| |
|
|
|
|
|
|
|
営業力と信仰心で新天地を切り開く ~ルーク19代表取締役社長 渡辺明日香氏(前編)
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
ルーク19代表取締役社長、渡辺明日香氏。天才肌の世界ナンバーワンセールスウーマンとして知られるが、その飾らない率直な話しぶりについついひきこまれてしまう
|
ルーク19を訪問して、通されたロビーに驚いた。ずらりと壁一面に並ぶ商品の山、山。食品や飲料品、化粧品などがところ狭しと並んでいる様は、まるでどこかの売り場に訪れたよう。現品も含めたこのすべてが、「サンプル百貨店」で配られる“サンプル”なのだ。席について出されたものも、お茶やコーヒーではなく「リポビタンD」。これもサンプルの1つだ。
「サンプル百貨店」とは、商品サンプルが欲しいユーザーと、サンプルを配りたい企業をマッチングするサービスだ。ユーザーは欲しいサンプルを請求できるが、そのためには「サンプラー」と呼ばれる仮想通貨を貯めなければならない。
サンプラーは、商品に対する感想を送ったりアンケートに答えたりすることで貯めることができる。企業にとっては本当にほしいと思うユーザーにサンプルを試してもらって感想や意見を集めることができ、ユーザーもサンプルがもらえて嬉しいという、ユニークなビジネスモデルが注目を浴びている。
白いスーツも爽やかな、ルーク19(ルークナインティーン)代表取締役社長渡辺明日香氏の話は生き生きとして楽しい。「当初インターネットのことはまったくわからなかったけれど、営業のことならわかる。迷った時は神さまが教えてくれた」という渡辺氏に、起業するまでの道のりや、背景にある思いについて聞く。
● 不良化、キリスト教との出会い
中学まで京都にいました。地元の公立中学校は、地元で一番素行が悪いと言われている中学校。ちょうど、実話を元にした非行少女と親の戦いを書いた「積み木くずし」がベストセラーになった時代です。
親はそんな学校には行かせたくないと私立受験を勧めたのですが、反抗して受験はせず、公立中学に進学したんです。煙草やシンナー、カツアゲが普通に行なわれているような世界で、私も徐々に不良の世界に染まっていきました。
結局、心配した両親に強制的に転校させられて、長野の別荘近くにある中学に行くことになったのが中学2年生の時です。悪いままだったのですが、とある先生が、「不良になってもいいけれど格好いい不良になれ。進学はした方がいい」と言ってくれたのです。そこで、勉強だけはするようになりました。おかげで長野の進学校に進学できて、高校の3年間は落ち着いた生活を送りました。
クリスチャンになったのは16歳の時です。キリスト教との出会いは、京都の友達のお兄さんが伝道者で、遊びに行く度に聖書の話をしてくれたのがきっかけでした。お兄さんは、寂しい時に長野まで来てくれたこともあります。やがて、聖書を語ったり、調べているうちに、“真実”に気がついたのです。高校卒業時には洗礼を受けました。
ところが、長野の別荘近辺には教会がなかったんです。ないなら創るしかない。当時の部活の仲間10数人に伝道してその結果ほとんどがクリスチャンになり、牧師先生を迎えて教会ができました。この教会は当時よりずっと大きな教会になって、今も残っています。
● 自力で獲得した米国大学行き
|
両親の猛反対を押しての留学。インターネットもない当時、現地からの生の声をいまのようにブログなどで知ることもできない。不安は尽きないが、「未来を信じて新天地に向かった」
|
高校の頃は、将来の仕事として、マスコミに興味がありました。「マスコミに行きたいなら慶応か早稲田に行かなければダメ」と周囲には言われたのですが、それはおかしいと疑問を感じたのと、それだけの学力が私にはなかったんです。「それなら、マスコミの本場である米国に行って勉強しよう」と思いつきました。
米国では、カリフォルニアの州立大学ヘイワード校と、サンマテオカレッジの2つの大学を掛け持ちしました。州立大学(ユニバーシティ)の方は4大なので学費も高いし勉強もハードです。一方、カレッジは短大なので学力的に易しいし学費も安い。カレッジで取得した単位はユニバーシティに移行できるので、学費が安く済むというメリットもありました。
両親はアメリカ行きには猛反対。ちょうど、ハロウィンで訪問する家を間違えて、警告されて静止しなかった高校生が銃で撃たれた「日本人留学生射殺事件」が起こった頃だったんです。そんな危険なところへ行くなんてとんでもないと。
そこで、日本の大学は一切受験せず、米国の大学だけ受けて「(受かった大学は)ここしかない」と言ったのです。それでもやはりダメと言われました。けれど私は、「親の言うことを聞いて望まない人生を歩んで長生きするよりは、銃で殺されても望む人生をまっとうしたい。殺されても本望」と言い切ったのです。両親も、さすがにそれ以上は止めませんでした。
まだインターネットがなかった時代です。情報を集めるのも、申し込みも、英語の先生の力を借りて資料を取り寄せるなど、アナログな方法しかありませんでした。入学試験は、高校の成績と推薦書、TOEFLの成績を提出する仕組みです。英語は、親が買ったブリタニカの教材が家にあったので、それで勉強しました。当時、英語は好きでしたが、読み書きができるくらいで話す力はありません。結局、カレッジにぎりぎり足りるくらいの成績でパスしました。
「受け入れ先は本当にあるのかな」とか、「寮の手続きはできているのかな」とか、不安は尽きませんでした。そうこうするうち、ビザが送られてきたので、未来を信じて新天地に向かったのです。
● 自由だった新天地、米国
