【連載】

社会学の理論で斬る「ネットの不思議」

第9回:「個人サイト」の不思議2
-あなたはプライバシーを売り渡せるか-

【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。

「日記」というコンテンツ

 前回私は、個人サイトの開設・維持の動機付けとして「有名性」への志向、つまり彼らは「匿名的=他の誰とでも交換可能」な近代社会に生きる「この私」として認められたいということがあるのではないかと述べた。そこで公開される「私」は、例えば日記という形で登場する。しかし、これまでネット上で「日記」を公開することの意味について論じられたことは少ない。

 ホームページの定番コンテンツといえば、個人のサイトから芸能人のサイトに至るまで、プロフィール、日記、BBS、リンクなどが挙げられる。「他の人と繋がる」ことが目的である後ろの2つに対して、プロフィールと日記は「私が何者であるか」を紹介するコンテンツだ。このコンテンツの構成そのものに「私」と「他者」を繋ぐ場所としての“ホーム”ページという特徴がよく現れている。

 日記が「この私」として承認されるための重要なコンテンツであることは、前回の議論から理解できる。しかしながら、それが社会にとってどのような意味を持つのか。今回のコラムでは個人サイトを「社会」の側面から見ていきたい。

公開される「個人的な日常」

 前身である「日記猿人」時代から人気のあったサイト「日記才人」には、内容・地域・職業などでカテゴリー分けされた無数の「日記」がリンクされている。このサイトも「投票」制を採用していて、リンク先の日記には投票ボタンが付けられている。日記の中は、風俗嬢の日記といった通常我々が知りえない世界について教えてくれるものもあるが、大抵は「今日起きたこと」や「思ったこと」が綴られているだけだ。

 そのような日記は決して「くだらない」ものではない。ただ「あまりに個人的な出来事」なのだ。ある女子高生の日記では、つい今しがた別れてきた彼氏のこと綴っていた。彼女は、彼氏にとって自分が欲望の捌け口でしかなかったことをよく知っている。そのことを述懐して、自分の体の「『モノ』性」に気づく。「私は彼にとって『モノ』以上のものになりえないのか。だとしたら、駅で『援交』を持ちかけてきた男に体を売ることに抵抗する理由があるのか」と、何が悲しいわけでもないのに涙を流す。この種のリリカルなもの思いは、それ自体は思春期に特有なものかもしれないが、同時に、彼女以外にはさほど意味のない個人的な出来事だ。それがネット上に「私」として公開されることの持つ意味は、実は大きい。

 なぜならば、このように公開される「私」は、通常「プライバシー」だと考えられているものだからだ。「プライバシー」を辞書で引くと、「(1)私事。私生活。また、秘密。(2)私生活上の秘密と名誉を第三者におかされない法的権利」とある(大辞林)。プライバシーとは私的なこと、そしてそれを公にされないために放っておかれる権利のことだ。芸能人が旅行の際に空港でインタビューされると「プライベートですから」といって逃げるのも、それが「放っておかれる権利」であるからだ。しかしながら先の「日記」は、どんなに個人的な内容であっても、また、そのサイトを見ている人がどんなに少なくても、「公開」されている以上(例えばこのコラムのように)引用されて「公に」される可能性を有していることになる。

「プライベート」とは何か

 そもそも「プライバシー」とか「プライベート」といった言葉は何を意味しているのか。「私的:Private」の反対語は「公的:public」だが、この区別の誕生には、ヨーロッパの歴史的背景が存在している。

 かつて、古代ギリシャのポリスのような社会は、それだけが1つの大きなまとまりであった。あらゆることが市民による話し合いという政治の場(=国家)に持ち込まれる社会、つまりはパブリックとかプライベートとかいう区別の存在しない社会だった。

 ポリスが滅んだ後も、ヨーロッパでは「パブリック/プライベート」といった区別はずっと存在していなかった。しかし18世紀に入り、国家の中での経済活動が盛り上がって来ると様子が変わりはじめる。「国家」とか「個人」といった考えはそれ以前にも存在していたが、それ以外のカテゴリーとして「公の場」という概念が立ち上がってきたのだ。はじめは市が開かれる街の広場などを意味していたが、その後にそこで行なわれる市民の自立的な活動の場を指すようになる。これがいわゆる「市民社会」の起こりである。

 「公の場」が生まれるのと同時期に生まれたのが「私的な場」という考え方だった。これは例えば市場や街角などに対して、自分の家の中などを指していたわけだが、公的な場所では「八百屋のオヤジ」として振る舞っていた男が、家庭では父親として現れる、といった事態がそこで起きてくる。いわゆる「パブリック/プライベート」の区別は、ここで初めて生まれたのだ。

