【連載】

社会学の理論で斬る「ネットの不思議」

第3回:「ネット読書」の不思議
-ページをめくらない読書は読書なのか-

【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。

インターネットで本が読める時代

 「青空文庫」というサイトがある。著作者の死後50年を経て著作権が切れた本のデータをアーカイブとして保存、公開しているサイトだ。今でこそたくさんの本がオンラインで読めるようになったが、同サイトも公開当初はほんの一握りの本しかデジタル化されていなかった。

 「青空文庫」を支えているのは、「青空工作員」と呼ばれる有志の活動だ。わずか数人で始まった彼らの活動は、オンラインでメンバーを増やし、現在では数十人の人間が参加する規模となった。

 インターネット上で閲覧できる本のデジタル化に対して、みんなが本を買わなくなる、タダで読める本なんて本の価値を貶める、といった批判がある。しかし、彼らが目指すのは、意外にも価値ある本の復権である。マンガの発行部数に比して、凋落する一方の活字文化を盛り上げるためには、出版されたものをお金で買うという形にこだわることは、必ずしも最善の策ではないというのが彼らの考えのようだ。

「知」のアーカイブ化

 また「青空文庫」には、現在出版されている本であっても、著作者が金銭的な見返りを求めないと考えるものも収録されている。つまりここでは、ソフトウェアの世界で言われている「オープンソース」の手法が、オンライン出版という形で実現しているのだ。ちなみに、ソフトウェアにおけるオープンソースの代表格、Linuxについての書籍『伽藍とバザール』(エリック・レイモンド著、山形浩生訳)も「青空文庫」に登録されている。この本は実際に光芒社から出版されているものだ。

 書籍のオープンソース化が我々にもたらすのは、オンラインで先達の知識を共有できる「知」のアーカイブ(書庫)である。企業内におけるナレッジマネジメント、「情報」と「デザイン」を分離してデータを管理するXML、そして独自の重み付けを持った検索サイトgoogleの登場など、ネットワークを利用した情報共有システムの発達は我々に、誰でもが、どこからでもアクセスできる広大な知のアーカイブを提供する。デジタル化された情報であれば、最新の物理学の成果から東京のおいしいお店まで、パソコンの端末を通じて検索が可能であるのも、このようなシステムと、デジタル情報の管理をしている「青空工作員」などの地道な努力のおかげだ。

読書という身体技法

 オンラインに「書物」があるということは、単にパソコンで本の内容が読めるということだけを意味しない。そもそも読書とは、読み込んだ情報を自分の内面に再構築し、固有の世界を作り出すことであり、この作業が自我の確立につながるのである。オンライン読書は、この「読書」という身体技法を大幅に変更する可能性があるのだ。

 永嶺重敏氏の『雑誌と読者の近代』 (日本エディタースクール出版部) によると、明治期に日本人の読書は大きな変化を経たのだという。それまでの読書というと、文章を声に出して読む「音読」が中心的であったのだが、明治を経て、本を一人で「黙読」するというスタイルが一般的になっていく。

 黙読が可能にしたのは、「テクストの内面化」による、自分だけの内的世界=近代的自我の確立であったというのが、社会学における読書論の一つの主張である。ここで重要なのは、書かれている内容以前にそれを「読む」という身体技法自体が独特の機能を果たしているということだ。

 子供の頃を思い出して欲しい。自分の親に、枕元で絵本を読んで聞かせてもらった経験がある人が多いと思う。小学校の頃でも国語の時間など、授業中に教科書を読み上げることから授業が始まったはずだ。しかし我々はいつしか、一人で本を「黙読」するという技法を身につけていく。そしてその内容を自分なりに処理して内面化していく。そのための練習が、夏休みの宿題の定番だった「読書感想文」だ。あれは、一冊の本をじっと座って「黙読」し、感想という「自分の内面」を築き上げるための訓練だったのだ。

本が死ぬところ暴力が生まれる?

