趣味のインターネット地図ウォッチ
第168回
「時層地図」iPad版が近日公開~開発者に聞く古地図アプリへの思い
(2013/8/22 06:00)
iPhone向け古地図アプリの定番として知られる「時層地図」シリーズ。そのiPad版がいよいよ9月上旬にリリースされる。そこで今回は、「時層地図」シリーズの開発エンジニアである元永二朗氏と、販売元である一般財団法人日本地図センターの田中圭氏(研究第二部研究員)と竹村和広氏(ネットサービス部主査)に、「時層地図」の開発経緯やiPad版の注目ポイントなどを聞いてみた。
アプリ開発のきっかけは大学で行われた学術展
日本地図センターが2010年10月にリリースしたiPhoneアプリ「東京時層地図」は、明治から現代までのさまざまな時代の古地図を収録したアプリだ。各時代を切り替えながら東京の変遷を調べられるほか、GPSで測位した現在地を古地図上に表示することも可能で、古地図を見ながら街の散策を楽しめる。このアプリの特徴のひとつは、古地図データをオフラインに保存できること。オンラインから逐次ダウンロードする必要がないので、携帯電話の電波が届かないエリアでも使用できる。
地図の収録範囲は東京23区を中心としたエリアで、リリース当時に収録されていた古地図は「文明開化期(明治9~19年)」「明治のおわり(明治39~42年)」「関東地震直前(大正5~10年)」「昭和戦前期(昭和3~11年)」「高度成長前夜(昭和30~35年)」の5種類。その後、2012年に「バブル期(昭和59~平成2年)」の地図が追加され、現在は6種類の古地図が見られる。このほか、iOS標準のマップおよび航空写真、5mメッシュ標高データを使った「段彩陰影」も用意されており、各レイヤーを自由に切り替えられる。
この「東京時層地図」の開発のきっかけとなったのは、日本大学文理学部の学術展において日本地図センターが2009年12月に実施した「時空ナビ」という展示である。会場には床面に11×12mの巨大な東京の地図が敷かれて、その裏面にはICタグが貼り付けられた。そしてユーザーがICタグリーダーを内蔵した杖で地図上を突くと、携帯端末にその地点のさまざまな時代の地図が映し出されるシステムを作った。
この時の展示を見に会場を訪れたのが、当時、iPhone用の古地図アプリの開発を模索していたソフトウェア技術者の元永氏だ。
「まだ商品化のめどなど全くなかったのですが、自分の手持ちの地図をiPhoneに入れて、GPSで自分の現在地を表示したり、現代地図と重ねたりできないかと試し始めていたころでした。そんな時にこの展示を拝見して、実にすばらしいと思い、『古地図データを使ってアプリを作りませんか』と日本地図センターさんに提案したのです。」(元永氏)
「日大の展示について来場者にアンケートを採ったところ、40~50代くらいの方からかなり良い評判をいただき、この展示だけではもったいないということでアプリ開発を検討し始めたところでした。そんな時に、ちょうどタイミング良く元永さんとお会いしたわけです。日大の展示の時に作ったのは電子国土のシステムを使ったブラウザーアプリで、スピードが遅いという問題があったので、もっと一般向けのネイティブアプリを作りましょうということで元永さんと意見が一致して、開発がスタートしました。」(田中氏)
古地図アプリの決定版を目指して開発
開発にあたっては、最初に収録する地図の選定から始まった。まず、1万分の1くらいの縮尺で地図が整備されている年をリストアップして、その中から時代ごとに分けていったところ、リリース当初の5つの時代に分けられた。その後、選んだ地図の複製許諾を国土地理院に申請してから、原本のスキャンが始まった。
「アプリ作成のために地図はすべて一からスキャンし直しました。全部で100枚くらいスキャンしたのですが、ズレないように、歪みがないようにスキャンするためにはシートフィード式ではなくフラットベッドの大型のスキャナーを使う必要があります。そうやってスキャンしたデータに幾何補正などをかけた上でつなぎ合わせて、時代ごとに1枚の大きな地図に加工しました。」(田中氏)
この作業の過程で問題になるのが、原本の地図を修正したほうがいいのかという問題だ。
「当時作られた地図をそのまま見せた方がいいのか、多少歪みを入れてでも現在の地図に位置を合わせたほうがいいのか、どちらがいいのかを検討して、当センターではとりあえず現在の地図と合わせるようにしようということになりました。特に文明開化期の『迅速測図』は基準点を使わずに平板測量で作成されているので、ズレが大きく、さまざまな修正が必要となります。色合いや等高線の描き方についても1枚ごとに違うので、これらを違和感が少ないようにつなぎ合わせるのには苦労しました。」(田中氏)
