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【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。
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先週、インターネット上の資料を利用してコラムを提供するサイト「インターネットで読み解く!」に、衝撃的なレポートが発表された。5年前には、日本における未婚化が進み、4人に1人しか結婚できないという「空前の生涯独身時代」がやってくると思われていたのだが、この5年間でのインターネットの普及により、この傾向に変化が見られるというのだ。
それによると、若年層での未婚率の上昇は相変わらずなのだが、高年齢層の男性において未婚を脱するポイントが上昇しているという。簡単に言えば、これまで結婚を諦めていた40代、50代の男性が結婚に踏み切るケースが増えていると言うことだ。しかしそれは、かつて過疎の農村に外国人妻が迎えられていたようなケースとは関連が薄いという。著者が可能性として考えるのは、ネットの普及に伴って「出会い系サイト」で結婚相手を見つけられるようになったのではないかということだ。
この種の分野を専門的に扱う社会学の立場からすると、統計的な数値と、そこから導出される議論の根拠については若干の疑念が残る。とはいえ我々の社会がネットおよび出会い系メディアの登場によって、諦めかけていた結婚の可能性にもう一度かけることができるような、そういう選択肢を手に入れたことは間違いないだろう。この連載も残り2回。今回と最終回の2回では「人と人」との関係である社会が、ネット上でどのように展開しているのかを、これまでとは違った視点から取り上げたい。
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どのように変化するか、とは言い換えれば、我々がインターネットによって、どのような選択と可能性を手にすることになるのかということだ。それまで不可能だった何かがインターネットによって初めて可能になるのだとしたら、それだけで社会は大きく変わったと言えるだろう。
私自身はその可能性を「出会うはずのなかった他者と出会う」ことだと考えている。私はこの連載、あるいはインターネットそのものを通じて、オフラインでは絶対に出会うことがなかった経験を持つ人々と出会い、コミュニケーションしてきた。相手にとってもそうだったかもしれない。
ある男性歌手がゲイであることをマスコミに報じられたときに、出会い系サイトに次のような書き込みをした少女がいた。「私は彼のファンだったが、そういう世界があることなど今まで考えもしなかった。しかし彼の報道を通じて、そういう人たちと知り合いになって色々考えたいと思った。だからゲイの人たちと友達になりたい」と。彼女が実際にゲイの人々と出会って、どのようなコミュニケーションを行ない、関係を築いていくのかはわからないが、彼女はインターネットを通じて「出会うはずのなかった」人たちと出会うチャンスを手に入れたのだ。
最近では、出会い系のサイトでも身体にハンディキャップを負った人たちの書き込みを見かけるようになった。正確に言うと、自分のハンディキャップを明かした上で出会いを求める人がよく見られるようになった。私もそういう人たちと出会ったことがあるが、実際に関係を築かなければわからないことがこんなにもあったのか、というのが素直な感想だ。
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しかし同時に、よいことばかりではないのもこの連載で見てきたとおりだ。未だに出会い系サイトにまつわる犯罪が毎週のように報道されているし、ネットストーカー、個人情報の流出など、これまでにまったくなかったとは言えないものの、インターネットの登場以降に散見されるようになった類の事件は多い。
事件にまで至らなくても、「出会うはずのなかった」人たちと出会ったことで、人は必ずしも幸せになるわけではないという事態はまま生じる。「出会うはずのなかった」人は「出会いたくなかった」「出会わなければよかった」人になるかもしれない。軽い気持ちで応答したつもりなのにいつの間にか掲示板で罵りあったりするかもしれない。
こういう事態に対して、ネットに反感を持つ人はその「仮想的な人間関係への耽溺」を問題にするし、逆にネットに対して共感的な人は「ネチケット」や「ネチズン」の構築を訴える。しかし果たしてこういう問題は「ネットの暗黒面」などと言われるように「インターネット」に帰責されるべき問題なのだろうか?
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私はこの連載を通じて一貫して、ネットの問題として捉えられる現象の背後にある「人と人」との関係を問題として捉えてきた。とはいえネット上での出会いや関係そのものが仮想的なものにすぎないという批判を受けてしまうと、殊更に「人と人」との関係を強調しても説得力が薄れるような気がする。では、その「人と人」の関係が、個人にとってどういう意味を持っているのかを考えてみるとどうだろうか。このように考えることで、先ほどの「仮想的な関係」といった批判が、あまり有効な批判でないことが分かる。
「現象学的社会学」を提唱したアルフレッド・シュッツによれば、我々は通常「現実」として理解されるような単一の現実を生きているのではない。私たちはむしろ「多元的現実(multiple realities)」と呼ばれる、互いに矛盾しあうことのない、いくつもの現実を生きていると捉えられる。例えば少女がママゴトをして遊んでいるとき、少女にとって、抱きかかえている人形はまさに彼女の子供で、少女はそのとき母親になっているのだ。
そういう多元的現実のうち、他の意味領域に対して基礎的な位置を占める日常生活世界の現実のことをシュッツは「至高の現実(paramount reality)」と呼び、我々の経験の基礎的な原型がここで構築されることを主張した。また日常生活の世界は、我々が他者とコミュニケーションを通じて関わり合うような「間主観的」な世界でもある。かつては社会学の内部でも「仕事の世界」と呼ばれたように、至高の現実は、物理的な因果法則によって我々が世界との関わりを経験するような現実だと考えられていたが、オンライン上でのコミュニケーションが可能になった現在、「至高の現実」を、いわゆる物理的な現実に限定することにどれほどの意味があるだろうか?
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至高の現実を、オンライン上のコミュニケーションがなされる現実に求めることが可能であるとするならば、オンライン上の関係=仮想的、オフラインの関係=現実的とする素朴な議論も、方向を修正せざるを得ない。逆向きに考えるならば「ネチケット」や「ネチズン」の構築は、オフラインでの「エチケット」「シチズンシップ」の構築とパラレルに考えられなければならないし、ネット上にネチズンが根付かないのは、ネットという現実の特性が問題なのではなく、我々の社会がそもそもシチズンシップを築けていないということに問題がある。
作家の田口ランディはMSNニュース&ジャーナルの記事において、出会い系サイトは現実の「欲望を転写」したものであり、「自分の欲望と、相手の欲望が一致すれば、関係は成立する」が「ズレれば事件になる」に過ぎないと述べる。その上で、それでも出会いが確実に存在する出会い系サイトは「ないよりはずっとマシ」だという。現実の反映であるネット上でのコミュニケーションを「ない方がよい」というのは、我々が自分の生きているオフライン上のコミュニケーションまでも否定してしまうことに他ならない。
ネット上で我々は、出会うはずのなかった人と出会い、幸せを得ることもあれば不幸になることもある。取り返しのつかないほどに何かを失うかもしれないし、一生の伴侶と出会うかもしれない。それを決めるのは、インターネットそのものではなく、我々と、我々が「人と人」との関係で作り上げている、この社会なのだ。
■お薦めの一冊
アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学』(紀伊國屋書店)
→今回取り上げた現象学的社会学の祖、シュッツの代表的著作。西洋哲学に関する知識が多少必要になるかもしれないが、社会学における「個人の世界」を知る上で重要な一冊。
◎執筆者について 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。この連載を通じてメールを頂いた方に、多忙のため返信できないことのお詫び代わりに、コラムのサイトを作りました。→こちらへ。 |
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(2001/7/31)
[Reported by 鈴木"charlie"謙介]