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イベントレポート
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ひろゆき氏&夏野氏が講演「日本のネットは決してダメじゃない」
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携帯ゲーム機のような見た目のNGN対応回線品質測定器
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ISAO、IPデータキャストを利用したサービスイメージを展示
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【 2009/06/11 】
アナログ停波後の周波数帯域を利用したマルチメディアサービス
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日テレが「ニュース検索API」などを紹介、国内の地上波放送局初
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UQ Com田中社長、高速&オープン志向「UQ WiMAX」のメリット語る
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主催者企画コーナーでは「ServersMan@iPhone」のデモも
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国内初のデジタルサイネージ展示会、裸眼で見られる3D映像など
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【 2009/06/10 】
CO2排出量が都内最多の地域、東大工学部のグリーンプロジェクト
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IPv4アドレス枯渇で「Google マップ」が“虫食い”に!?
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UQ Com、7月の有料サービス開始に向けて「UQ WiMAX」をアピール
[19:20]
「Interop Tokyo 2009」展示会が開幕、今年はひろゆき氏の講演も
[14:53]

日本のネットワーク20年を振り返る〜スペシャルセッションレポート


 開催中のNetworld+Interop Tokyo 2004(N+I)では、30日に「ネット20年、温故知新」と題されたスペシャルセッションが行なわれた。同セッションには慶応大の村井純教授や奈良先端大の砂原秀樹教授に加え、多摩美大の石田晴久教授(元東大大型計算機センタ所長)、財団法人インターネット協会の高橋徹副会長、アジアネットコム・ジャパンの岡田智雄氏(元ニフティ社長)、メディアエクスチェンジの吉村伸社長という、古くからインターネット業界にいる人なら知らないものはいないという面々が出席。今年がちょうどJUNETの発足から20年に当たるということで、これまでの日本におけるパソコン通信やインターネットの歩みを振り返った。


セッションの参加者。左から岡田智雄氏、砂原秀樹氏、村井純氏 同じく左から、高橋徹氏、石田晴久氏、吉村伸氏

昔はバカげた規制がいろいろあった〜石田氏

 石田氏は、1975年に手製の端末機を使って、自宅から音響カプラで大学にある大型機に接続を始めたのが自分にとってのパソコン通信の始まりだと語った上で「当時はバカげた規制がいろいろあった」と、1970〜80年代の様々な障壁について語った。

 まず、1975年に通信を始めた当時は「電話回線に電話以外の端末を電気的につないではいけない」という規制があり、そのため電話回線でパソコン通信を行なおうとすると、音響カプラ(300bps)で通信を行なうしかなかったという。また、それに先立つ1974年には「ARPAnetをまねして」(同氏)、国内の大学間を当時の電電公社が運営していたDDX網(パケット通信網)で結びネットワークを構築したが、この際にも「電子メールの交換は郵便事業に差し支える」という理由で、複数ホスト間を結ぶ電子メールの利用が認められなかったという(単一ホスト内における電子メールならOKだった)。

 そして1984年にはJUNETが誕生するわけだが、これも当時東工大の助手だった村井氏が自分の出身校である慶大と東工大の間を電話回線で結んでネットワークの実験を行なっていたのを石田氏が聞きつけ、「2地点では単なる1:1の通信で面白くないが、3地点を結べばネットワークらしくなる」と言って東大をその中に参加させたのが始まりだと述べた上で、「このときに当時の郵政省に電子メールの件について聞きに行ったら、翌年に通信自由化を控えていたこともあってか『こっそりやるなら結構です』と言われた」とのエピソードを披露し、ようやく複数ホスト間の電子メールが使えるようになったとの苦労を語った。

 この後同氏は、日米間の電子メールのやり取りに当時のKDDのVenus-P(国際パケット網)を利用していたところ、あるとき添付ファイルのついた電子メールが(配送経路不明が迷子になるなどの理由で)その回線間を何度も行ったり来たりしたため、従量課金だったパケット料金が月150万円にもなってしまい、その場は計算機センタの事務長に泣きついてこっそり払ってもらったものの「これからはやっぱり専用線だな」と日米間の専用線の導入を決意した話などを披露していた。


