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ニュースや雑誌に頻繁に登場する国でも、その生活事情やIT事情は案外知られていないものです。あまりなじみのない国だったら、なおさらです。この連載では、世界各地にお住まいの方から、生活者の視点で見たインターネット事情や暮らしについてレポートします。
イラスト・Nobuko Ide
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私は現在、タイ第2の町といわれる、チェンマイから東へ30kmほどのところにあるフアイサイ村で日本語教師をしている。村の人口を確かめたことはないが、人が亡くなった際に各家庭から20バーツずつ集め、葬式の費用に充てる“サマーチック”(会員の意)という一種の共済制度があり、その金額がおよそ2万5千バーツであることから、だいたい1,200軒前後の家屋があると推測される。村の住民は現在ではタイ人に同化しているが、もともとはビルマの方から移住してきたヨーン族と呼ばれる民族だ。
私がバンコクから妻の実家があるこのフアイサイ村に移ったのが1996年の1月だった。日本では地方都市に住んでいたこともあり、バンコクの大きさや便利さ(たとえば24時間走っている市内バスや、24時間利用できる銀行ATMなど)にしばしば感動したものだが、この村は田舎過ぎた。電話線もなければ、水もしょっちゅう断水するし、停電も日常茶飯事。それでも6月になって雨季に入り、村人が一斉に田植えを始めると、その光景は私の故郷の佐賀を思い出させ、何千キロも離れたタイと日本が稲作という共通の文化圏の中にあることを感じ一人感慨にふけるのであった。
仕事や日本の家族と連絡をとる必要もあり、当時は高級品だった携帯電話を購入することにした。当時のものは戦争映画に出てくるトランシーバー並みの大きさで、その巨大なバッテリーも一日しか持たなかったので、遠出するときは弁当箱の様なバッテリー充電器も持って歩かなければならなかった。近くに中継所がなく、電波も微弱だったので、6メートルの水道管を使ってアンテナを立てた。夜間、蛍がどこからともなく集まってきて、蚊帳の中で点滅する黄緑の電話の光に呼応するのはとても幻想的ではあったが、6本あるインジケーターの半分にも届かない電波では余り使い物にならなかった。
ところがその年の10月頃だったと思う。いつものようにため息交じりに見ていた電話のインジケーターがバババーンと上昇し、感度ビンビン胸ワクワクの状態になったのだ。後で近くに電話中継のアンテナが立ったことを知り、嬉しさの余りバイクを走らせわざわざ見に行った。このときから私の村の文明開化が始まったのである。
話はちょっと脱線するが、今では故人となった私の義父がいた。いつも飲んだくれて家内を心配させていたが、日本とかいう国から来た私のことを可愛がってくれた。素面の時は恥ずかしがって一言も口をきかないのだが、影で私のことを心配してくれているのがよく分かった。家内によれば義父は悪霊払いをする祈祷師だったようで、時々村人に請われ、どこぞやに出掛けていたようだった。そういうこともあって、水道管のアンテナのところに線香が二本、三本と落ちているのを初めは気にも留めなかったのだが、それが何度も続いてさすがにおかしいと思い始め、よくよく考えているうちに、もしかしたら義父ではないかと思い妻に聞いてみた。妻は一笑に付したが、私は多分間違いないと思い義父に聞いてみるように促した。やはり私の考えは当たっていた。義父は悪い精霊が高いアンテナを通じて私達夫婦の家に入ってこないように、こっそり祈祷してくれていたのだ。今から5年前の年末のことであった。
稲刈りの風景は古き良き日本の姿と変わらない | 最初に利用したモトローラの携帯電話。遠出の時にはこの一式を携帯… | 村にある、精霊を祭る祠 |
●タイにインターネットカフェが増えた理由
定期的に原稿を書く必要があり、1997年からは日本で購入していたワープロを使い始めた。コンピューターにも興味はあったが、当時は必要性もなかったし、難しそうでなんとなく敬遠していた。だが3年前の某日、頼みのワープロの印刷部分が壊れ、修理屋に見せたが口を揃えて断られた。大慌てでチェンマイのデパートや電気屋でワープロを探したが見つからなかった。残された選択肢はコンピューターを購入することだけだった。
このころ、インターネットカフェはチェンマイ市内にもたくさんできていた。多くの外国人が泊まる街の中心部では1時間60バーツぐらいと高かったが、チェンマイ大学の近くに行けば1時間15バーツ(1バーツ3円弱。バンコク銀行為替レートを参照)ほどで電子メールやネットサーフィンを楽しむことができた。このインターネットカフェは短期間で爆発的に増えたが、日本に比べ物価の安いタイでは、コンピューターを購入できるのは一部の裕福な階層に限られることも増加の一因ではある。だがそれより、新しい技術を受け入れる柔軟な姿勢が、若者はもちろん、ちょっと年配の人の間でも見受けられることが、増加の要因だったように思う。そういうわけでコンピューターに疎い私も、電子メールを送ったり、Webサイトを覗くぐらいは知っていた。
しかし、必要に迫られていたとはいえ、日本のようにしっかりとした保証制度がないタイで、コンピューターのような高い買い物をするのは勇気が要った。しかもコンピューターのコの字もわからない私である。速さがどう、メモリーやハードディスクがどうのと言われてもチンプンカンプン。自分が買った機械が本当にその部品で組み立てられているのか、確かめる術もなかった。タイではPCショップの技師が組み立てたPCを売っていることが多く、当時の自分はメーカー品を買えばよいことも思い浮かばなかったのだ。
