【連載】

社会学の理論で斬る「ネットの不思議」

第10回:「2ちゃんねる」の社会

【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。

最大規模のネットコミュニティ

 匿名掲示板「2ちゃんねる」が、最近あちこちで話題になっている。昨年あたりからマスメディアで取り上げられる重大事件に一緒に登場することが多く、ネットの外側でも注目を集める「2ちゃんねる」だが、ネットの中においても、数の上でのその注目度は増す一方のようだ。

 ネットリサーチ会社「JAR」の独自の調査によると、「2ちゃんねる」のドメインごとのアクセス量は全体で10位、コミュニティサイトの中では「tcup」に続いて2位となっている。「tcup」も「2ちゃんねる」と同様に「掲示板」という形で運営されるサイトだが、個別に設置されたフリー掲示板も多いことを考えると、「2ちゃんねる」現在ネット上でもっともアクセスする人の多い“コミュニティサイト”だと言えるだろう。

 しかしながら同時に「2ちゃんねる」には、「罵詈雑言の飛び交う無法地帯」というイメージがつきまとっているのも事実だ。さまざまな事件に登場したり、通常のコミュニティサイトより多少乱暴な発言に対して許容度が高いため、一見するとそのような印象を受けることもあるかもしれない。しかし、「無法地帯」でありながら「コミュニティ」でもあるとは一体どういうことなのか。今回のコラムでは、「2ちゃんねる」の分析を通じて、コミュニティを形成するということについて考えてみたい。

「無法地帯」とはどのような状態か

 「2ちゃんねる」につきまとう「無法地帯」のイメージだが、そもそも無法地帯であるとはいったいどのような状態を指しているのか。「無法」とはout of law、すなわち法が存在しない、あるいは適用されないような状態のことである。では法が存在するということは我々にとってどのような意味があるのか。

 社会システム理論では法の存在を「いざというときの呼び出し線」だと考える。通常「法」は「してはいけないこと」を我々に命令しているものだと考えられており、その根拠は倫理道徳や価値観、これまでの習慣などに求められるというのが一般的な理解かもしれない。しかしながらシステム理論によれば「法」はそれ自体として独自の体系を有したシステムであり、我々はその法に基づいて生活しているというよりは、法から逸脱するふるまいに対して法を根拠に賞罰を呼び出せるという「予期」の下に自由に振る舞っているのだ。

 つまり、一見無法地帯に思える「2ちゃんねる」といえども、どこかで「いざというときの呼び出し線」としての法が存在しているが故に自由に振る舞えるのだ。たとえ書き込まれた情報が作り話であろうと、リンクを張られた先が危険なものであろうとそれは自分の責任において取り扱わなければならないが、「2ちゃんねる」のローカルな法に照らして不適切な書き込みには削除依頼を出すことができるし、場合によっては社会の法(実定法)をも呼び出すこともできる。だからこそ我々は自由な書き込みを行えるのだ。必ずしも許容度が高い=無法地帯ということではない。

コミュニティとアソシエーション

 「2ちゃんねる」が完全な無法地帯ではないとしても、それがネットコミュニティであるということはどういう事なのだろうか。通常コミュニティというと、サークルなどのようにメンバー同士の親密な関係をもつ、ある目的を有した団体のことを指しているが、この定義は社会学的には厳密なものではない。

 社会学では、ある人が自由意志で加入、離脱し、ある目的のために、本来的には異なった人々が人格の一部を重ね合わせる形で形成される集団のことを「アソシエーション」と呼んで、人が生まれながらに属し、当人にとっては選ぶことの出来ない、人格の全体を包含するような文化、価値体系などを持った集団=「コミュニティ」と区別してきた。サークル、政治結社、ボランティア団体などがこの「アソシエーション」に相当するわけだが、ここで重要なのは、それが人格の全てを包み込むようなものではない、目的志向的なものであるということだ。

 社会学の初期の研究においてはこの「コミュニティ」は近代社会の中で「アソシエーション」に置き換わっていくと考えられていた。つまり、「人と人との関係はそれぞれの目的に応じた個別の集団において培われるようになる」と。それが人が生まれ落ちたコミュニティで一生を終えるような前近代社会と対置される近代社会の特性である。

