地下鉄の階段から地上に出ると、どっと熱気が体を包みこむ。うだるような暑さにあえぎながら、だらだらした坂を上ると、やがて右手にモノトーンと直線を基調としたビルが現われた。日本IBMの本社ビルディングだ。私が取材のため六本木にあるこのビルを訪ねたのは2000年の暑い盛り、8月9日の午後のことだった。
一見すると面白みのない普通のビルだが、清潔で禁欲的なたたずまいはル・コルビジェ風の典型的な現代建築のそれだ。もうすぐ21世紀という現代にあっては懐かしさすら感じるが、私にはかえってそれが、アメリカの輝ける'50年代を担った多国籍企業の社屋に似つかわしく思えた。
怖いほどガランと静まりかえったビル内に入ると広報担当者が出迎えてくれる。折り目正しくひっそりと挨拶をする担当者に導かれるまま、エレベーターで昇って長い廊下にずらりと並んだ扉の一つを開けると、そこに3人のダークスーツ姿の男性が待っていた。
一番の上席らしい中年の男性が差し出した名刺には、“アジア・パシフィック・テクニカル・オペレーションズ スタッフ・オペレーションズ 標準 部長”と信じられないほど長い肩書きが書かれていた(どの言葉がどの言葉にかかるのだろう?)。この人が斎藤輝(あきら)。そう、情報部会で芝野委員長と舌戦をたたかわせた、他ならぬご当人である。
本来、日本工業標準調査会・情報部会[*1](以下、情報部会)の委員として任命されているのは、日本IBM代表取締役の一人である北城(きたしろ)恪太郎会長だ。その代理として出席した部長という肩書きから、実を言うと私は白髪混じりの人物を想像していたのだが、斎藤の外見はずっと若い。中肉中背、きっちりと髪をわけ浅黒く引き締まった肌、さて四十代後半、いや五十代か。快活でくだけた口調で話すが、いやいや、油断してはいけない、目はけっして笑わず、奥には強い意志がにじんでいる。この人は食えないオヤジだ。[*2]
[*1]……前回の末尾に書いたように、2001年1月6日の省庁再編により、通産省の外局たる工技院はすでになく、工技院が事務局を務める日本工業標準調査会も再編されることになる。しかし、この原稿では、すべて取材当時の呼称を用いる。詳細は前回を参照のこと。
[*2]……参考までに、情報規格調査会の以下のページで、斎藤が書いたレポート『JTC 1/Special Group on Strategic Planning会議報告』が読める。ここでも機種依存文字が使われているが、如何なものか。http://www.itscj.ipsj.or.jp/report/00sp_200006.html
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次に名刺を差し出したのは小田明。たしかJIS X 0208(以下、0208)の第4次規格(以下、97JIS)の規格票に名前があった。つまりJCS委員会のWG2(Working Group=作業部会)にあって、芝野委員長とともに実際に97JISの原案作成にあたっていたことになる。聞くとシフトJISを規定した『附属書1』を担当したチームのリーダーだったという。それまではデファクト規格で、各社が勝手な実装をしていたシフトJISを、はじめてJISとして明確化したのが97JISの功績の一つと言われている。名刺の肩書きには“ソフトウェア開発研究所 ソフトウェア技術推進 次長”とある。
ひょろりとした長身で早口で話す。見たところ斎藤よりも少し年下のように思える。
そして最後が榎本義彦。名刺には小田と同じく“ソフトウェア開発研究所 ソフトウェア技術推進”とあり、次長の替わりに“主任開発技術担当部員”と書かれている。この人は、今回の取材テーマであるJIS X 0213(以下、0213)の原案作成に、JCS委員会の委員として関わったという。原案作成をするWG2を監督するのが親委員会であるJCS委員会の役目だ。