最盛期はNifty-ServeのSYSOPで年収4,000万円〜吉村氏

 続いて登場した吉村氏は「1985年の通信自由化でモデム(といっても当時は1,200bps)が出てきて、それを使って自宅のFM-8と大学の大型機を結び自宅から仕事をしていたら、風の噂で他にも接続できるところがあるということでパソコン通信やJUNETの存在を知り接続するようになった」と自らのパソコン通信のきっかけを語り、80年代後半から90年代にかけてのエピソードを披露した。

 まずパソコン通信に本格的にはまり込むきっかけになったのは「1986〜1987年頃に日本語を通す端末の話が盛り上がり、そこで安く日本語が使える端末を探したら一番OASYSが安かったので買ったところ、当時のNifty-Serve(現@nifty)に接続できるソフトがついてきた」ことだと語った。そこで同氏は大学でJUNETを使いつつ一方でNifty-Serveにも参加するという生活を送ることになるのだが、「やはりJUNETの方が手元にホストがあるし、参加者も研究者が多くてスピード感があった」「それに対してパソコン通信はダム端末でしかなかったのでそこでレベルが違った」ということで、「そこでNifty-Serveで『何でこんなかったるいんだ』と言ってたら、いつの間にかUNIX系のフォーラムなどでSYSOPをやらされることになった」と当時を振り返った。

 結局同氏はWIDEプロジェクトやIIJの立ち上げに参加する一方で、Nifty-ServeのSYSOP業を続けるという生活を送ることになるのだが、同氏によれば「もう時効だと思うのでしゃべるが、一番全盛期の頃はNifty-ServeのSYSOPとしての年収だけで4,000万円を超えていた」という。それに対し「当時IIJの給料が年1,000万円くらいだったので、それでIIJを辞めようということになった」と、当時業界でも話題になったIIJ退社のいきさつを語った。

 技術的な面では「Nifty-Serveではメールの題名や発信者の名前に漢字が使えたのに、JUNETではメールヘッダに日本語が入れられなかった」ため、それを不満に思った同氏が「当時RFCが出たばかりで誰も使ってなかったMIME Header EncodingをNifty-ServeとWIDEの間のメール交換システムに実装した」というエピソードを披露。同氏は「その後間もなくEmacsなども対応するようになったが、あれがなかったらMIME Headerというものは普及しなかったのではないか」と述べた。


パソ通からインターネットへの移行でいろいろな苦労が〜岡田氏

 3番目に登場した岡田氏は、Nifty-Serveの創業メンバーであり後に社長も務めたという立場から、Nifty-Serveの変遷とインターネットとの関わりについて語った。

 同氏はまず「Nifty-Serveは1986年2月に会社を設立して1987年4月に正式スタートしているわけだが、当時の端末と言えば7bit・半二重が当たり前の世界であり、我々のように8bit・全二重をやろうなどという人間は自分達で全部作るしかなかった」と述べ、「大型機の世界からは全く相手にされなかったので、仕方ないのでシステム作る人間がUNIXをベースに選び、デバイスドライバなども自分達で書いた」「料金も当時のVTX網(キャプテンシステム)とPC-VANの水準が基準になった」と当時の苦労を語った。

 その上で同氏はパソコン通信とインターネットの違いについて「パソコン通信は基本的に『いかに早く回線を切ってオフラインで発言を読むか』が重要だったので、ポート数も会員100人につき1回線ぐらいでよかったが、インターネットはつなぎっぱなしの文化なので徐々にポート数が足りなくなり、1998年には会員10人に1回線まで増やさなくてはならなかった」と述べた。またNifty-Serveがバックボーンとして使っていた富士通のFENICS網も「当初は時間課金で青天井だったため、ピークの頃はNifty-Serveが富士通に月15〜6億円は払っていた」との裏話も披露し「現在はポート課金に移行したと聞いているのでそこまでひどくはないと思うが……」と語った。