一方で、元永氏の手によりアプリ開発も進められていた。ここで苦労したのが、巨大なデータの取り扱いだ。
「とにかく地図データの容量が膨大なので、最初はサーバーに地図データを置いて、表示に必要な分だけ逐次ダウンロードするという方式も考えたのですが、当時だと地下鉄の中で見られないという問題もありましたし、回線が混雑した時のレスポンスの遅さも気になりました。スクロールのレスポンスが遅いとスマートフォンに不慣れな方には訳が分からなくなると思いますし、分かりにくさを極力排除するためには地図データは内蔵にするしかないと思いました。」(元永氏)
「最初はこれだけの大容量でユーザーから受け入れてくれるかはかなり心配していたのですが、実際に出してみたらそれほど問題にはならなかったので安心しました。リリースした当時は600MB強で、その後、『バブル期』の地図を加えて、さらにズームレベルも1段階上げて注記を読みやすくしたので、現在では約1GBになっています。」(田中氏)
地図データを内蔵にするにあたっては、さまざまな問題が生じたという。
「何万枚ものJPEGの地図画像をそのままディレクトリに置いたところ、ファイル数が多すぎてインストールできないなどの問題が起きました。そこで、地図データをデータベース化したり、それでも遅いからインデックスを付けたりと、いろいろと工夫しました。また、地図データの緯度・経度の変換についても、そのころのiPhoneの標準マップはGoogle マップだったのですが、Google マップの投影法の仕様に関するドキュメントが整備されていなかったので大変でした。試行錯誤しながら『おそらくこういう仕様だろう』というのを探り当てて、緯度・経度のXY座標を変換する式を作りました。」(元永氏)
日本地図センターでアプリ開発の企画が立ち上がってから、リリースまでには1年間近くかかっているが、これだけの期間をかけたのは、スタッフ一同、「どうせなら古地図アプリの決定版を出したい」という強い思いがあったからだという。
「スマホの世界は移り変わりが早いので、『とにかく早く出す』というのが鉄則ですが、『東京時層地図』に関しては、変なところがある状態で出すよりは、少し時間をかけてでもきちんとしたものに仕上げたいと思いました。最初に日大の展示を見た時に、大きな地図の上で各時代の地図を自由に切り替えられて、これが本当にすばらしかった。なんとかしてこの体験をネイティブアプリとして端末上で体験できるようにしたかったのです。」(元永氏)
価格はリリース当時は発売記念で1500円で販売し、しばらくしてから通常価格の2500円に戻した後、為替変動による価格調整のため現在は1900円となっている。ちなみに「文明開化期」の都心部に使われている「5千分の1東京図測量原図」は、日本地図センターにより紙の地図も発売されており、こちらの価格は1万8900円。昔から紙の古地図を買っていた地図好きの人から見れば、1900円は“激安”と言っていい価格だが、iPhoneアプリの相場からすれば一般の人にとっては高価な部類と言えるだろう。にもかかわらず、このアプリは一時期はiPhoneアプリの売り上げランキングの上位にランクインするほどの人気を呼び、2012年6月には国土地理院主催の「電子国土賞」のモバイル部門も受賞している。このような人気を背景に、2012年7月には、同じエンジンを使った「横濱時層地図」もリリースされた。
位置だけでなく“時代”も共有可能となるiPad版
この「時層地図」シリーズがいよいよiPadアプリとしてリリースされる。発売予定日は9月上旬で、価格は2500円になる見通しだ。このiPad版アプリは従来のiPhone版をユニバーサルアプリ化して提供するのではなく、iPhone版の「東京時層地図」と「横濱時層地図」の2エリアをカバーする別アプリとして発売される。また、内容も単にiPhone版の画面を大きくしただけでなく、さまざまな機能が追加されている。その1つが2画面表示機能だ。
「時代を切り替えながら古地図を見比べられるのが時層地図の特徴ですが、実は最初に作ったプロトタイプでは、複数の時代を半透過で重ねられるようにしていました。ただ、透過で重ねるとなると、透過率の調整など操作が煩雑すぎて分かりにくくなるし、注記同士が重なって見にくくなってしまうので、iPhone版では最終的にシンプルに切り替えるだけにしようということになりました。でも、やはり複数の時代が同時に見られるというのは捨てがたい。そこでiPad版では2画面に切り替えられるようにすることで、複数の時代を並べて見られるようにしました。」(元永氏)
