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起業の夢を応援したい ~あきない総研社長 吉田雅紀氏(前編)
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あきない総合研究所社長 吉田雅紀氏。大阪の「あきない・えーど」、経産省のプロジェクト「DREAMGATE」などのプロデューサーを務めてきた起業家支援のプロフェッショナルとして知られる
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ベンチャー企業に興味がある人なら、あきない・えーど(現・産創館)や、DREAMGATE(ドリームゲート)のことを耳にしたことがあるかもしれない。どちらも、起業や独立を支援するプロジェクトである。
吉田雅紀氏は、それぞれの団体で所長や総合プロデューサーを務めてきた、いわばベンチャー起業支援のプロフェッショナル。
そんな吉田氏が運営する会社あきない総合研究所(以下あきない総研)は、やはりベンチャー起業支援を中心に活躍する会社だ。吉田氏はなぜベンチャー支援にこだわるのか。同社代表取締役吉田氏に、ベンチャー起業支援にかける思いについて聞いていく。
● 考えが変わった同志社時代
僕は昭和29年生まれで、昭和30年代の高度成長期で日本が上り坂の時に子ども時代を過ごしました。小学校2年生の時に家にカラーテレビが来て、僕が小学校の4年か5年くらいの時に東京オリンピックがありました。生まれたのは宝塚で、学生時代は京都で過ごし、就職したのは大阪です。現在、家は芝大門と京都にあり、関東と関西を行き来しています。
中学から、京都の同志社中学に通い始めました。金持ちの子弟が多くて、また悪いのもいて。カルチャーショックだったのが、中1なのにパチンコをやって、勝ったらタクシーで帰り負けたら歩いて帰るとかいう奴らがぞろぞろいたわけです。京都大丸の中で鬼ごっこをしたり。ここに入って、すっかり考えが変わりましたね。
大学まで同志社に通ったのですが、京都の中小企業の子弟が多かった。17人くらいの仲間がいたのですが、サラリーマンの子は僕も含めて2人だけで、残り15人は全て中小企業社長の二代目三代目。それこそ松竹の創業者の孫がいたり、料亭の息子がいたり、能の茂山家の息子がいたりしていました。
そんな環境に暮らしていたので、僕は漠然と「サラリーマンって儲からないんだろうな」と思っていました。もっとも、その友だちの会社も、この30年の間に2人倒産しています。同志社は京都ですから、親が商売していた15人のうち、7~8割は着物関係だったんです。今は着物関係はあまりふるいませんしね。
● 先斗町でバーテンダー
仲間に料亭の息子がいたので、大学時代からお茶屋に出入りして遊んでいました。社会人になってからもそのネットワークは生きていますね。東京で社長を店に誘っても来ませんが、京都で祇園に誘ったら来てくれますから(笑)。でも、それはもっとずっと後の話で。大学時代の僕は、祇園遊びが高じてスナックでバイトをしていました。
祇園にもたくさんあるのですが、先斗町のお茶屋さんがやっている、芸妓をつれてちょっと一杯飲めるスナックがありました。僕はそこでバーテンダーをしていました。会員制のちょっと高級なバーで、京都高島屋の社長さんとか芸能人とか水商売関係の人とかが来ていました。
お客はみんな、「あんたはこの商売が合ってるよ、サラリーマンは向いてないよ」と言う。高島屋社長に「高島屋に入れてくれませんか」と言ったら、「お前には高島屋は無理。でも店を出すなら金は出すよ」と言われて。自分でも、このまま就職しないでいようかと思っていたんですよね。
● 結婚したくて就職
「サラリーマンなんて儲からん」と思っていた僕ですが、卒業後は大阪の中堅メーカーである小泉産業に就職しました。CMで有名な“コイズミ学習机”で知られる、照明やインテリア、学習机などのメーカーです。
従業員は1000名、資本金が15億くらいのプライベートカンパニーでした。正直なところ、第1志望というわけではなかったのですが、オイルショックで就職が厳しかったのもあり、最初に内定をくれた会社に就職を決めたのです。
実は、就職したのにはわけがあったんです。当時付き合っていた女の子と結婚したいと思っていたのですが、父に「就職はしません。結婚します」とセットでは言いにくい。でも、「就職します。結婚します」なら言いやすいと考えたんですよね(笑)。
● ご用聞きではなく提案型であれ