 このほかインターネットとの関係では「Nifty-Serveでは情報サービスに力を入れていて、新聞記事のオンライン配信や株価情報などは比較的人気が高かったが、インターネットの文化で新聞記事はタダ、株価も20分遅れなら無料となってしまい、情報サービスがガタガタになった」「フォーラムでは接続時間に応じてSYSOPにキックバックが支払われていたが、インターネットに移行するにつれてだんだん採算が成り立たなくなってきた」と、時代の流れでビジネスモデルが崩れて行く苦労を感じさせる話がいくつも飛び出した。


10月に「JUNET20周年」のイベントを〜砂原氏

 砂原氏は「よく『村井さんが自分でマンホールに入ってケーブルを張った』という都市伝説があるが、マンホールに入ったのは村井さんではなく我々です」と語って会場を笑わせた上で、1984年にJUNETが発足して1994年に終了するまでの間を振り返った。

 まず同氏は「当時はドメイン名も『.jp』ではなく『.junet』が使われてて、ドメイン名はJUNET adminが割り当てていたが、アルファベット3文字の会社名で申請してもことごとく却下されていた」「音の出るワークステーションが出始めたときに、JUNETで音を流したやつがいたが、当時のJUNETはあくまで実験ということで音を流してはいけなかったので後始末が大変だった」などと当時の印象に残るエピソードを語った。その上でJUNETの功績として同氏はTeXの日本語化や日本語の通るUNIXなどの開発、ニュースグループのfj.*などを挙げた。

 JUNETといえば「JUNET協会」という組織が一時期存在したが、この協会を作った経緯として同氏は「1991年にJNIC(JPNICの前身)を作ったときに、JNICを会員組織にするということになり次々に団体が参加してきたが、JUNETだけが金を払う仕組みを持っていなかったため、吉村氏と河口湖のホテルで相談してJUNET協会を作り組織化することになった」と当時の事情を語った。ただそのJUNETも物理的なトラフィックの限界や実験目的のネットワークであるがゆえの利用制限に加え、商用プロバイダーの登場により「民業圧迫になるのもよくないので」(同氏)、1994年10月にJUNET協会を発展的に解散することにしたと語った。

 最後に同氏は「JUNET20周年だからといって別に何もやるつもりはなかったが、今は10月に何かイベントをやりたいと思っている」と語っていた。


匿名性の議論は昔と今とで異なる

 その後は村井氏が「懐かしい話は私はしません」と述べて、いつもの調子で今後インターネットにおいて取り組むべき課題について語った後、会場も交えた議論に移った。

 この中で話題になったのが、いわゆる「ネット上での匿名性」の議論。吉村氏は「匿名論争は結局宗教論争にしかならない」と述べた上で「昔Nifty-Serveで匿名性の議論をしてた時は、Nifty-Serveは当初会員の何割かが富士通の社員だという事情があり、それをばれないようにしたいというニーズがあった」と指摘した。実際同氏が知っている中でも、「OASYSのサポートフォーラムで、実際にはOASYSの開発をやっている人間が、単なる一般のヘビーユーザーのふりをして質問に答えたりしていた」「Nifty-Serveのオフ会で会うとやたら富士通の名刺が出てきた」といった事例があったという。

 吉村氏はこれらを踏まえて「昔は立場が明らかになると言いたいことが言えないという問題があったが、最近の2ちゃんねるなどでの犯行予告などを見ていると犯罪予備軍と言ってもしかたないくらいのレベルになっていて、話のレベルが違う」との見解を披露。「昔の議論は忘れてくださいと言いたい」と語った。また同氏は「今はナンバーディスプレイ等があるので多少事情は異なるが、元々電話というのは完全な匿名の世界であり、電話のカルチャーに『匿名じゃなきゃいけない』というのが残っているんじゃないか」とも指摘した。

 これに対し砂原氏は「インターネットの世界に完全な匿名はない」と述べた上で「自分の発言に責任を持つことが必要であり、それを学生にも教えなければいけないのだが、正直なところそれができているとはいえない」と語り、学生にいわゆる情報倫理を教え込むことの難しさを語った。


関連情報

URL
  NetWorld+Interop 2004 Tokyo
  http://www.interop.jp/


( 松林庵洋風 )
2004/07/01 14:37

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