あとで0213規格票にあたると1998年4月からの着任となっている。0213原案の公開レビューが同年11月6日から翌1999年の2月28日までに行なわれているから、この時期は原案作成も最後の追い込みにかかろうかという頃、つまり文字の収集に目途がつき、そろそろ符号化方法が課題になりはじめた頃になる。
色白、少し長めの猫っ毛、睫毛が長い。ひょっとすると学生時代は女の子を騒がせたのかもしれない。もっとも目の前の彼は浮ついた感じはなく、静かな物腰はかえって老成した印象を与える。視線をあまり合わせないから、人によっては覇気がないと思うかもしれない。また、時おり話題を蒸しかえして話の腰を折ったりもする。しかし私にはどれも、目立つことは好きではないが、不正確なことを放置するのは許されないという、エンジニアとしての気質から出たもののように思えた。一座で一番若く、四十前か。
まず最初に口を開いたのは、上役である斎藤だった。
「実を言いますとね、0213につきましては私自身、放っておいても問題ないんじゃないかという考えはあったんですよ。なぜならば、Unicodeで未定義の文字を含んでいるJIS規格を、マイクロソフトが実装するわけないというふうに踏んでいたわけです。ですから、0213はWindowsで実装されることはないだろうというふうに思ってました」
なるほど、前回で述べたように、実際斎藤の推測はマイクロソフトの0213に対する方針と一致するから、当時彼がしたという推測は、結果的に正しかったことになる。では、なぜそれでも反対することにしたのか。
「たとえば、ベンチャーみたいな会社がソフトを作るのにですね、0213のシフトJISを入れ込んじゃったらどうなるか。もちろんそれはWindowsとしてサポートの範囲外になります。でも文字は流れ出すわけです。そして、ウチのAptivaなりThinkPadを使っているお客さんが文字化け起こしたとき、まず(問い合わせの電話を)かけてくるのはメーカーである日本IBMなんですよ。これは絶対そうなんです」
私だってIBMに勤めてるけども、家でパソコンが動かなくなったら、まずメーカーに電話しちゃいますよ。ざっくばらんに斎藤はハッハッハと笑いながら言う。一座もつられて、なごやかな笑いに包まれた。
「そういうメーカーにとってインパクトを与えるリスクのあるものは、やっぱり当社としては容認できない。いろいろとディスカッションしてそういう結論になったんです。で、すぐにNECさんと相談して、電子協(日本電子工業振興協会)と一緒になってですね、ああいう動きに出たわけなんですよ」
斎藤は快活な口調で話を続ける。
「実は、要望書を出した時もですね、工技院に言われたんですが、なぜ委員を出して原案作成に参加しながら、最後の土壇場でちゃぶ台ひっくり返すんだということで、工技院はかなりおかんむりだったんです。で、何回も、何でそんなことになったと怒られましたんですけども、私はですね、その時も繰り返したんですけども、ラティフィケーション(ratification)って、ご存知ですねと」
ラティフィ……? 聞いたことがない言葉に緊張する私の心中など、お構いなしに斎藤は話す。
「つまり批准ですよね。例えば外交官が条約の交渉の場へ行って、これが国の立場だからってサインしますよね。で、揚々と帰ってきます。でも、国としては批准というプロセスを経ないと、やっぱりそれは発効できないんですね。私はね、部会の立場っていうのは批准する立場でもあるんじゃないかなという理解を持ってます。したがって、いかに原案作成の段階で私どもの会社の人間が行って賛成してきても、会社として思い止まるっていうポイントがあるんじゃないかと。その思い止まりが、いわゆる部会での批判だというふうに考えまして、今回はぜひ止めたい、できればテクニカルレポート、まあ妥協したところで附属書を参考と、そういうところへ持っていきたかったわけですね」
