インターネットが社会の基盤インフラとなりつつある一方、アナログ社会にはなかった新たな危険や落とし穴も増え続けている。この連載では、IT化が進む中で起こるさまざまな事件を、元全国紙記者が独自の取材によりお伝えします。(編集部)
■匿名掲示板に書き込まれた企業批判の扱いは、どうすればよいのか?
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古川健介氏が運営する掲示板サイト「milkcafe」。大学別や予備校別に150以上の掲示板が作られている |
インターネット匿名掲示板に書き込まれた企業などへの批判は、どう扱われるべきなのか――。きわめて微妙なこの問題について、新たな議論を投げかけるであろう重要な判決が、5月18日に東京地裁で下された。都内の予備校について書かれた「親の間に不信感が広まっている」「この予備校の授業は役に立たなかった」「はっきりいってぼったくり」といった書き込みについて、裁判所が「表現の自由の範囲内として許容すべきである」と認めたのである。
こうした中傷ともとれる批判的表現は名誉毀損なのか、それとも表現の自由で守られるべきものなのか――。境界線の曖昧なこの難題について、これまでの裁判判決では多くが原告側の訴えを認め、匿名掲示板の責任を指弾してきた。今回の判決は、そうした風潮に何らかの波紋を呼び起こすだろうか。
裁判の舞台となったのは、「milkcafe」という名称の掲示板。大学受験生や中高生などを主な対象にした匿名掲示板で、大学別や予備校別に150以上の掲示板が作られている。開設は2000年7月というから、ネット掲示板界でもかなり古株の部類といえるだろう。運営しているのは、レンタル掲示板「したらばJBBS」運営会社代表も務めている大学生の古川健介さんである。古川さんは2003年12月、東京・市ヶ谷に本部のある医大受験の予備校・東京医進学院らから計500万円の損害賠償と、書き込みの削除を求める民事訴訟を起こされた。
問題になったのは、東京医進学院について批判した一連の書き込みだった。「メディカル@milkcafe掲示板」の中に「トーイシン!(東京医進学院の略称)」「東京医進学院について」「東京医進学院被害者の会」「トーイシンは最高ですよ!」といったスレッドが立てられ、同学院に関するさまざまな書き込みが行なわれていたのである。
■URL
milkcafe
http://www.milkcafe.net/
■予備校学院長は、掲示板に書き込まれた中傷の書き込みを見て、被害届を提出
東京医進学院の古賀邦平・学院長が語る。
「milkcafeという掲示板の存在を知り、東京医進学院関係の書き込みを読んでみると、たいへんな中傷が数多くあった。予備校という仕事は、受験生からの信用によって成り立っており、このまま放置しておくと信用が失われるのではないかと思った。」
古賀学院長が看過できないと考えたのは、「あそこはカネになれば何でもいい」「だまされる生徒が後を絶たない」などと言った中傷の書き込みだった。土方邦男、川崎泰徳両弁護士らと相談し、警視庁牛込署に被害届を提出した。2002年9月19日のことである。
古川さんの説明。「牛込署からの連絡は『あなたの管理している掲示板に東京医進学院の誹謗中傷が書かれている。削除してほしいと学院から言ってきているので何とかしてほしい』というものだった。だが依頼が漠然としており、具体的にどの書き込みを削除すればいいのかわからなかった」。彼は医進学院側に、具体的にどこを削除すればいいのかを内容証明郵便で通知してほしい、と連絡した。
■誹謗中傷と表現の自由の違いとは?
