【特集】

「2ちゃんねる」の社会とデマゴーグ~インターネットは衆愚政治の典型か?

(編集部から:最近、話題を振り撒いている巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」。今回の特集では、本誌で「社会学の理論で斬る『ネットの不思議』」を連載していた鈴木"charlie"謙介が、「2ちゃんねる」的なものを組み込んだ上で社会モデルを構想しないといけないんじゃないか、と提言します)

http://www.2ch.net/

●「祭り」~注目を集める2ちゃんねるの動向


問題:
 ワールドカップと「2ちゃんねる」の共通点は?

答え:
 どちらも団塊ジュニア世代(1971~1975年生まれ)を主要な受け手として抱え込みつつ、大きなムーブメントを形成している点。

 とはいえ、私は別に大まじめに言っているのではない。この二者の受け手世代に共通点があるなどという統計データは存在しないし、どちらにも団塊ジュニア以外の世代が多く関わっている。団塊ジュニアといえばJリーグ発足を思春期に経験し、ミサンガ、フェイスペインティングといった従来は一般的でなかった応援手法を大々的に採用した世代であると同時に、2ちゃんねるにおいては「ガンダム」や「ゲームセンターあらし」などの'80年代のサブカルチャーを元ネタに多数採用している世代だが、それとてあくまで印象の世界の話だ。

 それにもかかわらず、このような話をするのは、2ちゃんねる、ワールドカップにまつわる大きなムーブメントが、ある点で共通のモチーフを有しており、この点について考えることを抜きにしては、今後のインターネットの進むべき方向さえ見誤ると思っているからだ。

 2ちゃんねるは、今年に入ってからもさまざまな話題をオンラインのみならずオフラインへも提供している。その多くは「祭り」と呼ばれる事態が2ちゃんねるの外へと波及することで起こったものだ。「祭り」とは2ちゃんねる特有の現象で「2典」によれば「現在進行形のイベント、事件などについて特定のスレ上でもりあがること」とある。そのイベントは2ちゃんねる以外でもニュースとして取り上げられるような「事件」の時もあるし、一部の「2ちゃんねらー」にしか関係しないローカルな出来事の時もある。

 ただ共通するのは、その盛り上がりに合理的な理由や意味を見いだしにくいということだ。有り体に言ってしまえば、やっている本人達にも「なぜそんなことで盛り上がっていたのかわからない」のである。

 もちろん、今の若者に共通の価値観-ひとまずは今が楽しければいいじゃないか-をもってして、無害である限り祭りでも何でもいいじゃないかということはできる。しかしそう簡単に言い切れたものか。

 例えば、先日のTBC個人情報流出事件の場合。2ちゃんねるが発祥とされるこの事件は、TBCのWebサイトにおける個人情報ファイルの杜撰な管理が発覚し、2ちゃんねる内をその話が駆けめぐり、実際に個人情報ファイルがそこから流出する結果となった。だが、管理体制の不備を批判し「悪いのはサイト管理者」という2ちゃんねらー達の言い分に一切の非はないのだろうか。

 確かにネット上、というかセキュリティに詳しい人間ならば、このような場合は2ちゃんねるにその事実を晒すのではなく、管理者にこっそりとそのことを伝えるのが一般的な作法だろう。しかしそれは情報が漏れた後ではさして意味のないことなのだから、祭りで盛り上がった2ちゃんねらー達にその責はあるまい(サイト管理者に最初に通報したのも2ちゃんねらーだった)。

 むしろ私が危惧するのは、これが何らかの自作自演であった場合だ。仮定の話になるが、実はTBCのサイトのセキュリティホールを以前からよく知っており、個人情報ファイルを欲しがった何者かがファイルを名簿業者に転売することを考えたとしよう。名簿業者にファイルを転売するのと相前後して2ちゃんねるでサイト上のセキュリティ問題を発表する。すると「祭り」が起きて、ファイルを転売した輩が、2ちゃんねるからの大量のアクセスログの森の中に埋もれてしまう。名簿の価値は結局流出までのタイムラグの問題だから、このような2ちゃんねるを用いたやり方で一儲けを考えることも十分にあり得るだろう。つまりこの場合、2ちゃんねらー達は楽しく踊っていたつもりが、見事に「踊らされた」ことになるのだ。

●「祭り」と集合行動の問題


 ただ「踊らされる」というのは言い過ぎかもしれない。絶対王制下における権力者が民衆をコントロールするような場合と違って、祭りを「仕掛けた」人間の意図が必ずしも貫徹されるとは限らないからだ。それでも私がこの点を問題だと考えるのは、これが社会学の歴史の中で半世紀以上も前から問題にされていた事態と同じモチーフを有しているからだ。