斎藤は、私が事前に送っていた質問書に目を落とした。
「小形さんからきた質問にも、日本IBMは原案作成に社員を派遣していたんだから、いくらでも意志を反映するチャンスはあっただろう、なのにどうして最後の最後、情報部会の段階で反対したんだと、いうような項目がありますが、まあ声の大きさはともかくとしてね、実は我々、JCS委員会の中でシフトJISによる符号化には反対していました。あとでちょっとご説明しますけど、代替案というのも出してます[*3]」
[*3]……いろいろな意味で興味深い内容なので、次々々回以降に詳述する。
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立て板に水、彼の説明はあたかも事前に整理されたように論理だっており、非常にわかりやすく聞こえる。
「たしかに最初の開発意向表明[訂正]っていうのがあったときに、もうちょっと声を荒げてですね、たとえば椅子を蹴って出てくるぐらいの気概で反対すればよかったのかもしれないんですけども、当時我々の意識もそこまで先鋭化してかったんですね。まあ、最初の段階であまりきつい反対を言ってなかったっていうのは、反省点だろうとは思ってます」
昔、CNNのニュースキャスターをやっていた人に、この人は似ている。誰だったっけ? そうだ、武見敬三、大学の教師から自民党で選挙に出て外務政務次官になった人だ。話し方もよく似ている。
「しかしですね、仮にですよ、原案作成の段階で、ウチの委員が一度も反対しなかった、あるいは両手を挙げて賛成したということがあったとしてもですね、私としては情報部会で反対を表明するということに関して、なんら問題ないんじゃないかというふうに思っております。というのはディテールをディスカッションする専門委員会やWGというのと、最終審査を行なう部会というのは、おのずと視点が違うと思うんです。もし部会が原案作成委員会と同じスタンスで物事を判断するようになると、部会っていうのは何だろうなと。部会の意味っていうのはあまりないんじゃないかっていうことも言えると思うんですよね。で、私はやっぱり部会なりのパワーリザーブっていいますか、そういうのがあって然るべきで……」
「すいません、“パワーリザーブ”って何でしょう?」
私は少しとまどいながら口を挟んだ。斎藤も私の素朴な質問にとまどったように答える。
「最後にディシジョン(decision=決断)するパワーっていいますか、何ていうんですか、日本語でパワーリザーブっていうのは、他人任せにしてはならない権限ですか、まあ、私どもはよく使う言葉なんですけど。で、そういうことがしょっちゅう起こっちゃ困るんですけども、今回はですね、私ども、部会の委員はウチの会長がやってるんですけど、その了解もとりましてね。そんなものは滅多に抜いちゃいけないんだけども、まあ伝家の宝刀ということで、今回抜かしてもらったということなんですよ。そんなの何回もあっちゃいけない、たぶん一生に1回とか2回っていうものだと思いますけども、でも今回はそういう場面じゃないかと」
以前取材した芝野委員長も英語混じりの日本語だったが、そういえば彼も日本IBMの社員だった。ひょっとしてこの英語チャンポンは、この外資系企業社員の特徴なのだろうか。そんな私の雑念をよそに、何事もなかったように斎藤は話を続ける。
「で、この問題で、どうして電子協を巻き込んだかというと、部会のメンバーをご覧になればわかりますけども、日本のメーカーが全部入ってるわけじゃないですよね。私たちはこういう重要な問題に、部会のメンバー以外の会社の声が反映できないと困るんじゃないかなと、そう思いまして、そういう会社にも入ってもらい、要望書として意見が一つにまとまるんだったら、ということで出したものなんですよ」
そうか、どうやら言葉は悪いが、この人が黒幕ということのようだ。私はあらためて聞いてみた。最初に電子協に話を持っていかれたのが斎藤部長だったんですか?