内容証明郵便は約1週間後の9月26日に送られた。それにはこうあった。
「これらのスレッド・発言は、いずれも東京医進学院や関係者の名誉を毀損するもので、学院の業務妨害です。たとえば『東京医進学院被害者の会』というスレッドは、スレッド名自体が学院を誹謗しています。学院としては、かかる違法なスレッドと発言を放置することはできません。」
そして郵便到達後7日間以内に、「東京医進学院被害者の会」というスレッド全体の削除を含め、約50の書き込みを削除するよう求めたのである。
古川さんは、「こちらとしては『氏ね』といったひどい内容の書き込みは削除すべきだと考えたけれど、『授業料が高い』といった内容の書き込みまでは削除する必要はないと考えた。正当な批判だし、表現の自由は守られるべきでしょう」。古川さんは一部の書き込みは残し、一部は削除した。「弁護人にこちらから連絡をしたら、『他の部分も削除してくれ』と返事が返ってきた。しかし表現の自由があるので、残した発言については削除はできないと伝えた」という。
削除しなかった書き込みというのは、たとえば次のようなものだった。
「他の医療系予備校に比べてだと、少しはましなのでは? 何でもトーイシン2年目では、学費が30万円ぐらい安くなるらしい。個別は1時間で確か8000円。はっきりいってぼったくり。」
同時に古川さんは、「東京医進学院被害者の会」スレッドに、予備校への運営批判や授業批判は書いても良いが、個人のプライバシーに関する書き込みや個人攻撃などの書き込みをしないように求める書き込みを行なった。
一方、古賀学院長にとっては、かなり譲歩したうえでの削除依頼という気持ちがあった。
「本当は全部削除させたいのが本音だったけれど、全部削除しろといっても難しいだろうというのは素人考えでも予想できた。だから私としては、最低限の削除をお願いしたつもりだった。」
■「誰かが警告を発しなければならない」という理由から訴訟へ
いずれにせよ、事件はいったん終結したかに見えた。だがこの後、2003年12月になって東京医進学院側は古川さんを提訴する。古賀学院長は、「塾や予備校は信用が失われればあっという間にガタガタになってしまう。こうした誹謗中傷の書き込みがインターネットにあふれている実態に対しては、私だけでなく多くの人々が困惑しているのではないか。この実態に対して、誰かが警告を発しなければならないと思った」と訴訟を提起した理由を語る。
その訴えは、次のようなものだ。
(1)被告は有料のサービスを提供しているわけではなく、自分のホームページを運営しているだけで、そのホームページに何を掲載するのかを自分で決められる。右から左に情報を流すのではなく、内容を把握して自分の表現手段としてホームページを公開している以上、プロバイダ責任法の「プロバイダ」とは異なるから、同法の適用は受けない。
これは若干の説明が必要だろう。2002年春に施行されたプロバイダ責任法は、プロバイダ(特定電気通信役務提供者)の損害賠償責任について、他人の権利が侵害されていることを知っていたか、知ることができたと認めるに足りる相当の理由があるときに限定していて、常時監視業務はないことを明らかにしている。だが東京医進学院側は、milkcafeという掲示板を運営している古川さんはプロバイダ責任法の適用を受けない「発信者」であると主張したのである。古川さんの側は「掲示板管理人はプロバイダ責任法の適用を受ける」と反論している。
(2)牛込署から9月19日に連絡を受けたのに、すぐに書き込みの削除を行なわなかったのは削除義務に違反している。
(3)9月26日の内容証明に対して、依頼されたすべての書き込みの削除を行なわなかったのは、削除義務に違反している。
(4)この民事裁判の提訴前後にも、東京医進学院に関する数多くの名誉毀損的な書き込みが行なわれた。被告はこれらの書き込みをすぐに削除すべきだったのに、放置している。
古川さんの弁護団は、これらの主張に全面的に反論した。千葉恒久弁護士は次のように説明する。
「milkcafeは1日平均2,500件という新規の書き込みがあり、管理人がみずから違法な書き込みを見つけ出すのは難しく、牛込署からの連絡では違法な書き込みの特定ができなかった。削除してほしい書き込みのリストアップもこの段階でお願いしており、この時点では削除義務は発生していない。また削除しなかった書き込みは、権利侵害と言えるかどうかは明らかではなく、議論の中で淘汰されたり、対抗していくことが十分に期待できる範囲のものだった。表現の自由の原理から逸脱しているのではないか。」
