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人の生活を変えるサービスを作りたい サイドフィード社長 赤松洋介氏(前編)
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「面白い話がいいですよね。特にないですが頑張ってみます」―。サイドフィード赤松洋介氏の第一声はそんな謙虚な言葉だった。社名の「サイドフィード」のフィードはRSSなどの「フィード」以外に「餌」の意味もある。餌で大きな獲物を釣り上げることを目指して名付けたもので、大きな獲物“カジキ”を会社のマークにしている。
謙虚な個人としての赤松氏と、社長としての赤松氏がそこに垣間見える。ブロガーなら必ず目にしたことがあるはずの、ブログの人気度と更新頻度を測定する「feed meter」などRSS系サービスの提供で知られるサイドフィード社が生まれた背景を追う。
● コンピュータどっぷりの子ども時代
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ブログの人気度と更新頻度を測定する「feed meter」などRSS系サービスの提供で知られる、サイドフィード株式会社社長の赤松洋介氏
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初めての自分のコンピュータはPC-8001でした。家が関西大学の近所で、関西大学近くにあったパソコンショップに通っては、店頭にあるコンピュータで遊んでいたんです。小学生の頃、どうしても欲しくなって、両親にPC-8001を買ってもらいました。雑誌の巻末に掲載されているプログラムを入力したり、BASICでゲームを自作したりしては、家に友達を呼んで遊んでもらっていましたね。
ワンボードマイコンTK-80にプログラムを入力して動かしてみたり、学研の電子ブロックで回路を造って遊んでいたこともあるし、とにかくコンピュータが大好きな子どもでした。中学時代には、マシン語を勉強していましたね。
当時読んでいたパソコン情報誌「アイオー」に投書欄があったのですが、頻繁に投稿していたところ、編集部から連絡が来てライターをすることになりました。1本3,000円で、電気街で何がいくらで売られているかという「日本橋マップ」の記事などを書いていました。編集部の人たちは、私が中学生ということを特に気にしていなかったようですね。
締切りは毎回ハードスケジュールで、雑誌の発売日の4、5日前になって「今日中にこの記事をあげてくれ」という連絡が来たりしていました。きっと緊急要員として認識されていたのでしょうね(笑)。
● インターネットとの出会い
ところがその後、高校から大学2年まではコンピュータにまったく触りませんでした。年がバレてしまいますが(笑)、まだ一般の人がインターネットに触れる機会はほとんどない時代です。コンピュータ自体はいじり倒していて、興味を失っていたんです。その間は、ファミコンくらいしかやりませんでしたね。
そんな私が、コンピュータに再び目覚めたのは大学3年生の時です。大学の研究室に1千万円くらいするUNIXワークステーションがあったのですが、すぐに「これは違う!」と思いました。
どこが違うかというと、ただインターネットにつながっていただけなのですが、これが本当に楽しくて楽しくて。インターネットにすっかりはまってしまったんです。メールや掲示板、プログラミングのほか、所属する学科でサーバー管理などもしていました。当時インターネットが利用できる大学や学科はあまり多くなかったので、この出会いはラッキーでした。
この頃、またライターのような活動をしていて、「UNIX USER(現オープンソースマガジン)」という雑誌に共同で連載コラムを書いていたこともあります。「UNIXのコマンドを1つ1つ覚えましょう」という内容だったのですが、1回の連載が10ページもあったので、かなり苦労しました。
● 客員研究員としてアメリカへ
大阪で働きたかったので、いくつか就職面接を受けた中で、大阪ガスの子会社のオージス総研という会社に就職しました。採用担当者の人柄に惚れて選んだのですが、入社した後に実はその人は大阪ガスからの出向だったとわかったんですよ。おいおいと思いましたね(笑)。
総研自体、私の研究テーマだったオブジェクト指向に取り組んでいる会社でした。当時、オブジェクト指向にまともに取り組んでいる企業はあまり多くなかったので、これはラッキーでした。当時総研では、米Rational Software社(現在は米IBM社に併合)などと取引をしており、担当者が米国に行って現地のエンジニアと開発作業をするようになっていました。そのうち、いっそのこと米国に事務所を作ろうと言うことになり、私に白羽の矢が立ったのです。
このとき、「ビザを手に入れるためにスタンフォード大学の客員研究員になる」という話がラッキーなことに認められて。無事、スタンフォードの客員研究員として渡米できることになりました。事務所を立ち上げて、日中は大学に行き、夕方から日本時間に合わせて日本の仕事をしていましたね。1997年頃のことです。
実は、米国には以前からなんとなく縁がありました。叔父が米国に住んでいたこともあり、子どもの頃から米国には何度も行っていたので。学生時代にも1カ月くらいホームステイで米国に滞在していたことがあります。6週間、宿付き航空機付きで10万円で行けるのですが、その代わり現地での労働付き、労働の賃金は没収されるというプランです。国際交流プロジェクトの1つで、いろいろな国の人たちが参加していました。
「ビジネストレーニング」という名目のもと、私は「Big Boy」というチェーンレストランで調理を担当することになりました。用意されていた仕事には、書類作成などの事務仕事もあったのですが、日本人は英語ができない人が多いためか、そういう仕事には就かせてもらえなかったのです。厨房やホテルのベッドメイキングなどの肉体労働的な仕事から選ぶしかなくて、ちょっと悔しい思いをしました。
● インターネットの本質は合理的なこと
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客員研究員としてスタンフォードに留学。その経験を通じて「日本的な考え方はインターネットでは通じない」と感じるようになっていたという
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スタンフォード大学では、私はオンラインペイメントなどの仕組みを作っていました。プロジェクトにはラリー・ペイジやセルゲイ・ブリンなどのGoogle創始者も参加していました。当時僕らがいた建物は、マイクロソフトの創始者ビル・ゲイツが寄贈した“ゲイツビル”でした。そこから、将来マイクロソフトを脅かすことになるGoogleが生まれたわけだから、ちょっとした皮肉だなと思います。
彼らは既にGoogle基礎となる考え方を持っていたのですが、当時の私は彼らの話がまったく理解できていませんでした。インターネット自体がさほど普及していなかったので、Webページ全体をリンクなどを使って整理することは可能だと思っていたんです。Webページが無限大に増加することを前提にした世界など、当時想像できていませんでした。
スタンフォード大学では、他にも日本人の客員研究員が来ていましたが、中には大企業のプログラムに組み入れられているから来たというだけで、授業にも出てこない方もいました。そんな背景もあり、日本人の客員研究員は、ある意味「お客さん」扱いでした。仕方がないかなという気はしましたが、残念でしたね。
私は、「日本的な考え方はインターネットでは通じない」と感じるようになっていました。たとえば、日本人には、時間コストをきっちり考えないなど合理的ではない面がままありますが、インターネットではそれでは通じないと感じていました。同時に、時間をそのままお金に換えていてはすぐに限界が来ます。「レバレッジがきくような形で儲かる仕組みのビジネスを考えないといけない」と、痛切に考えるようになったのです。
(後編につづく)
関連情報
■URL
サイドフィード株式会社
http://sidefeed.com/ja/
■関連記事
・ 人の生活を変えるサービスを作りたい 第3回:サイドフィード社長 赤松洋介氏(後編)(2008/03/25)
2008/03/24 11:31
取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
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