「ええ、すぐNECさんにも相談しましたけども、私がイニシアティブはとりました」
となれば聞きたくなるのは、要望書にこめられた真意だ。まず要望書の趣旨はどのようなものか? 斎藤が答える。
「私ども、要望書に書いてあるとおりね、別に急いでJISにしなくてもいいんじゃないかと思ったんです。つまりテクニカルレポートにするっていうことは即、廃案じゃなくて、中間のところに置いといて、“国際”と一緒になって、シンクロしたらJISにすればいいし、いろいろ手があるわけです。そういう意図で要望書を出したんです」
彼らが0213のJIS化に反対するために持ち出した、テクニカルレポートという制度については、これまでも何回か解説した。要するに工業標準化法に縛られるJISだと、どうしても規格の制定まで時間がかかってしまい、技術革新の激しい市場に対応しきれず出遅れてしまう面がある。そこでJISよりも法的根拠には乏しいが、その分市場の要求に合致した標準をテクニカルレポートとして公開しようという制度なのだ。国際規格ではすでにおなじみだが、国内では1996年からはじまった比較的新しい制度だ[*4]。たとえばXMLに関するいくつかの規格も、JISではなくテクニカルレポートになっている。
実を言うとテクニカルレポートは、日本工業標準調査会(うち情報技術分野を情報部会が担当)の審査を通れば、そのままJISに看板を付け替えることも可能という、いわば玉虫色の側面をもつ。斎藤が〈いろいろ手がある〉と言うのはそういう意味である。
また〈国際といっしょになって〉とは、情報技術分野における国際的な標準策定機関『ISO/IEC JTC 1』の下部にあって、文字コードを担当する『SC 2』(議長は芝野耕司・東京外語大教授)に対し、日本代表として出席する情報規格調査会『SC 2専門委員会』(委員長は石崎俊・慶應義塾大学教授。以下、JSC 2)のことだろう。文字コード関係者は、この委員会のことを単に“国際”とか“国際の方”と呼ぶことが多い。
国際組織SC 2のさらに下には、1文字を16、32ビット単位で表す[*5]文字コードを担当する『WG 2』と、1文字を7、8ビット単位で表す文字コードを担当する『WG 3』が置かれているが、JSC 2はその両方に対応することになっている。しかしその活動の主眼が置かれるのは、ISO/IEC 10646[*6](以下、10646)を担当するWG 2への対応であるようだ。なぜなら、10646はデファクト規格であるUnicodeと連携しており、日本語の実装に深く関係するからだ。
[*5]……文字コードを策定する国際機関『SC 2』の言い方では“マルチオクテット”となる。通常は8ビットを1バイトと呼ぶことが多いが、一方でビットが集まった最小単位を1バイトと呼ぶ方法もある。後者の呼び方では1バイトのビット数は7ビットでも16ビットでもあり得るから、前者と後者の呼び方を混用すれば意志の疎通は不可能だ。そこでITU-TS(国際電気通信連合・電気通信標準化セクター)では、8ビットを常に1オクテットと呼ぶことを提唱した。SC 2でもこれにならいオクテットを使っている。8ビット=1バイトとするなら、本来まったく構造の違うシフトJIS(8ビットの符号を2つ合わせて1文字を表す)も、UCS-2(10646の符号化方法の一つ、16ビットで1文字を表す)も同じ2バイトコードになってしまうが、オクテットを使えばシフトJISは1オクテットの2バイトコード、UCS-2は2オクテットの1バイトコードと呼び分けることができる。
[*6]……UnicodeとISO/IEC 10646の関係については第1部第2回を参照。
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つまり、斎藤が〈国際といっしょになって〉という言葉の裏には、以下のような日本IBMのメッセージがこめられていたことになる。現在のJIS漢字コード、0208では文字が足りないのは自明として、その拡張は新たなJISである0213でやるのではなく、JSC 2といっしょになって国際規格、10646でやって欲しい……。
もちろんテクニカルレポートでは新しい文字の提案の根拠として弱いと指摘される可能性もある。となれば、前述したようにこれをJISにしてから提案するという手段もある。このことは第2部第12回でも書いた。つまりJISはあくまでも“方便”であって、斎藤たちにとっての眼目は10646(≒Unicode)にあった。
そうして、10646に新しい日本の文字が入れば、Unicodeにもほとんど即座に反映される。公的規格である10646と違い、私企業集団がきめるデファクト規格[*7]は、その点動きが早い。となれば速やかにWindows[*8]にも実装される可能性が高い。
[*7]……公的規格(デジュール規格)とデファクト規格の関係については、第1部第2回を参照。
[*8]……マイクロソフトには、現在2つのラインのOSがある。一つはシフトJISをベースとするWindows Meであり、もう一つはUnicodeをベースとするWindows2000だ。この2つのラインは来年に予定される次期バージョン、コードネーム『Whistler』で合流する予定だが、もちろんこれはUnicodeがベースだ。なお同社は、基本的な方針として文字集合の拡張はシフトJISベースでは行なわず、Unicodeによってのみ行なうと明言している(詳細は特別編第4回を参照)。
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さて、こうして要望書[*9]が出された後に情報部会が開かれ、ここで斎藤部長と芝野委員長の激論があったのは既述の通り。では、その後なにがあったのか? 次回は工技院(当時)の“事務局調整”の正体を明かしてもらおう。