【連載】

社会学の理論で斬る「ネットの不思議」

第8回:「個人サイト」の不思議1
−表出される自己意識−

【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。

個人がサイトを持つということ

 インターネットが我々の身近なものになったのを、個人によるダイヤルアップIP接続が可能になった1994年からと計算しても、まだ10年もたっていない。しかし我々は、「ホームページ」を用いて自分を表現するという手段を手に入れた。個人でサイトを開設するだけでなく、掲示板に書き込むといった行為まで含めれば、インターネット上で自己を表現する人は、インターネット人口の増加に比例して今後も増えていく一方だと考えられる。

 その中でも個人が自分の「ホームページ」を開設するというのは特異な営みだと思う。私自身ウェブデザインの仕事をし、自分の個人サイトも持っているが、サイトを作って運営することは非常にコストのかかる作業である。にもかかわらず我々がサイトを作るのは何故だろうか。

 一般的には、最大の動機は「人に見てもらいたい」ことだと考えられている。未だに累計で何回閲覧されたのかを示すアクセスカウンターがサイトの人気を表す度数となっていることからもそれはうかがえよう。その極北にあるのが「ネットアイドル」だ。例えば、ネットアイドルのランキングサイトである「ネットアイドルをさがせ!」では、「投票」というシステムでネットアイドルの人気の指標をとっている。何故このように「多数の人に認められること」が重要なのだろうか。これは社会学における「有名性」の議論と関係がある。今回のコラムでは、個人サイト、特にネットアイドルの分析を通じて「有名性」と彼女たちの自己意識について考えてみよう。

ネットアイドルと不思議少女

 個人サイトの開設・維持の背後に「有名になりたい」という動機付けを読み込むこともできるが、彼女らがマスコミで取り上げられるような有名人になりたいと思っているということではない。むしろネットアイドルを取材した限りでは、彼女たちは世間一般よりも自分を認めてくれる人と、できる限りたくさん交流したいと考えているようだった。

 このような現象の端緒となっているのは、「不思議少女の登場」である。不思議少女とは、いわゆる「個性」を重んじ、「人と違うことはいいこと」だと考える少女たちだ。彼女たちがメディアで注目されはじめた1996年以前にも、サブカルチャーの分野ではそういう少女たちをよく見かけた。「アート系」とか「原宿系」と呼ばれていた少女たちだ。彼女たちはその後、ビジュアル系やコスプレイヤーに拡散していくことになる。実際、ネットアイドルの中にはそのような少女たちが多いのも事実だ。

 実際、ネットアイドルの自己意識は、不思議少女のそれと驚くほど似通っている。不思議少女たちの中には「お友達」を作ることに熱心な子が多かったが、彼女たちの特徴は、決まって自己意識がネガティブなことだった。彼女たちにとって「個性的」なファッションや振る舞いは、否定的な自己イメージを肯定的なものに転換するために、人間関係をスクリーニングするためのツールだったのだ。

 つまり、彼女たちに共通して見られる「自分を認めてくれる多くの人たちからの承認」への志向は、例えば彼氏などから供給される「唯一の承認」と違って、社会から「あなたは、間違いなくあなたですよ」と承認されていることの確認作業なのだ。これを、「たまたま彼女たちが、自己イメージに対して前向きでない人達だったのだ」と考えてはならない。なぜならば、自分が自分として社会から承認されることと、近代社会とはそもそも相容れないものだからだ。

近代社会と有名性

  「有名である」という時に我々が想起するのは、芸能人などの「誰でもが知っている人」であろう。では「その反対は?」と質問されたらどうだろう。日本語ならば通常「無名」であると考えるだろうが、そもそも「無名」とはどういうことなのか。英語では「有名:famous」の対義語は「匿名:anonymous」である。この「匿名」という用語は、社会学の分野では必ずしも「有名でない」という意味にも、通常日本語で使用されるような「名前を隠している」という意味にも使われてこなかった。