 その原因の1つが、ネットオークションの回(第4回:「ネットオークション」の不思議)でも取り上げた「見知らぬ人との交流」の増加だ。見知らぬ人と取引を行なうには、相手が信頼するに足る人間であるかをいちいち確認するより、「八百屋のオヤジ」という役割や「八百屋」というシステムを信頼した方がはるかにラクなのである。

 またそれは、「家族」のような私的な場所が、家族以外の人間から切り離された内向きの親密さを持った空間として再編成されることをも意味している。そのために「家」という場の空間的な仕切りというのが重要になる。日本を例に考えてみると、近代に入ってもしばらくは(時代劇に出てくるような「長屋」が代表的だが)「プライベート」を空間的に仕切る仕組みは存在していなかった。このことからも、この「権利」が非常に新しいものであることが分かるだろう。

個人的な情報をコントロールする権利

 さて、ここまでプライバシーについての一般論を展開してきたが、ネット時代において「プライバシー」が持つ意味は変わっていくのだろうか。これについてウィリアム・ボガードの著書『監視ゲーム-プライヴァシーの終焉-』は非常に重要な示唆を与えてくれる。

 ボガードは、プライバシーというものが成り立つためには「観察者」と「被観察者」の分離が前提になるという。観察者は被観察者に対して、フーコーのいう「パノプティコン」的なテクノロジーを用いて監視する。パノプティコンとは、囚人を一望できるように設計された監獄のことだが、このとき被観察者は、観察者に対して見られたくない部分を持つことになる。これがプライバシーだ。

 しかしながら、この150年の間に起こった情報通信革命により、この関係は崩れ去ってしまったとボガードは主張する。特にデジタル技術によって観察者と被観察者の区分は無効になる。誰もがインターネットのようなデジタル技術を用いて観察者にも被観察者にもなりうるのであり、そこでは「誰もが有名かつ無名」な社会なのだ。前回の議論に引きつけて考えるならば、ネット上では誰もが「この私」として承認される可能性を有しているが、同時に人はそこで「隠したい部分」を選択しなければならなくなる。このような状況を踏まえてボガードはインターネット時代におけるプライバシーを「個人情報へのアクセスをコントロールする権利」だと位置づける。

プライバシーを売り渡すという選択

 最初の日記の例に戻ろう。日記の公開は、当人にとって「この私」として承認されるための重要なプロセスだ。しかしそれは、プライベートな事実を明かしていくことでもある。しかもインターネット上ではそのプライバシーは容易にコピーされ、流通してしまう。

 問題はそれだけではない。「プライバシーの保護」という観点で話をすると、マスコミなどに自分の情報が公にされ「第三者」に知られることが問題視されるが、プライバシーの流出で危険なのはむしろ、もっと身近な他者だ。「○○町の高校三年生」などという情報が伝われば、一般的には誰だか分からなくても、同じ町内の人間なら個人を特定しやすいだろう。インターネットの日記で問題になった話はまだ聞かないが、お年寄りが晩年、「個人史」にプライベートな情報を記したことで遺産相続問題に発展した例はすでに数件存在している。

 だからこそ「アクセスをコントロールする権利」としてのプライバシーという概念が重要になるのだ。はじめ空間的に遮断することで保護されていたプライバシーは、情報社会化に伴って、流通する情報の保護をも視野に入れなければならなくなった。最近盛り上がっている個人情報保護法もそのような観点から構想されるものだが、そこでも公開「される」ことだけが問題視されているようだ。

 ところが我々の社会はネット上での日記などのようにプライバシーを公開「する」ことももはや選択肢の1つとして組み込みはじめているのだ。それ自体、パブリックな空間にプライバシーを売り渡す行為だとも言えなくはないか。だとすれば、誰かが個人情報を一律に保護するのではなく、個人がプライバシーを売り渡す基準をどこで線引きするか、この部分こそが重要になってくるのではないだろうか。

■お薦めの一冊
ウィリアム・ボガード 『監視ゲーム-プライヴァシーの終焉-』(アスペクト)
→プライバシーとテクノロジーとの関係を描いた本。また「公的な領域/個人的な領域」の変遷については・リチャード・セネット著『公共性の喪失』 (晶文社、北川克彦, 高階悟訳) も参照されたい。

◎執筆者について
 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。この連載を通じてメールを頂いた方に、多忙のため返信できないことのお詫び代わりに、コラムのサイトを作りました。→こちらへ。

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(2001/7/17)

[Reported by 鈴木"charlie"謙介]

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