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就職したメーカーでは、企画提案型の営業マンが数字を上げており、「鞄の大きな営業マンは売れない」と言われていた。売れた商品の補充なら営業マンが行く必要はない。できる営業マンほど鞄は薄くなるという
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そういうわけで就職したのですが、就職した途端に彼女と別れてしまって。就職した意味がありませんでした(笑)。2年くらいはアルバイト意識が残っていて、正直あまり仕事はしていませんでした。2年目まで営業助手を務め、3年目からは営業マンになりました。社員の半分は営業マンという、メーカーですが営業が強い会社だったのです。
ふいに仕事が面白くなって、そこから頑張って仕事をするようになりました。僕がいた近畿営業部にはよく売る営業マンがたくさんいて、上司だった課長が実力のある営業マンだったのです。当時僕らが競っていたことは、年間予算をいつまでに達成するかということでした。少しでも早く達成しようと、燃えましたね。
ここでは、ご用聞きではなく企画提案型の営業マンが数字を上げていました。僕らが言っていたのが、「鞄の大きな営業マンは売れへん」ということ。鞄が大きいと色々なカタログがたくさん入り、家具屋などの得意先に行ってもどんなカタログでも出せます。でも、それではダメなんです。
「君の会社に○○があったよな。ちょうど売れたからオーダー頼むわ」と言われてカタログを出すのは、単なるご用聞きです。そうではなく、何を売るかを決めてその資料しか入れていかないのが企画提案型のできる営業マンなのです。つまり、できればできるほど鞄は薄くなっていくのです。
お得意様に顔を出した時、「○○はあるか?」「ありますよ」というやりとりがあります。でも、「カタログは?」と言われても「ないです。注文は会社に電話してください」と言う。
「僕はそれではなくこれを売りに来たんです。これが今すごくブレイクしているので、御社の品揃えに入れるべきやと思うのです。今入れていただくとサポートなどもあります」と話を進めていく。そもそも、商品が売れたら追加注文は勝手に入ります。そんなものを僕が注文しても意味がないわけです。
そうするうち、僕は全国セールスマンコンテストで2年連続1位になりました。25歳から27歳まで営業マンとして商品を売りまくっていました。
● チーム制の難しさ
やがて、営業部から商品部に引っ張られて移ることになりました。そこには、係長から上や35歳より上の人たちが集まっています。僕はプロダクト商品担当マネージャーになりました。
インテリア事業の売上は200億円ありました。それを7人の担当マネージャーが企画から製造まで担当して、実際の担当商品は営業マンが売ってくるという仕組みです。その仕事は2~3年くらいやりましたが、難しかったですね。営業マンの時の仕事は一匹狼で結果を出せば良かったのですが、ここの仕事はチーム制だったからです。
デザイナーやプロモーション担当、協力工場チームなど、メンバーがたくさんいました。それを、オーケストラの指揮者みたいにコントロールしていくのが難しかった。チームで仕事をするとはどういうことなのか、わかっていなかったのです。
デール・カーネギーの「人を動かす」を読んで、人は自分のためにしか動かないということが分かりました。勉強したり先輩に教わったりして必死に頑張りました。
● 社内ベンチャー立ち上げへ
29歳の頃、新規事業のための社内公募がありました。子ども用フランチャイズチェーンの案を出したら通ったので、30歳で社内ベンチャーを立ち上げました。店の名前は「ポムアレー」と言いました。最初の3年は実験的に運営し、その後12店舗まで増やしていきました。
目標は200店舗だったのですが、結果的には、目標達成できずに撤退することになってしまいました。29歳の自分が書いたビジネスプランを今見たら、うまくいかないことがわかっただろうと思います。経営力が低かったし、ビジネスコンセプトとビジネスフォーマットにミスマッチがあったのが敗因でした。
僕が考えたのは、「コミュニティベビーショップ」というコンセプトの、洋服、玩具、家具などがそろった郊外型路面店でした。一人で育児をしている母親がわからないことを相談できる場所であり、子どもにとっては遊び場であるというコンセプトのセレクトショップでした。
