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【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。
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このところ、「出会い系メディア」に端を発する犯罪の報道が目立ってきた。毎日新聞社のサイト内にある「インターネット事件を追う」を参考にして欲しいが、古典的な美人局や児童福祉法違反のみならず、純粋に出会った「人と人」とのトラブルが事件にまで発展する例も見られるようになったことは、ある意味で「出会い系」が我々の生活の中に浸透してきていることの証左といえるかもしれない。
ただし忘れてはいけないのは、「犯罪報道の増加=犯罪の増加」ではないということだ。「出会い系メディア」に関する犯罪報道の増加は、出会い系そのものへの社会的注目度の高まりを表しているとは言えても、犯罪の増加を示す基準にはならない(たとえ摘発件数が数字の上では増加していたとしても、それが単純に警察の取り締まり強化の結果でないと言い切れるだろうか?)。
同時にそれは「出会い系メディア悪玉論」にも根拠がないことを示している。何らかの犯罪が出会い系メディアを舞台にして起こったとしても、a.出会い系サイトが原因なのか、b.アクセスする人間が問題なのか、c.その両者が関係しているのか、d.どちらも出会い系メディアでの犯罪とは関係ない(全くの偶然)のか、といった事柄について一意的に決定できない以上、メディアだけを問題にすることは的外れであろう。今回のコラムでは、「何故この種の犯罪が起きてしまうのか」について考えてみたい。
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「出会い系サイト」を舞台とした事件の多くが、パソコンまたは携帯電話でインターネットの出会い系サイトにアクセスし、メールのやりとりを経て、出会った「後で」事件に至っていることは注目に値する。つまり「メル友の豹変」という事態が、これらの事件のキーワードになっているのだ。
そもそも「メル友」とはどういう存在なのか。現在の我々を、特に若者を取り巻く環境の中では、友人関係にも数多くのメディアが介在しており、「ベル友」「メル友」「ケイ友」「ネット友」などの「友達」を表す言葉が複数存在している。このような、彼ら彼女らを幾重にも取り巻く微妙な距離の関係は、当人たちにとって一体どのような機能を果たしているのだろうか。
このコラムの第1回で私は、メールでのコミュニケーションが教室での「投げ文」と同じく、「みんなの前ではできない話」をすることで、人間関係を円滑にする機能を持っているのではないかと論じた。この時は、顔見知りに限定して話をしていたが、メールだけの、またはネットだけの「友達」に関しても、そういう部分があるのではないか。
つまり「事実関係を知らない人」だからできる話、というのがあるのだ。ただこの種の関係がメールやネットに特徴的なのかというとそうでもない。例えばテレクラや伝言ダイヤル。かつて劇作家の鴻上尚史はエッセイの中で、伝言ダイヤルにあふれる「誰にも言えない話」に衝撃を受けた体験を語ったことがある。このような「誰にも言えない話を他者に接続する」ようなコミュニケーションは、匿名メディアが誕生して以来、さまざまなメディアに伝播していくことになった。実際出会い系メディアの多くは、テレクラや伝言ダイヤルに近似したシステムを持っている。
なぜ人々はそもそも「出会い系メディア」に動機付けられたのだろうか。それは意外にも、出会い系メディアの方が相対的に「安全に」誰にも言えない話をすることができるからだ。
代わり映えのない日常に退屈した妻が、ふとしたきっかけで不倫の道へ……、といった「金妻」現象に代表される「行きずりの恋」は、行きずりの関係それ自身が目的なのではなく、そこに付随する「ムシャクシャした気分を晴らす」ことが重要だった。だが、日常に退屈した挙げ句、見知らぬ男と関係を持つことでしか気分が晴れないのだとしたら、それは非常にコストの高い関係になってしまう。その間に「匿名性」を保つメディアが介在していれば、直接関係を持つより安全度は高まるはずだ(理想的には)。
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匿名性を保つメディアが介在することで安全性が高まるという議論は、メル友にも当てはまる。例えば、メール友達とデートの約束を取り付けて実際に会うまでのプロセスを考えて欲しい。初めは自己紹介、そして何度かのメールのやりとりを繰り返すうちに、一緒に遊びに行こうか、という話になる。中にはその前に「いきなり会うのは怖いから電話番号教えて?」とか、「本名はなんて言うの?」というメールを受け取る人もいるかもしれない。
メールから対面のコミュニケーションにたどり着くまでには、お互いの情報を交換しあったり、より情報量の多いメディアに切り替えたりといった「段階」を踏むことが多い。これは、情報量=「対面度」の違うメディアを使い分けることで、人間関係のスクリーニングを行なうためだと考えられる。
人間関係のスクリーニングとはこういうことだ。メル友が自分にとってあまり合わない人間だと思えてきた時に、自分の電話番号や家を知られていると関係を「切る」ためのコスト(労力)が高くなる。だからあまり親しくないうちは、メル友に個人情報を明かさないようにするのだ。メディアの介在によって匿名性という安全度を担保させ、自分からの距離を調整する、これが関係のスクリーニングの機能だ。