 「祭り」のような、人々が訳もわからずある出来事に方向付けられて熱狂するような状態のことを社会学では「集合行動」と呼ぶ。集合行動とは、(1)比較的組織されていない集団による、(2)集団全体として捉えるしかない創発的な傾向を有する、(3)ある時間的な広がりを持った過程のことである。例えば、「火星人襲来」のラジオ放送によって引き起こされたパニック(1938)や、ロサンゼルスの黒人暴動(1991)、そして豊川信用金庫の取り付け騒ぎ(1973)などの事例があげられる。もう少し詳しく集合行動について説明しよう。

 (1)集合行動は、あらかじめメンバーが定められた組織によって起こるのではなく、たまたまそこにいた人のようなゆるやかなつながりを持つ集団によって引き起こされることが多い。火星人が地球に攻めてきたというラジオ放送を真に受けて家から飛び出した人々の間には別に組織的なつながりがあったわけではなく、同じような人々がたまたま集まってパニックが広がっていったのだ。

 (2)また集合行動は、集団全体の傾向とそこに参加する人々の個別の心理状態とが必ずしも順接的に結びつかないという創発性を有している。アメリカの実証研究の例では、暴動の際に「無抵抗の」黒人に対して暴行を加えた白人警官が、通常ではむしろきまじめすぎるくらいに規範的だったということがある。

 (3)そして集合行動は、ある瞬間に起きてすぐに消えてなくなるということは少なく、時間がたつにつれて徐々に規模が大きくなるという特徴を持っている。1973年に愛知県で起きた豊川信用金庫の取り付け騒ぎは、「豊川信用金庫が危ないらしい」という電車の中での女子高生の他愛ない冗談が、数日間をかけて大きな噂となり、実際に信用金庫に人々が詰めかけるという事態に発展した。

 先に挙げた「祭り」の事例はまさにこの集合行動の特徴を体現していると言えるだろう。2ちゃんねらーは別にメンバーの固定された組織ではないし、祭りに参加する人々が個別に考えていることがそのまま祭りの内容に反映されるわけではない。さらに大規模な祭りになると、2ちゃんねる全体に広まっていく間にその規模も拡大することになる。

 それがオフラインで起こった場合には、2ちゃんねらー以外を巻き込んでいくことも考えられるだろう。今年の二月に発生した2ちゃんねるの「吉野家祭り」では、吉野家新宿靖国通り店に2ちゃんねらーが大挙して押し掛け、その騒ぎを傍観していた2ちゃんねらーではない通行人の間にまで靖国通り店に芸能人が来ているという「うわさ」が広まっていくことになった。その噂がさらに人を呼び‥‥というこの事件は、誰かの意図ではコントロール不能な集合行動の特性をよく表現している。

●衆愚政治とインターネット


 集合行動はなぜ問題になるのか。もちろん個別の噂が引き起こすパニックや暴動はそれ自体として問題だろう。しかしながらさらに問題なのは、それがいつ、どこで、どのように起きるのかということが予測もコントロールもいちじるしく困難であるという点だ。

 例えば戦時下では往々にして、人々は自分や自国が置かれている状況について冷静な判断を下すことが難しくなる。特に近代戦争は国家をその主体としているため、戦争に参加する人々はなかんずく「国家のために」という意識で戦争に参加することになり、そこでさまざまなファンタジーが呼び出されることになる。実際、第二次世界大戦では日本もドイツも、そして米国や英国でさえも戦時総動員態勢を引き、人々は自ら進んでその熱狂に参加したのである。戦後になって特にドイツの事例を中心に「なぜ人々は進んで戦争に荷担したのか」についての研究が盛んになり、それは私たちが生きる近代社会の一つのあるべき姿を構想するに至ることになる。

 それは例えば「大衆社会」という問題だ。20世紀初頭のドイツでは西ヨーロッパに遅れてスタートした産業化がようやく花開き、人々は農村の因習から解き放たれた「近代的な大衆」として生活することができるようになった。しかしそれは同時に、それまでの生きるよすが(縁)であった共同体を失い、常に失業の不安におびえながら生きなければならないということであった。近代的な会社組織の中で働くということは、常に自分が他の誰かと交換可能な存在として生きる不安と背中合わせである。

 この不安や無力感から逃れるために人々は、当時目新しいメディアとして登場したラジオなどの享楽的な文化に酔いしれ、政治的無関心の中で個人の殻に閉じこもっていくことになる。政治は不安を解消するための一つのイベントになり、大衆はメッセージの内容よりもスキャンダラスで刺激的な話題により反応するようになっていった。このような状況下でナチスは台頭してきたのである(ご承知の通りナチスはワイマール憲法という「民主的な」体制の下で合法的な選挙によって選出されたのだった)。