画面を並べた状態で、どちらか一方の地図上にピンを落とすと、もう片方の地図の上にも同じ位置にピンが表示される機能も搭載されている点も面白い。
「画面の真ん中に十字を出すという方法も考えたのですが、ピンを落とす機能が標準マップに付いているので、これをうまく使った方が分かりやすいと思いました。さらに、このピンを落とした場所をTwitterやFacebookに投稿することも可能で、共有したURLをほかの時層地図ユーザーがタップすると、同じ時代の同じ場所が表示されます。位置情報とともに“時代”も共有できるようにしたことで、さまざまな使い方が可能になりました。」(元永氏)
URLを受け取ったユーザーが時層地図をインストールしていない場合でも、ウェブ版のGoogle マップで位置だけを確認することは可能だ。しかし時層地図のユーザー同士が使えば“時代”も共有可能となり、さらにいろいろな可能性が広がる。
「この機能をうまく利用すれば、例えば『昭和初期の建築がある場所』のURL集を作るだけでもコンテンツとして成立します。ほかにも、電子書籍で文章をタップしたら時層地図が立ち上がるとか、いろいろな仕掛けが考えられると思います。この共有機能については、iPhone版でも次のバージョンアップで提供したいと考えています。」(田中氏)
「iPhone版に対する要望として、『地図だけだととっつきにくいので、この時代のこの場所ではこういう事件が起きて、そのころの街はこういう感じだった』という“物語”を知りたい、という声がありました。ただ、それを提供するとなると本を1冊書くような大がかりな話になってしまいます。あくまでも地図を提供することに特化しつつ、そのような地図にまつわる“物語”を取り込んでいくにはどうすればいいのかを考えたところ、位置と時代をURLで共有できる仕組みを思い付きました。こうすることで、ユーザーそれぞれが物語を描けるようにしたわけです。今後はこのような時層地図をプラットフォーム化する方向にも力を入れていきたいですね。」(元永氏)
このほか、iPhone版にはない機能として、地名検索機能や、移動時に地図を回転させてヘディングアップ表示する機能が加わったほか、「段彩陰影」の地図にも改良が加えられている。
「従来は低地の平地の陰影が分かりづらく、細かい凹凸の陰影が埋もれてしまっていたのですが、今度はそれをぐっと浮かび上がらせるようにして、微地形が格段に見やすくなりました。」(竹村氏)
電子国土への対応やAndroid版の開発も検討
最後に3人に「時層地図」シリーズの今後の展望について聞いてみた。
「近いうちに電子国土の表示機能を搭載したいと考えています。もちろんオンラインでの使用となりますが、電子国土なら空中写真も古いものが見られますし、閲覧可能な地図の種類が一気に増えます。ほかにも東京にはさまざまな地図があるので、国土地理院が所蔵する地図だけでなく、いろいろな地図を見られるようにしていきたいですね。」(竹村氏)
「iOS版だけでなくAndroid版も出したいと思っています。Android版は機種ごとにマシンスペックが違いますし、ビジネスとして成り立つのかも検討しなければなりませんが、できるだけ多くの人に使っていただきたいという思いがあるので、なんとか実現したいですね。」(田中氏)
「時層地図のエンジンを使って、もう少し細かいニーズに対応していくことができないかな、と考えています。もともと私は子供のころから古地図が大好きで、子供ものころに時層地図のようなアプリがあったら最高だったな、という思いがあるので、教育現場にはぜひ導入させたい。学校の授業で、『この辺は昔こういうものがあった』と教えたりとか、そういう活用の仕方はないかとずっと考えています。博物館などにもぜひ活用していただきたいですね。」(元永氏)
iPad版で共有機能などが盛り込まれ、新たにプラットフォーム化の兆しも見えてきた「時層地図」。すでにiPhone版を購入したユーザーにとっては、iPad版は新たな出費となってしまうが、共有機能やブックマークのエクスポート機能などの活用でiPhone版とiPad版の連携が可能になれば、街歩きのツールとしてさらに便利になる可能性を秘めている。まだ「時層地図」を使ったことのない人はもちろん、iPhone版をすでに持っている人も、iPad版にはぜひ注目していただきたい。