しかしながら、このような関係はメディアの発達によって初めて現れたのではない。社会学における都市と農村の研究は、そこで培われる「関係」の量的な差異と共に質的な差異をも重要な問題だと看倣してきた。前近代までの我々の社会の多くは「ムラ」のような小さなコミュニティが生活の基本的な単位であり、ある個人の一生はそのコミュニティにほぼ内包されるような世界であった。しかし近代以降の急速な都市化は、個人の生活空間を拡散させる方向で作用することになった。社会学でも当初、現代の都市においては関係が希薄化=二次化していくと考えられていた。しかしながらその後の研究により現在ではこの見方が一元的なものでしかないことが明らかになっている。
確かにかつてのムラ社会においては「出会い」のチャンスはムラの中に限定されており、その意味で「不自由」ではあるが「わかりやすい(=複雑性の低い)」関係でもあった。では現代の我々の場合はどうか。ムラに比して関係の総体、すなわち「出会いの可能性」が高まった分だけ我々は「自由」を手にしたとも言えるが、全体の可能性の高まりが個別の関係の緊密度と関連するかどうかは、必ずしも自明とは言えない。むしろ個別の関係がどのように築かれていくかを見ていく方が、「人は近くにいる人を好きになってしまう」などといった心理学的な説明より有意義である。
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なぜならば前回までで示したように、同じような事件が頻発してしまうときに「個別の心理的動機」を追求するだけでは「なぜそのような事件が起こったのか」を「再発防止」という観点に生かしていけないからだ。「その事件は犯人が異常な人間だったために起こりました」では、「誰もがそういう人間に接続可能なメディア」への経路を閉じることでしか自分の身を守る術がないということになってしまう。「出会い系メディアそのものが悪い」というのも「誰がアクセスしているか分からないから用心しましょう」というのも、社会学的な観点で再発を防止するつもりであるならば同じように意味がない。
社会学的に「出会い系メディア」を観察する際に要点となるのは二つ。
(1)「人間関係の個人化」は都市化の産物であり必ずしも悪いとは言えない。
(2)都市化された社会に生活する我々にとって、メディアを介した「心理的な距離」は「直接の対面で培われる心理的距離」に比して劣るとは言えない。
ということだ。
説明しよう。(1)「人間関係の個人化」とはどういうことか。ムラ社会のように関係の総体が限定されていない都市的関係を生きる我々は、他人の関係の総体がどのようなものであるかを知ることが非常に難しくなる。例えば自分の妻の友人関係すべてを夫が知っているということはあり得ない。これは価値判断以前に動かしようのない問題だ。パーソナルコミュニケーションツールが普及したことで確かに、ある個人の関係の総体を見るのは非常に難しくなった。しかしそれをよく言われるような「人間関係の希薄化」と言い切れるかどうか。
それが(2)の問題と関わる。人間関係は確かにさまざまな領域に拡散したが、そこで個別に取り結ばれる関係がどのようなものであるかは、その拡散の度合いとは相対的に関係が薄い。拡散し個別化したからこそ、個別に深い関係を築くことができるとも言えるはずだ。「出会い系メディア」における犯罪の話をすれば、そこで「みんなの前ではできない話」をするという、対面に比して「深い関係」になってしまうことは往々にしてあるはずだ。誰にも言えない悩みをうち明けて(うち明けられて)しまったがために、そのような話のできない「周りの人」より重要な相手になってしまうのだ。ある意味「メル友の一発逆転」とも言える。
「出会い系メディア」における犯罪の「メル友の豹変」という事態はここと関係しているのではないか。メディアを通じて「大事な人」と出会ったと思いこんでしまうということと、実際に会ったときとの落差が生じるのだ。しかも我々は大抵「直接対面で取り結ぶ関係の方が重要」だと思いこまされているから、深い関係である以上は会わなければならないという風に動機付けられてしまう。私も出会い系メディアの取材を通じて「こういうので話した人と、絶対に会わなきゃいけないのかな?今メル友にしつこくデートに誘われてるんだけど」という人たちをたくさん見てきた。
もし我々が出会い系メディアを社会の一要素と認め、かつそこで一定数起きるトラブルに対処していかなければならないと考えるならば、重要なのは人間関係の中で、どういう要素が「重要」なのであり、それはどのように築かれていると判断するのかを見直さなければならないだろう。いたずらに「対面のコミュニケーション=深い関係」だと説くことだけでは、この種のトラブルの防止には繋がらないと考える。
■お薦めの一冊
W.F.ホワイト『ストリート・コーナー・ソサエティ』(奥田道大・有里典三訳、有斐閣)
→一般的には社会学的フィールドワークの古典。しかしながらここに息づく都市の人々の活気は、「人間関係の希薄化」といった通念を破るには十分だろう。日本における都市の人間関係を見るなら、古典ではあるが、小津安二郎監督の映画『東京物語』をお薦めしたい。
◎執筆者について 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。ハードな政治思想から、若者文化に至るまで幅広く研究しているが、その様は「ミニミニ宮台君」と言われても仕方がないのではないか・・・という声も。 |
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(2001/6/26)
[Reported by 鈴木"charlie"謙介]