 「匿名」とは、「都市化の進展した社会において、人がその個人ではなく、他の誰とも交換可能な一個の存在として捉えられている」という意味だ。例えば、出会い系サイトで「24歳の男性」などと名乗るが、日本中に「24歳の男性」は数限りなく存在する。人はそのような他の24歳の男性と交換できないような「私」をアピールしようとして出会い系サイトにアクセスするのに、そのために他の誰とでも交換可能な属性を示さなければならない。これはムラ社会などと異なり、自分が何者であるか知らない人が大半を占める都市社会では避けられない事態だ。

 つまり「有名である」とは、その名を知られることで他の誰とも交換不可能な存在になることだ。例えば、「中田英寿」は数限りない「24歳の男性」の1人であるが、同時に「世界の中田」として他の誰とも交換不可能な存在だ。誰もが匿名的な存在であることが状態である近代社会において有名になることとは、他の誰とも交換できない「この私」として承認されることに他ならない。

自己の表出と平凡さ

 そう考えていくと、ネットアイドルをはじめ、個人サイトを開設し、運営していく人々の「アクセス数」へのこだわりは、それ自体が自己目的化しているように見えるが、実は「有名になる=他の誰でもない私として認められる」という動機がその背後に見え隠れしているのだ。社会学では、このように考えることで「彼らを特殊な動機付けに動かされている人でなく、社会的な背景の下に振る舞う人として認識できる。さらに、その主体的な動きを評価できる」メリットがあると主張する。

 近年の研究では、人々のより主体的な側面を評価する方向で批判を加える。それによると、人間はデマゴーグやテレビに簡単に「洗脳」されてしまうような存在ではなく、主体的に自分の考えや解釈を付け加えながら振る舞うような存在である。その意味でネットアイドルは、主体的振る舞いを行なう存在として評価しうるのだ。

 しかしながら私自身の考えは、これらとは少し違う。そもそも、そのような主体的な振る舞いを可能にするのは、特殊な条件が存在すると思えるのだ。例えば、もう1度ネットアイドルに戻って考えよう。よく知られているように、ネットアイドルのすべてが「アイドル」と呼び得るほどに可愛いわけでも、愛嬌を振りまけるわけでもない。しかしながら彼女たちはアクセス向上を目指して、上目遣いやソフトフォーカスをかけた写真を並べ、メールや掲示板で寄せられる「声援」にこまめに返事をし、「私だけの秘密の日記」を公開する。

 「有名性=誰とも交換不可能な私だけの私」を獲得するべく彼女たちは日々そのような「私」をアピールし続ける。そこで表出される自己、「私だけの私」とは本当に「有名性」を獲得する手段足り得るだろうか。

 世の中の誰でもが「個性的」な存在になるということは、誰しもが「個性的」であるという意味で非常に没個性的である。「私だけの秘密の日記」をたくさんの人が公開すれば、それはある意味で「誰でもが持っているような秘密」を公開する没個性的な場所にしかならない。

 彼女たちの振る舞いが、主体的に自分というものを立ち上げていくものであることは確かに認められる。しかし「個性」なるものは、多くの平凡の上にしか成り立たない。「私だけの私」を承認するために永遠に自己表出を行ない、「個性的」に振る舞わなければならないとしたら、それは非常にコストの高い社会である。むしろ肝要なのは、平凡な人が平凡でありつつ、そのままで「私」として承認されるシステム、そんな社会を目指すことではないだろうか。

■お薦めの一冊
石田佐恵子『有名性という文化装置』(勁草書房)
→「有名性」の歴史的背景やメディアとの関係について考察されている。著者の理論的背景となるカルチュラル・スタディーズへの言及も含めて、社会学が何をなし得るかを知るにはいい本だろう。

◎執筆者について
 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。この連載を通じてメールを頂いた方に、多忙のため返信できないことのお詫び代わりに、コラムのサイトを作りました。→こちらへ。

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(2001/7/10)

[Reported by 鈴木"charlie"謙介]

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