる層が途上国ではまだまだ限られているために、同じものを輸入するのに取引形態によって課税されたり、されなかったりといった不公平さもあげられ、このような事情が今回の宣言を期限限定のものにとどめた大きな理由となった。

 ところで、電子商取引の問題に関する日本政府の立場はどうだろうか。基本的には、アメリカ政府と変わらないと考えていいだろう。たとえば、先日の閣僚宣言発表を前に日米両政府が共同歩調をとるという声明が発表されているのを見ればわかる。ここで日米が一緒に推進しようとしてることは、昨年7月のクリントン大統領の演説と大きく変わらない。また財界も、7月12日から行なわれた日米財界人会議の場で、電子商取引のルールについては民間主導でルールを確立し、ガイドラインを作成するという基本方針を確認し、この問題では政府との足並みは揃っている。


◆アメリカのさらなる狙いは

 この問題において、アメリカのクリントン政権の政策決定に大きな役割を果たしているのが、大統領の側近でインターネット担当のアイラ・マガジナー(Ira Magaziner)だ。彼は、元々はアメリカ北東部のロードアイランド州のビジネスコンサルタントで、そこでの手腕を買われてクリントン政権第1期の懸案であった健康保険改革に携わっていた。これまで彼が手がけてきた一連の仕事では、州政府のものであれ連邦政府のものであれ、その政策の実施にあたっては政府主導で政府の介入を認めるところに特徴があった。しかし、今回の電子商取引の問題についての彼の政策策定は、民間主導の自由競争を活かす方向で成されており、これまでのやり方とは大きく異なる。

 また、彼の発言を読みかえしてみると、電子商取引の非関税化という既成事実をつくることだけがアメリカ側の真の狙いではないように思える。先ほどあげたアメリカの電子商取引に関する基本枠組でも述べられているように、アメリカは電子商取引全般での自由市場メカニズムをもとにしたルール作りをめざすとしており、非関税化の問題はその中でアメリカがあげている重要な9つの問題の1つに過ぎない。そのことはマガジナーがオンライン、あるいは既存のメディアとのインタビューを通じて主張していることからも明らかだ。TechWebのインタビューでも、その点を強調しており、政府介入なしに民間主導で、認証、電子署名といった電子商取引の際に重要なインターネット技術の標準化の推進を行ないたいと述べている。日本ではあまり馴染みのないマガジナーだが、今後の電子商取引の進展を占う上でも、彼の発言にはますます注目する必要があるだろう。

('98/7/28)

[Reported by yuy@ibm.net / Vino]


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