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【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。
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大阪教育大学付属池田小学校で発生した児童殺傷事件に関する報道が連日続いている。社会的な衝撃も大きく、真相究明を求める声が高まっている中、この事件をモチーフにした「ゲーム」がインターネット上に登場、警視庁からの勧告でサーバーから削除された。
このようなゲームは今回が初めてではない。オウム事件の時も同じようなことがあったし、酒鬼薔薇事件の時には子供たちの間で「酒鬼薔薇ごっこ」が流行って問題視されたことがある。今回、なぜこのような騒ぎがたびたび起きるのかを考えることにしたい。
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まず強調しておかなければならないのは、こうした「悪趣味」なゲームが登場することは、決して珍しいものではないということだ。Macintoshユーザーの間では「ビル・ゲイツの首が飛ぶ!」といったソフトが雑誌の付録にまでなっているし、「残虐ゲーム」はフリーソフトの一つのジャンルでもある。こういうソフトを専門に扱っているサイトもあるほどだ。
そもそも池田小学校事件にしても、マスメディアは事件現場の詳細を事細かに報じ、どのようにして犯行に及んだのかを我々に日々知らしめている。残虐事件があると必ず取りだたされる、事件のモデルになったと推測される映像メディア(ゲームやマンガ・アニメなど)まで含めて、我々の周囲は「無害な」残虐さに取り囲まれているとも言えるのだ。
ここで言う「無害」とは「有害コミック規制」に現れるような、青少年の育成にとっての無害/有害というコードのことではない。もっと一般に社会的な有害/無害を決定するコードのこと、すなわち、「マスコミ報道はOKだが悪趣味ゲームは文脈によってはダメ」という分類を決定する基準のことだ。
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では、その基準は一体誰によってどのように決められているのだろう。古典的な社会学ではそこに「価値」や「規範」といった説明項を持ち込んできた。すなわち、ある集団の成員の中で共有された考え方がそれを決定するのだと。だから「有害/無害」というコードはその基準を決定するのみならず、その基準を共有しない成員をも「有害」として排斥する機能を有している。たとえ悪趣味ゲームの作者が付属したマニュアルに書いたように、彼が事件に憤りを感じてこのようなソフトを作成したのだとしても、社会的な「有害/無害」のコードを共有していないと見なされれば、今回のように排斥されることになる。
しかし現代社会においては、社会の価値や規範がそのまま適用されて「有害/無害」が決定されるとは言い切れない状況が生じている。それがマスメディアの存在だ。マスメディアの社会学的研究の中で大きな力を持ってきたのは「効果研究」すなわちマスメディアは受け手に影響を与えるのか、与えるとすればどのようなものか、という研究だ。そこで注目を集めている仮説に「アジェンダ設定」というものがある。
「アジェンダ設定」とは、マスメディアの効果を、AないしBという考え方に人々を「洗脳」していくという考え方=強力効果論に対し、「AかBか」というアジェンダ、すなわち「議題」を設定する部分においてマスメディアの影響力は大きいとする仮説だ。今回の件に関して言えば、メディアがこのゲームをフレームアップすることで始めて「是か非か」という問題が発生したとも言えるのだ。
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ここまでの説明は「なぜ悪趣味ゲームが問題になるか」という話だった。ではここで一度、問題の是非を離れて、このような悪趣味ゲームが繰り返し登場することの社会(学)的な意味について考えてみよう。
同じ事を全く関係のない他人が繰り返すということは、繰り返し登場する事象や人間の個別の動機(なぜそんなことをしたのか)だけを問うても見えない「何か」が関係していると考えられる。そして、その「何か」が「社会」であると社会学は考える。つまり個人的・個別的だと考えられる社会現象の背後に、その個別性を越えた「社会」の影響を見て取るのが社会学の営みであるのだ。
よく知られる例として「自殺」がある。「自殺」は通常個人的な出来事だと考えられている。しかし、現代の日本で50歳代の男性の自殺が以前に比べて大幅に増加しているという事象に対して、それは個別の事情を越えて、不況とそれに伴うリストラや先行き不安が働き盛りの中高年をして自殺へと動機づけると考えることが多い。このような考え方をすることで「自殺」は初めて「社会現象」として捉えられるようになるのだ。
しかし、それは「社会」という固定的で実体的な何者かが我々に「自殺しろ」と命令していることを意味しない。不況・リストラ・先行き不安といった、それ自体も「社会現象」であるような事象は、突然宙から降って沸くのではなく、何らかの人間関係へと還元される発生源を持っている。
ここまでの連載で「人と人」の関係を殊更に強調してきたのは、社会学が扱う「社会」が究極的にはそのような人間関係と、そこから生まれる事象の両方を含み込んでいるからである。社会現象だけを見ていっても、個別の人間関係だけを見ていっても「社会」は理解できない。「悪趣味ゲーム」が繰り返し登場する原因を考えるには、個別的な側面(なぜそのようなゲームを作るのか)と社会的な側面(なぜこのようなゲームが繰り返し登場するのか)の両者の関係を見抜かなければならないというのが、社会学的な発想法であるといえるだろう。
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「悪趣味ゲーム」が繰り返し作成される動機付けは個別にはそれぞれ存在するし、それに応じた条件や背景も存在するだろう。しかし社会的な衝撃度の大きい事件の後に決まってこのようなゲームが登場するのには、それぞれの個別の理由を越えた社会的な動機付けがその背後に存在することを見落としてはならない。
ではその社会的な動機付けとはなんだろうか。私の考えではそれは「残酷さの昇華」という動機である。我々の社会の根幹を揺るがすような残酷さを伴う事件は、それ自体なら本来、先に述べた排除の機能が働いて覆い隠されてしまうようなものである。しかしながら繰り返されるマスコミ報道は、この種の残酷さを「どこにでもありうるもの」として我々に提示することになる。そこで人々は、自分の住む社会を「安全」だと再び認識するために、「残酷さ」をある種パロディにすることで、「残酷さ」そのものを二次的に排除するのだ。簡単に言えば、こういうゲームが登場することで自分は安全圏にいるのだと再確認できるということなのだ。
社会学が成立し、発展してきた19世紀という時代は「啓蒙的理性」の失敗の時代でもあった。近代以前の間違った考えを正し、人々が理性的になればよりよい社会が築けるはずだという啓蒙思想は、歴史的にはフランス革命の失敗によって頓挫した。かわって登場したのは、近代的理性を越えて人々に影響を与える仕組み=社会の仕組みを読み解いていこうとする「社会学」であった。
社会学はその興りからして、個別の動機づけ(=なぜその人はそのように振る舞ったのか)の背景に社会的な理由(=何が人にそのようにさせたのか)を読み解くことを一つの目的にしてきた。人々が通常「非常識」だと考え排除するような「悪趣味ゲーム」が、実は社会を生きる我々にある機能を果たしている事を明らかにするのが、社会学的分析の意義なのだと言えるだろう。
■お薦めの一冊
エミール・デュルケム『自殺論』
→今回取り上げた自殺の話の分析は、この本で初めて提示された見方である。社会学的発想の古典として、是非読まれるべき一冊だろう。
◎執筆者について 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。ハードな政治思想から、若者文化に至るまで幅広く研究しているが、その様は「ミニミニ宮台君」と言われても仕方がないのではないか・・・という声も。 |
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(2001/6/19)
[Reported by 鈴木"charlie"謙介]