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神戸の事件があらわにしたこと(その4) (97/10/07)
神戸事件に関するコラムの最後として、マスコミということについて考えたい。今回の事件に関わるインターネット上のアクションを見ていると、終盤の方では朝日新聞批判(*1)が一人歩きし、結局その話題で収束していった感があった。私の気持ちを正直に書けば、そこはこの事件に関わる問題のメインストリームではなかったと思う。もっと他に戦うべきところはあったと考える。
なのに、なぜ朝日新聞批判だけが一人歩きしたのだろうか?
*1:朝日新聞が、容疑者の実名と思わしきものが掲示されているプロバイダーに対して取材したことをきっかけに、ホームページの閉鎖が行なわれたため、「朝日新聞が圧力をかけてホームページを潰した」として騒がれた。後に該当プロバイダーと朝日新聞の両方から事実無根であるとの反論がなされた。
簡単に言えば、それは攻撃する対象が明確だったからだ。「マスコミの横暴」「プロバイダーへの圧力」「一方的な正義感」。こうしたフレーズは、私たちの意識を高揚させる。批判の対象となるマスコミは、多くの場合は有名企業だし、多少叩いたところで壊れようもない強力なものだ。だから、ある程度オーバートークで非難したところで、問題となることはない。しかも、言論の自由という御旗にはとても弱いので、どんな事を言っても、だいたいの場合は沈黙しているだけで反撃されることもない。さらに、有名メディアを敵に回したキャンペーンは、それ自身がブランドである。名も知れぬ企業を非難するよりカッコイイ。
一方、神戸の事件に関わる事象を正面から議論し始めると、まず誰を相手に議論すれば言いのか分からない。しかも、何を議論していいのか分からない。無制限な言論の自由が、他人を傷付ける可能性があることは誰の目にも明らかだが、だからといって誰かの倫理観で言論の自由を制限するなんてことはナンセンスで、一体何を頼りにしていいのか分からない。さらに、議論を始めると味方が敵になってしまう可能性もあり、格好が悪いどころか非難の対象にもなりかねない。
今回の、朝日新聞批判が的外れなものであるとまでは言わないが、必要以上に強調されすぎたのではないかと考えている。真実は結局薮の中だろうし、当事者たちが否定している以上、それからの追求に大きな意味はないだろう。また、事態を冷静に見れば朝日新聞にホームページ潰しの意図はなく、取材の際のコミュニケーションの問題だと考えるのが妥当だろう。
なぜこうも、「マスコミ」は繰り返し非難の対象となるのか?それは、マスコミが強力な影響力を持っているからだ。マスコミが騒いだために株価が下がるとか、あまりに一方的であるという選挙予想が、かえってその党に対して不利に働くなどは良く言われることだ。週刊朝日の「恨ミシュラン」というコーナーの漫画に「お金はないけど、媒体あるもんね」と接客態度が悪い店に捨てぜりふを吐くシーンがあった。まさに、マスコミがどういう権力を持っているかを端的に言い表しているといえる。お金のように強制力はないが、一般の人々への影響力という意味ではまさに無敵の権力を持っているのだ。
これが、有名店や政治家、企業に向けられているうちはまだいい。しかし、個人に対して向けられたときには、使い方を間違えればまさしく「権力者」として君臨することになる。冤罪などは言うに及ばず、実際に犯罪を犯している場合でも報道されてしまえば、個人は壊滅的な影響を受ける。本当に出来心で初犯であったとしても、いかにも悪人といった印象の報道がされれば、おそらくその人は一生立ち直れないダメージを受けるだろう。
だからこそ、マスコミは今回のように不当な権力行使の疑いがあれば、すぐに非難されるのである。強力な権力者の「マスコミ」と無力な「一般市民」という構図がこうした、マスコミ批判のベースとなっているのである。
しかし、こうした構図は、インターネットの到来とともに、絶対的なものではなくなってきている。今回の件で興味深いのは、インターネット上の朝日新聞批判に対して、朝日新聞がホームページ上とは言え、公式に反論した事である。これは、朝日新聞自身が「インターネットの朝日新聞批判には我々にダメージを与えるほどの影響力がある」と判断したと考えていいだろう。
確かに、今のインターネットはテレビや新聞、大手週刊誌などに比べると読者数は少ない。だが、たとえばコンピューター関係の専門書籍の数千部という初版部数に比べると圧倒的に多い読者数を抱えているWebサイトや電子メール新聞は結構ある。マスコミもピンからキリまであり、少なくとも超巨大なメディアを除けばインターネットで十分対抗可能なのである。
こうなると、インターネット(というよりその上で展開されているメディア)は十分「マスコミ」の資格を持っているといえる。そして、結局は自らが権力者となっているのである。それは、インターネットを使っている人自身が、「マスコミ批判」そのものにさらされる可能性があるということであり、また間違いを犯せば罪もない他人を傷つけてしまうということでもある。
今までは簡単な構造であった。我々は「情報弱者」であり、マスコミは「権力者」であった。だから、「批判」さえしていればそれで問題がなかった。少々、いや大きく的外れの批判をしていてもだれも問題にはしなかったし、実際に影響力はなかったのだ。しかし、インターネット時代は複雑である。確かに、いまだに「巨大マスコミ」との間では相対的に権力の差はあるものの、無制限に「情報弱者」であることは主張できない。うまく組織化すれば、十分にマスコミに対して影響力を持てるし、そうなれば大きく的外れな批判は問題となるだろう。ましてや、他の個人や中・小のマスコミとの間では力関係が逆転する可能性もあり、そうした純粋な個人から見ればインターネットは十分に「情報権力者」なのである。
そう考えれば、神戸の事件に関わる問題の本質は一体何なのか見えてくるはずだ。それは、「情報弱者」対「マスコミ」の対立軸ではない。容疑者やその家族・関係者という「情報弱者」とインターネット利用者という「情報権力者」という対立軸の問題なのである。
「情報弱者」から「情報権力者」になったことは、基本的に喜ばしい事だ。本当の意味で、「巨大マスコミ」への影響力を持った批判が可能なのだから。しかし、同時に情報権力者としての覚悟をしておく必要もある。都合の良いときに「情報弱者」になって問題から目をそらすようなことはしてもらいたくない。特に、我々よりも情報発信できない本当の意味での「情報弱者」に対して、一方的な権利侵害のないように慎重になることが必要である。
[編集長 山下:ken@impress.co.jp]