これをフランチャイズのビジネスフォーマットにしていこうとしたのですが、“コミュニティ”と“フランチャイズ”がマッチしないところが致命的でした。フランチャイズとは、ある一定のクオリティで多店舗展開するものです。一方、コミュニケーション部分はマニュアル化できません。マクドナルドではコミュニケーションしませんよね。つまり、チェーンオペレーションされていればいるほどコミュニケーションできなくなるという矛盾があったのです。
● 独立、そして失敗
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借金を背負っての再出発。元手が要らない、今までのスキルが活かせる仕事として始めたのがコンサルタント業だった
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小泉産業はその事業から撤退するわけですが、一緒にやった仲間もいるし、店舗はすでに自分にとって子どものような存在になっていました。そこで、小泉産業を辞めて負債店舗は潰し、売上が優良だった5店舗を残して譲り受けました。
ところが、それも失敗してしまいました。バブル崩壊という外的要因もあり、残った5店舗も赤字になってしまったのです。最終的には、すべて潰すことになってしまいました。37歳で引き継いで42歳までは続けていたのですが、そこで、すべてなくなってしまったというわけです。
「これから何をして食べていこう」と僕は考えました。仕事をなくしただけではなくて、借り入れがあるので返済しなければなりません。「元手が要らない商売で今までのスキルが活かせる仕事は何だろう」と考えました。そこで思いついたのが、コンサルタントの仕事でした。
● いざ、起業コンサルタントへ
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吉田氏が創設に尽力した、「関西ソーホー・デジタル コンテンツ事業協同組合」のサイト。今年10周年を迎えた
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時は1997年。43歳の時、僕は大阪でベンチャーに特化したコンサルタント事業を始めることにしました。まだそんなことをやっている人は誰もいなかった時代です。
そんな時、公認会計士の後輩と出会いました。彼が代表社員をする監査法人は株式公開に力を入れていました。当時、店頭市場に(現・ジャスダック)に赤字でも株式公開できる特則市場ができました。彼は「株式公開のハードルが下がり若い会社が次々IPOする時代が来る」と話してくれました。99年に新興市場マザーズができる2年前の話です。
それまでの上場は、頑張って大きくなった企業へのご褒美でしたが、今後は小さな会社がIPOして資金を集めて会社を大きくする時代がくる――僕はこの話を聞いてコンサルとしてではなく、中小企業の社長として元気が出ました。
僕が自分でパソコンを買ったのは、ベビーショップ「ポムアレー」1号店を作る前のことです。顧客別に販売をPOS管理したかったのです。子どもの成長に伴って購入する製品が変わるので、このパズルを買ったら次はこれも買うだろうなどが予測できるため、パソコン導入は有効でした。
Windows 95が出た時にもすぐに購入しましたが、インターネットに接続したのはWindows 95より前、Windows 3.1の時代です。Windows 95以前は、Trumpet Winsockなどプロトコルスタックを自分でインストールするなど、けっこうインターネットにつなぐのが面倒だったのを憶えています。そんなふうに、インターネットとはかなり早くに出会っていたので、当時としてはインターネットを理解していた方かなと思います。
その頃、関西ソーホー・デジタル コンテンツ事業協同組合というSOHOの組合を作ったりもしました。そのようにネットでビジネスをしようとする人が周囲にいる環境であり、僕自身も手伝いをすることが増えていたのです。1999年には、有限会社ベンチャー・サポート・ネットワークというあきない総研の前身となる会社を設立しました。
(後編につづく)
関連情報
■URL
あきない総合研究所
http://www.akinaisouken.jp/
Venture Support Network Japan
http://www.vsn.jp/
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2008/11/17 13:26
取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
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