 我々が自我を確立していくにあたって、書物を黙読するという技法を習得することはとても大事な条件の一つだ。ではオンライン読書が普通の読書にかわって台頭してきた時に、この技法はどうなってしまうのだろうか。パソコンの画面という読書としての使い方を想定していないデバイスで、集中して一冊の本を読み上げるという行為が成り立つのかどうか、懐疑的に感じる向きもあるだろう。知のアーカイブ化という側面を持つオンライン読書では、情報が必要な時にアクセスすれば事足りるので、テクストの内面化と正反対の「知の外部書庫化」を促進する面もあるだろう。

 紙にプリントアウトしたり、PDAなどの手持ちの端末にダウンロードしないで、純粋にインターネット上でするページをめくらない「読書」は、テレビを見ることと近いかもしれない。加えてメディアを研究している一部の論者には、テレビの登場によってじっくりと腰を据えて行なう読書の技法が重視されなくなったことを問題にしている者もいる。テレビのように、気に入らなかったらチャンネルを変える、あるいは次々といろんなチャンネルを視聴するザッピングが可能になるメディアが生活に浸透してくると、じっくりと本を読んで内面を作り上げるような読書が成立しなくなるのではないかと彼らは言う。

 バリー・サンダースの著作『本が死ぬところ暴力が生まれる』(新曜社)は、その極論とも言うべき本だ。彼によると、自我を作り上げていくために必要なプロセス、読書の文化を身につけることのなかった非識字者は、識字者に比して暴力を振るう率が高いのだという。

 若者のギャングなどに非識字者が多いことと、文字を読む文化を身につけていない人間が暴力を振るう人間になることが同じでないのはもちろん、非識字と暴力の因果関係を立証できないなど、社会科学的にはお話にもならない本だが、私の社会学的な関心は、むしろなぜこのような議論が繰り返し提出されるのかという方向にある。

 おそらく、新奇なメディアが登場することと、それまでのあり方では理解できないような若者たちが登場することをどうしても結びつけて考えたくなる、世の人の不安がそうさせているのだろう。それまでの常識が通用しなくなって人々がどうしていいか分からない状態になることを、社会学では「アノミー」と呼ぶ。このようなアノミーの状態に陥って、それまでの常識の範囲内で物事を理解しようとしたときに、読書の技法を身につけていないから暴力を振るうのだという、それ自体が暴力としか思えないような話が出てくるのではないか。

「オンライン読書」は果たして読書なのか

 このように、若者が本を読まなくなるとか、オンラインで本が読めるようになるとか、そういったことで我々が前提にしていたような「近代的自我」が一気に崩壊・変質してしまうという議論には、今のところ確固たる根拠はない。ネットワークの発達で人の生活が変わることと、人間がそもそも変わってしまうことは別のレベルの問題であるからだ。この種の議論にはむしろ先に挙げたような「不安」が多分に介在しているといえるだろう。

 まして現段階では、オンライン読書が主流のスタイルになるかどうかも不明だし、もしそうなったとしてもそれが「読書」の代わりとして機能し始めるかも非常に怪しい。先に述べたように、「読書」と「オンライン読書」ではそもそもその身体技法が大幅に異なるように思われるからだ。さらに、さまざまなメディアに触れて生活している現代の私たちにとって、オンラインでザッピングをしながら読む本が内面を構築し得るほどに重要なメディアになるかどうかも非自明である。

 むしろ私の関心としては、オンライン「でも」本が読めるようになることで我々の生活がどのように変化するだろうかということにある。読書の変化そのものは、明治期における生活全体の大きな変化の一つだったのだが、それと同じように、オンラインにアーカイブ化されたデータを「読書」する事が可能になることで我々の生活は変貌してしまうのだろうか。

 個人的な見解を述べさてもらうなら、オンライン読書はそれまでの「読書」とはまた違った意味での読書技法を我々に提出することになるだろう。それが「知」のアーカイブ化であると私は考える。フリーソースの、アーカイブ化された知識を我々がネットで共有できるようになり、それがオンラインからいつでも引き出し可能になることで、読書そのものというより、「何を読むか」という部分に関わる選択が変わって来ざるを得ない。

 その時にかつての読書が前提にしていた「面白くないものでもひとまず読んで内面化する」といったようなプロセスが変化するのか。一冊の本を、暗い蝋燭の明かりの下で読んでいた時代に想定されていた自我が、オンラインのアーカイブを「読書」する事でどのように変わっていき、あるいは変わらないでいられるのか。オンライン読書はその過程のほんの入り口にすぎない。

■お薦めの一冊
佐藤健二『読書空間の近代』 (弘文堂)
 →「読書」について広範な考察がされている。また、本編でとりあげた読書を含む明治期の生活全般の変化を見る上では、柳田国男『明治大正史・世相編(上・下)』(講談社学術文庫)もおすすめしたい。

◎執筆者について
 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。ハードな政治思想から、若者文化に至るまで幅広く研究しているが、その様は「ミニミニ宮台君」と言われても仕方がないのではないか・・・という声も。

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(2001/6/5)

[Reported by 鈴木"charlie"謙介]

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