福井弁護士のネット著作権ここがポイント
人工知能は星新一の夢を見るか
(2014/4/24 06:00)
前回記事で将棋電王戦が提起した、「機械はどこまで人間の領域に踏み込めるのか」という問いかけは、今や小説や音楽などの「創造」の世界にも及んでいる。
ショートショート1000本解析中
現在、人工知能に星新一風の短編小説を書かせるというプロジェクトが、北の国で進行中なのをご存じだろうか。公立はこだて未来大学の松原仁教授らが中心となるプロジェクトで、「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」と名づけられた(http://www.fun.ac.jp/~kimagure_ai/)。
亡きショートショートSFの名手は、生涯で1000本ほどの短編を残している。次女の星マリナさんや作家の瀬名秀明さんの協力を得てそのプロット(筋立て)や文章表現を解析し、組み合わせて人工知能に「星新一風の短編」を書かせようというのだ。独特の期待感が漂うプロジェクト名は、言うまでもなく星の代表作のもじりだ。
いずれ匿名で文学コンテストに応募し、最終的には芥川・直木賞クラスを狙おうという壮大な試みである。松原教授は、最初は駄作だろうが、やがてはコンテストで入選できるような作品が作れるのではないか、と語っている(朝日新聞 13/8/10ほか)。
そう言わせる秘策は、流行のビッグデータ解析である。コンピュータは直感で天才的な表現を生み出すのは(当然)得意ではない。しかし無数の「有望な組み合わせ」を限りなく作り続け、トライ&エラーで結果のレベルを上げていく作業には向いている。たとえば、候補となるエピソードの組み合わせがどの位独創的で人を引き付けるか。あるいは語の組み合わせが日本語として成立しているか。そうしたことをネット上の膨大な小説や語いのデータを解析して確認し、作品のレベルを上げて行くことができるはずだ、というのだ(後出ascii.jp×デジタル インタビュー)。
なるほど、確かにそうすれば一定の水準の作品が生まれるような気もする。というより、こうした技術は既に一部で実用化されている。
たとえば手紙文の生成ソフトだ。松原教授は今の技術をもう少し進めて、「謝る相手と失敗の内容」を入力すれば謝罪の手紙を自動生成してくれるソフトなら、ショートショートよりはかなり容易に開発できるだろう、と述べている。また、「七度文庫(なのたびぶんこ)」という官能小説の自動生成ソフトは既に著名だそうだし、ハリウッドではプロットやキャラクター作りに「Dramatica」などのストーリー作成支援ソフトを活用しているのは有名な話だ。
創作とは0から1を作る作業なのか
ここで、チェスや将棋のソフト、あるいは自動音声認識などの新技術が最初に登場した時を想像した読者も多いだろう。やはり最初は話にならないレベルだった(はずだ)。それが今や、人間は市販のチェスソフトにも歯が立たず、将棋ソフトはプロ棋士さえ圧倒し、証券トレーダーは機械に放逐されつつあるという。
人工知能が人間に勝利する場面が急速に広がった秘密は、まさにビッグデータ解析である。対戦譜のような大量の過去のデータを分析し、最適解を絞り込む作業は今や巨額の投資がなくても可能になり、人工知能側が一気に力をつける背景になったのだろう。
様々な知的作業の場面で人工知能の躍進が進む中、人間最後の牙城ともいえる領域は「創造と感動」だ。いわば著作物や特許の世界である。果たして人工知能に、機械に、我々を感動させたり笑わせるような作品を創造することは出来るだろうか。
これは、「創作とは何か」という終わりのない問いかけに通じる。創作とはゼロから1を作り出すことだという意見がある。ならば、おそらくコンピュータは得意ではないだろう。他方、創作とは先人たちの業績を学び血肉とし組み合わせ、いわば99を100へと一歩進めることだという指摘もある。後者であれば、人工知能はビッグデータ解析を駆使することである種の創作行為は人間よりうまくなれる、という指摘だ。
読者は、どちらの発想により惹かれるだろうか。
既存の作品を組み合わせて改良する「リミックスの天才」といえばシェイクスピアだ。この演劇史上最大の巨人の多くの戯曲には、かなり似た内容の「種本」があった。彼はそうした既存作品の「翻案」の名手であり、どんな作品も彼が手を加えることでケタ違いに良くなり、文学史の中で永遠の命を獲得していく。
シェイクスピアの最後のワンタッチには、神が宿っていた。ならば、「カオナシ」よろしく既存作品をことごとく呑み込み、それを自在にサンプリングするコンピュータに、果たして神は宿るのか。わからない。だが、これまでコンピュータが挑んで来たどんな挑戦にもまして高い壁であることは、予想に難くない。
機械が著作権者になる未来?