社会学と中間集団

 その後その考えは、近代社会におけるコミュニティやアソシエーションの内実を研究する方向で発展し、必ずしもこの考え方が正しいとはいえなくなった。だが、このような中間集団が社会学の中でも重要な研究対象であることに変わりはない。

 社会学の初発の動機付けには、以前(第5回:「悪趣味ゲーム」の不思議)にも少し書いたが、「市民社会の失敗」という事態があったからだ。近代という時代は「神」や「国王」が中心にいた時代から「人間」が中心になった時に始まったのだが、そこで理想とされていた「理性的な人間」は必ずしも秩序ある社会を作り得なかった。そこで、「どのような存在があれば人間は秩序あるふるまいをなしえるのか」ということがいくつも考えられたのだが、社会学においてはそれは「中間集団」と呼ばれた。

 どのような形で存在する中間集団が、どのような形で人間の成長や行動に影響を与え、全体としてはどのような社会に見えるか。これが社会学のさまざまな領域に通底するテーマである。その上で「2ちゃんねる」のような「ネットコミュニティ」が一体どのようなものとして捉えられるべきなのかは、社会学として非常に興味深いテーマだと言えるだろう。

公的領域としての「2ちゃんねる」

 その分析の枠組みとして私が重要だと考えるのが、近年政治の世界でよく言われる「共同体主義」的な側面である。政治的によりよい国家を築くために、伝統に基づいた地域共同体や家族(コミュニティ)、あるいは個人の責任で関与しうる集団(アソシエーション)をきちんと整備すべきだというのはこれまでの政治理論でも繰り返されてきた主張だが、そのどちらとも違う「共同体」を構築する必要に迫られているという主張が注目を集めているのだ。

 そこで構築されるべき「共同体」の基礎は、伝統とか目的といったことに求められるのではない。では何が「人と人」を結びつけていく楔の役割を果たすのか。私の考えではそれは「現にある」ということだ。地域の結びつきが強かろうと弱かろうと、例えば自分の子供が通学したり、公園で遊んだりするという意味で「地域」が“現に存在すること”を我々は選べない。そこで自分の子供を安全に通学させたいなどと我々が望むならば、現に存在する地域をどのように皆で保全していくかを考えるべきだというのがそこでの主張だ。

 「現にある」ということを言い換えるならばそれは「公的領域(public sphere)」ということになる。公的領域は現に存在する開かれた場所であり、複数の人間がそこで生活の一部を過ごすような場所だ。こうした性格を持つ公的領域が「顔の見える」関係を築く場所でしか成立しないということが果たして言えるだろうか?

 誰とでも交換可能な「私」が集まる匿名の掲示板で「みんなの前ではできない話」をする人々が存在する。そういう人がいることや、あるいは「2ちゃんねる」という場所は「現にある」。だとするならば必要なのは「2ちゃんねる」という公的領域がどのように保全されていくべきであるかを考えることだ。

 生物の世界では、全く互いに関わりを持たないもの同士が同じ資源を共有しながら生きている状態のことを「共存」と呼ぶ。共にあること、共に生きることは、必ずしも「みんなで仲良くする」事とは関係ないかもしれない。しかしそれでも同じ場所で、現にある資源を共有して生活することはできる。今後、「2ちゃんねる」という「公的領域」が、我々の「共存」の可能性をはかるための実験場になるかもしれない。

■お薦めの一冊
アンソニー・ギデンズ著『第三の道』(日本経済新聞社)
→「伝統的共同体」を重視する旧来右派、「労働組合」を重視する旧来左派のどちらにも与しない、新しい共同体=アクティブな市民社会の構築を目指す政治理論「第三の道」についてのマニフェスト。社会学と言うよりは政治的プロパガンダの本だが、そのアイディアから学ぶところは多い。

◎執筆者について
 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。この連載を通じてメールを頂いた方に、多忙のため返信できないことのお詫び代わりに、コラムのサイトを作りました。→こちらへ。

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(2001/7/24)

[Reported by 鈴木"charlie"謙介]

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