 一部の権力者の暴走ではなく、大衆全体の暴走によって民主制などの政治や国家体制の基礎が脅かされる。このような事態は衆愚政治とも言えるだろうが、それに対する処方箋は大まかにいって二つの方向に分かれる。一つには、「大衆は愚かなので優秀なエリートが社会を先導すべきだ」とするもの。官僚の堕落を嘆き、エリート意識を持った官僚を待望する近年の官僚批判は多くこの立場である。もう一つは、「大衆が愚かであったとしても、二度と同じ過ちを繰り返さないように『自立した市民』として一人一人が立ち上がるべきだ」とするものだ。「市民社会論」とも呼ばれるこの立場は具体的にはNGO、NPOなどの市民運動、行政に対する市民オンブズマンなどの活動のもっとも根底に流れる考えだ。

 この二つは第二次世界大戦後の先進国でそれぞれに独自の発展を遂げ、時流に応じてそれぞれが勢力を強めたり弱めたりしているが、なぜこのような話をするかというと、これがまさに現在のインターネットが直面している大きな問題の一つであるからだ。

 すなわち、インターネットというメディアを通じても集合行動は実際に起きることが証明されており、それがひいては衆愚政治につながる可能性を否定できない以上、大衆社会について考察されたのと同じように、インターネットについても「エリートか、市民か」という対立の中で処方箋が提出されてこざるを得ない。

 インターネットを通じた市民運動は近年特に注目を集めるところだ。「Global Peace Campaign」のように2001年の米国同時多発テロ事件以降顕著になった、一般の人たちで作る平和運動のサイトはその典型だろう。もちろん問題点がないわけではない。インターネットは情報それ自体としては規模の大小を問えないため、どのようなサイト、どのような運動であってもそれはそれで一つの運動として他のものと同列にカウントされてしまう。検索エンジンを活用したとしても、どの運動が一人一人にとってふさわしい、望ましいものであるかを判断するためには、個人の側の見識が十分に育っている必要がある。

 ではエリートによる先導はどうか。インターネットは草の根のメディアだから、官僚主導でのシステムはなじまないと考える人も多いだろうが、必ずしもそうとは言えない。というのもまだインターネットというメディアの普及それ自体にムラがあるからだ。たとえばある自治体では地域の各公共施設に光ファイバーによるインターネット接続環境を提供する代わりに、そこで利用できるインターネットのコンテンツについて、特に「有害情報」を規制するという政策を採っている。つまり、インフラとバーターに自治体の決定する「望ましい」コンテンツが市民の側に提供されるわけだ。何が望ましいコンテンツであるか、そもそも規制することは是か非かといった問題についての民主的な決定プロセスが欠けているとはいえ、エリート主導によるインターネットの方向付けは不可能ではないという一つの証左になるだろう。

●サッカーと2ちゃんねるとデマゴーグ


 結局のところ、これらの動きの前提になっているのは、ここまで述べてきたような、集合行動-なぜだかわからない熱狂-という私たちの社会に特有の現象を、いかにして衆愚政治に陥れないかということだ。このような立場に立てば市民主体であろうとエリート主導であろうと、2ちゃんねるの「祭り」のような「望ましくないコミュニケーション」は眉をひそめるべきものだと捉えられるだろう。

 しかしながら、再びサッカーの例について考えれば、フーリガンならずとも私たちはこの一ヶ月「ニッポン!ニッポン!」の熱狂-その熱狂はいったいなぜわき起こるのかは誰にもわからない-のただ中にいる。ナショナルな語りが嫌いな人間にしてみれば、誰もが熱狂の中で日の丸を振る姿は奇妙極まりない光景に見えるかもしれない。だが私たちは、私たちがそのような社会に生きていることを否定できるだろうか。

 2ちゃんねるの「祭り」は愚かな集合行動かもしれない。エリートとして彼らを正しい方向に導くべきだと考えようと、2ちゃんねらーにもっと賢慮なインターネット市民たるべく成熟してもらいたいと考えようとかまわないが、集合行動がいつもコントロール不能な状態で盛り上がっていくことを考えると、その考えは常に、単なる「祈り」に終わる可能性を排除できない。あるいは、祭りやフーリガンになって盛り上がってしまう人たちは、教育や啓蒙の足りない、ココロに問題を抱えた人たちだと考えるか?社会学の立場からすれば、そのような個別の人の状況に社会問題を還元させることは、単なる誤りであるだけでなく、再びそのような「わけのわからない熱狂」に皆が巻き込まれてしまう可能性を排除できない点で有害ですらある。サッカーでも2ちゃんねるでも、あるいは他のなにものでも、なぜだかわからない熱狂の渦に巻き込まれつつ、それでも衆愚政治に陥らないという「第三の道」が成立するかどうかが、インターネットと共に生きていく私たちのこれからの社会の中で検証されることになるだろうし、そうならなければならない。

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(2002/6/17)

[Reported by 鈴木"charlie"謙介]

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