「機械に創作はできるのか。」 この問いかけはまた、著作権のありようにも一石を投じる。従来、著作権の世界は「機械に創作はできない」という、絶対的な命題の下で動いて来た。ソフトウェアには人間の創作の補助はできる。しかし創作そのものは人間の専権であって、機械にはできない。よって3分間写真など、機械で自動生成されたものに著作権はないとされる。確かに従来はそうだったろう。
しかし20世紀の終わり頃から、こうした前提に疑問を投げかけるイノベーションは相次いでいる。創作ではなく実演の分野だが、たとえば劇作家の平田オリザさんや大阪大学の石黒浩教授が挑む「アンドロイド演劇」があり、既に豊かな成果を上げている。元は生身の人間の声がサンプリングされているとはいえ、ボーカロイド(ボカロ)という「ロボット歌手・ロボット声優」が登場し、多くのヒット作を生み出す現象も同様だ。
さらに、コンピュータがビッグデータ解析という武器を用いて我われを感動させ泣かせる作品を現実に生み出すようになった時、我々はそれを「人間が創作したものではないので著作物ではない」と言い続けることが出来るだろうか。
著作物でないなら、その星新一風のショートショートは(著作物でないが故に)誰でも自由に転用・出版などできることになろう。それはそれでおもしろい気もするが、ならばソフトを開発したりビッグデータを提供した事業者は作品を売ってお金に出来ず、費やした資金を回収できない。誰も、回収が期待できない資金をソフトウェア開発やデータの収集提供に使おうとしなくなる怖れがある。
それを避けるためには、自動生成の小説・音楽・映像も著作物と認めて、その権利は元のソフトウェアの開発企業やデータの提供企業が分け合う形にすべきだ、という意見もあろう。つまり、「投資促進策」としての著作権だ。これ自体、現行の著作権法に対して大きな挑戦と課題を含んでいる。
人口知能による創作のもうひとつの問いかけは、将棋ソフトと同様、「その時、人間の作家は失職するのか」だ。もちろん、比較的生成しやすいという「星新一風ショートショート」ですら相当な難事業というのだ。長編小説なども含めてコンピュータが自在に作品を紡ぎ出す時代など、仮に来るとしてもまだ相当先のことだろう。それでも気にはなる。
そんな時代が来るとしたら、はたして人間の作家は大部分がお払い箱になるのだろうか。あるいは、そうしたテクノロジーを駆使して(いわば機械とのコラボにより)より高次の創作や「場」の提供を行える存在に変容するのだろうか。両者に二極分化して、クリエイターの間に新たな格差が生ずるのかもしれない。
コンピュータの「疲れない脳」と徹底的なマーケティングにものを言わせて、時に手に汗握る、時に涙を1リットルも流させる作品が無数に量産され、文化セクターの収入の大半が(西海岸あたりの)少数企業に独占されるコンテンツ寡占社会。既に一部では現実化しているが、そんなイメージも浮かんでくる。
人工知能の見る星新一の夢は、(本家に劣らず)私たちにさまざまな知的な問いを投げかけているようだ。
追記:書き上げた後、星の代表作中の代表作、「鍵」を取り出して読んだ。遠い旅路の果てに、機械にいつの日かこの域の作品が創れるのか。筆者の凡庸な頭脳の及ぶところではない。ただ、この珠玉の短編には、確かに神が宿っている。