案の定、英語では苦労しました。聞き取りができず、意味がくみ取れない状態です。苦労はしましたが、言葉が通じないと生活できないので、吸収も早かったですね。そして、開放感があって楽しかった。初めて自由になり、大地に一人で立ったのを感じました。ここにいれば、周りの目を気にしない生活ができる。「一個人として好きなことをしていいよ」と言われたような感じがしました。
米国で勉強するようになって、「日本の勉強って何だったんだろう」と思うようになりました。米国の先生方は教え方がうまく、私の中にある可能性を信じて才能を引っ張り出してくれるのです。はじめて勉強の楽しさを知ることができました。それに比べて、日本は暗記中心の勉強で、学ぶ楽しさを教えてはくれませんでした。また、日本の大学は学部を決めたらやり直しがとても大変ですが、米国は専攻の変更も容易、複数専攻することもできとてもフレキシブルなんです。
大学構内にはテレビ局やラジオ局があり、ベイエリア一帯に放送をしています。私もラジオ局で、インターンとしてパーソナリティをさせてもらえました。カメラワークとか編集、カットなども学べて、楽しかったですね。インターンは給料はもらえないので、日本食レストランなどでアルバイトもしました。シリコンバレーで働く駐在員が来てくれるとチップを弾んでくれたり、ゴルフに連れて行ってくれたりしてとても楽しかったです。
● ブリタニカで世界NO.1セールスに
|
共にルーク19の代表取締役を務めるパートナー、飯島淳代氏とは共著も複数ある。ブリタニカの世界ナンバーワンセールスだった二人の「営業のバイブル」は具体的で説得力がある
|
留学先で付き合っていた人が日本に帰ってしまい、しきりに「帰ってこい」と言われるようになりました。米国に働き口があったのに、寂しさもあって、結局、私も日本に帰ってしまいました。日本では、外資系会計監査法人に秘書として採用されたのですが、わずか数カ月で辞めてしまいました。「秘書で終わるよりは秘書を持つようになりたい」と思ったんです。
そして飛び込んだのが、ブリタニカです。私の留学にかなりお金がかかったので、実家の妹弟にはあまりお金をかけてもらえなかったと聞いていました。そこで、今度は私がサポートしようと、3人で住んで面倒を見ることになりました。サポートするためには最低月に30万円は必要。探していたら、ブリタニカは週給9万円もらえると聞いて、それだけで説明会に出かけて行きました。
ブリタニカでの仕事は英語教材とスクールの販売です。英語はなんとか話せるようになっていましたし、米国留学での体験を通じて、国際教育の必要性を感じてもいました。売り始めると、これが面白いように売れました。
売れた理由は、目先の物をセールスするのではなく、将来の夢を語るという点だったと思います。時代は、バブル崩壊後です。たとえ大手企業に勤めても将来はわからないという不安が社会に蔓延していて、夢がない人も多かった。
そんな中で、「夢を持たなきゃダメ。日本を変えるのはあなたたち一人一人。国にも会社にも家族にも頼れないのだから、自分で生きるための力を付けなきゃ」と訴えたのです。その時のお客様から、「ありがとう」というお礼の手紙を数百通以上いただいています。海外に行った人も少なくないです。
相手のためになると心から思える商品なら、どんなものでも売れると思います。商品が何でも、人の心を動かすことはできます。オフィスに来た飛び込みの営業マンに、逆に英語教材を売ったことも何度もあります。いたずら電話をかけてきた相手に教材を売ったこともあります。ポイントは、心を動かすことなのです。
● パートナー、飯島淳代氏との出会い
現在の経営パートナーである飯島淳代とは、この時期に出会いました。私の組織に配属された彼女とはとても気が合いました。私の技術を盗んでは自分のものとして習得している彼女のやる気はたいしたもので教えればスポンジのように吸収してくれる。そんな彼女は翌年1995年にやはり世界のトップにたったのです。
24歳で最年少管理職となって10名の部下を抱え、26歳で100名くらいの組織にすることができました。けれど、自分でやるのと人にさせるのとの違いは大きく、何度も失敗したし、組織をつぶしかけたこともあります。部下の気持ちをくみ取れるマネージャーになるまでに、10年くらいかかったと思います。そんな時も、飯島が支えてくれました。努力型の彼女は二番手となり、組織の拡大にとても貢献してくれたのです。
● バブリーなリンガフォン時代
|
数字を上げればそれだけ収入も上がる。年収は数千万にもなり、華やかな生活を送っていたが、あるとき、ふと「もういいかな」と思ったという
|
1998年にヘッドハンティングされて、飯島とリンガフォングループに移りました。教材がブリタニカからリンガフォンに変わっただけで、仕事は大して変わりませんでした。売れないと給料は入ってこないフルコミッション制なのですが、当時で年収3,000万円くらいはもらっていましたね。
人は入ってきても、売れなければ辞めていきます。やがて、自分が契約を取るのではなく、会社説明会や面接、マーケティング開発などのマネージメントをメインにするP&Lマネージャーとなりました。
リンガフォンにいたのは、1998年から2004年までのことですが、当時は華やかな生活を送っていました。
年に10回くらい海外旅行に出かけ、新宿の一等地に家を建てて、全身シャネルの生活。けれど、ふと「もういいかな」と思ったのです。やりたいことは全てやった。これからは自分のために生きるのではなく、世の中に貢献したい――。
(後編につづく)
関連情報
■URL
サンプル百貨店
http://www.3ple.jp/
ルーク19
http://www.luke19.jp/
■関連記事
・ 営業力と信仰心で新天地を切り開く ~ルーク19代表取締役社長 渡辺明日香氏(後編)(2008/06/10)
2008/06/09 11:29
取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
- ページの先頭へ-
|
|
|
|
|