そうしたある日、私が手伝っていたエイズ患者救済団体の西洋人スタッフから信頼のおける技師がいることを聞き、最終的に彼にお願いすることにした。彼は私の家までコンピューターを持ってきて、最初にスタートボタンを押すことから教え始め、一つずつ時間をかけて丁寧に説明してくれた。だが、私はただ頷くしかなく、彼が説明してくれたことを何一つ覚えていなかった。回りに聞く人がおらず参考書もないという環境で、私の格闘が始まった。以前は3日ほどで仕上げていた原稿も、どのボタンを押せば良いのやら、罫線がずれたと言っては全部初めから書き直して、何日も何日もかかった。
●選挙とともにやってきた電話回線
その頃には自宅に電話回線も来ていた。それまで私を含めた村人は、有線の電話がくるのを心待ちにしていた。私の村は県境にあり、隣のチェンマイ県から電話回線が引かれてくるという噂を聞いては一喜し、そのことを聞いたランプ―ン県の役人との間で一悶着が起こって結局この話が流れたと聞いては一憂した。その後も悶々とした日々が続いたが、ついに、国会議員の選挙と共に、その日がやってきた。選挙対策の一環で私の村を縦断する公道が拡張され、アスファルトが打たれた。道路に沿って立派な電柱が次々と立てられ、ついに電話線が設置された。それまでは高い郵送費を払い1週間以上かけて原稿を日本に送っていたのが、一瞬で日本に送れるようになったのだ。必要な情報もインターネットで採集できるようになり、陸の孤島が世界に繋がったのを心底実感した。
プロバイダーは少々高くとも信用が置ける会社ということで、台湾人のキリスト教宣教師の勧めで「loxinfo」をずっと利用している。独占体質のタイ社会でも、時代の流れは確実に競争に向かっており、接続料金も軒並み安くなった。ちなみにタイでは市内電話料金は何時間かけようが一回3バーツで、電話料金の心配をしなくてよいのが嬉しい。私の家からプロバイダーがあるランプ―ン市まで30kmほどあるが、それでも市内電話料金が適用される。この安さのため、日本語の生徒だったチェンマイ大学の女学生が友達と夜間電話で話し始め、電話を切る頃には空が白み始めていると話すのを驚くやら呆れるやらで聞いたことがある。テレビでも長電話を止めましょうという公告が流されるくらいだ。
たまに手に入る日本のコンピューター雑誌では、日本は今ブロードバンドやADSLと話題が花盛りのようだが、私のコンピューターの接続速度は28.8kbpsほどで、速くても32kbps程度だ。このタイの田舎のランプーンでもISDNが導入されたと聞いたので、電話局まで聞きに行ったが、利用できるのはランプ―ン市と私の村の途中にある、タイ語でニコムと呼ばれる工業団地の中だけの話らしい。ニコムには日系企業もたくさん参加している。
プロバイダーから発されるアナログ信号は、このニコムを通り過ぎ私の村に辿り着く頃には息も絶え絶えのようで、始業時間の朝8時になるともう全然だめ。ブチッと言う音こそはしないが、無残にも回線は切れてしまう。しかし、最善の環境ではないにしても、この辺境の地でインターネットに接続できる幸福は、大変価値のあることだといつも思う。世界各地の知人・友人とリアルタイムで連絡が取れるなぞ、想像だにできなかったことなのだ。
また選挙の話になり恐縮なのだが、前回の選挙の際、田舎の農業従事者がインターネットで生産のための情報を収集できるよう、各村にコンピューターを設置すると公約した政党があった。スイッチの場所さえ知らない彼らがどうやって活用するというのか、その余りにも現実離れした発想に私は唖然とし、不遜だがもっと彼らのためになる有効な税金の使い道はないものかと憤りも覚えた。……そして現在、私の隣村の郵便局には、新品のコンピューターが設置されている。利用料もとても安い。しかし、何時行っても人が座っているのを見たことがない。この経済の状況下で多額の投資をしたのだから、ほったらかしにしないで大いに宣伝に努めてほしいと思う。確かにハードウェアを最初に揃えて、ともすると閉鎖的な田舎の住民の意識を変革していく方法もあるかもしれない。なんにしても統制を受けず自由に真実に基づいた情報を収集できる権利こそが民主主義の根幹であると信じるからだ。
大手流通産業や接客産業などの外国からの投資で、特に都心部に住むタイ人の意識は、急激に変化しつつある。あと5年もすれば、現在とはまったく異なる社会構造の中で生きていくことになるかもしれない。現実社会の発展は時には人類の予想をはるかに越えることもある。
そんなことを考えながら、今日もまたモニターに向かい左クリック右クリックを繰り返す私であった。
郵便局のPC。いまだ使われている様子はない | 選挙の産物の1つとして作られた火葬場 |
◎執筆者紹介◎ もりた・さむえる (3?歳) 1993年、日本語教師に憧れて来タイ。妻と知り合いタイに居着く。最近は野菜作りに専念。2002年の初めには村に語学教室(Rainbow Language Center 通称R.L.C)を新築する予定で、将来は“タイにR.L.C.あり”と言われるような語学施設を目指し、日本語教育に情熱を注いで行きたいと願っている。 ※タイ編はgensanと森田さんが交代でお送りしています。 |
(2001/11/02)
[Reported by 森田覚偉霊]