また提訴前後の新たな書き込みについては、「プロバイダ責任法では常時監視は義務づけられていない」と反論。その後東京医進学院側から削除依頼のあった分について、一部は削除し、一部はそのまま残した。
■裁判所の判決は、エポックメーキングなものに
これに対して、裁判所の判断はどのようなものだったのだろう。判決は「被告はプロバイダ責任法の特定電気通信役務提供者にあたり、常時監視義務はない」と認定。さらに書き込みの内容について、
「『親の間に不信感が広まっている』『トーイシンの授業は役に立たなかった』『はっきりいってぼったくり』といった書き込みは東京医進学院の授業に対する不満や批判で、学院の社会的評価は一定の低下を免れない。しかし予備校として生徒を集めている以上、批判や意見は当然あり得るもので、公表されたからといって非難することはできない。またこうした内容や言葉づかいは、通常の批判や意見の域を出ているとは考えられず、表現の自由の範囲内として許容すべきである。」
これは匿名掲示板における批判や問題提起に対して、きちんと「表現の自由がある」と認めたという点で、エポックメーキングな判決といえるかもしれない。大量のノイズをまき散らしている匿名掲示板は、しかし単なるノイズだけではない。当たり前だが、そこには重要な情報や批判、意見も数多く含まれている。
しかし一方で、ひどい中傷の責任をどう負わせるのかという疑問は残る。もし掲示板管理人である古川さんに常時監視義務がないとすれば、いったい誰が誹謗中傷の書き込みの責任を持つのか――そうした疑問は、当然生じてくるだろう。
milkcafeがIPアドレスを取得・保存するようになったのは2003年8月からで、本件が問題になった当時は取得していなかった。東京医進学院側は裁判で「掲示板管理人はIPアドレスの保存・開示義務があるのではないか」と訴えたが、古川さんの側は「プロバイダ責任法は一定の要件のもとで発信者情報の開示を求めているだけで、IPアドレスの保存義務はない。そもそもmilkcafeで使われていた『MegaBBSスクリプト ver.1.68』というフリーウェアにはIPアドレスを取得する機能がなかった」と反論した。
判決では「プロバイダ責任法では発信者情報の開示を管理者に求めることができるとしているが、これはプロバイダ側が現に保有している情報を開示することを定めたもので、発信者情報の保存を義務づけたものではない」と、東京医進学院側の主張を退けた。
■責任の所在がどこにもない状態へ……。
東京医進学院の弁護人、土方弁護士が話す。
「こうした名誉毀損の被害が実際に出ているのに、書き込みしている人間が特定できず、誰も責任を取らないというのは世間一般の考え方として納得できないのではないでしょうか。ボカンといきなり殴られて、しかしどこにも責任がないとうのはおかしい。IPアドレスが保存できないというのであれば、そんな巨大な掲示板を維持せずに、自分で管理できる範囲内におさめておけばいいのでは。普通の人たちにとっては、まったく納得できない考え方だと思います。」
これまで2ちゃんねるの相次ぐ敗訴で、匿名掲示板の書き込みを一方的に「悪」であると断じる方向へと世論は傾いてきている。だがそうした風潮に、若干の違和感を感じる人も少なくないはずだ。うんざりするような「便所の落書き」や根拠のない中傷に埋もれるようにして、匿名掲示板には正義や真っ当な批判が少なからず存在しているのも事実である。一方で、土方弁護士の言うように「責任の所在がどこにもない」という問題もある。インターネット掲示板の有り様については、今後も紆余曲折の議論が続いていくことになるのだろう。
(2004/6/9)
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佐々木 俊尚
元全国紙社会部記者。その後コンピュータ雑誌に移籍し、現在は独立してフリージャーナリスト。東京・神楽坂で犬と彼女と暮らす。ホームページはこちら。 |
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