福井弁護士のネット著作権ここがポイント
将棋電王戦と「機械的失業」と棋譜の著作権
(2014/4/18 06:00)
経験と直感をねじ伏せた「疲れない脳」
将棋の「第3回電王戦」が終わった(http://ex.nicovideo.jp/denou/3rd/)。予想通り、世界最強の将棋ソフト勢に対してプロ棋士の精鋭陣は2年連続の負け越しを喫した。将棋界のベスト10、A級棋士を擁しても大敗を喫した事実に世間は湧き、今回も熱戦の模様は各メディアで幅広く報道され、ニコニコ動画では第2回からの累計で既に450万人以上が観戦した。
断っておくと、筆者は将棋に関しては完全な素人である。棋力は測ったことがないが、たぶんアマ50級くらいだろう。よって対戦内容は微塵も理解できないし、むしろ三浦八段が敗れた一戦で相手の東大「GPS将棋」には667台のコンピュータがつながっていたとか、今年も世界一の「ponanza」に屋敷九段が接戦だったとか聞くと、「棋士ってどういう化け物?」というのが感想だ。また、ご多分にもれず第2回電王戦で塚田九段「奇跡の引き分け」を見た際、40男の涙腺は緩んだ。こうした対戦内容からの分析は、既に素晴らしいコラムや記事が存在するので譲り、少し違う観点から書いてみたい。
切り口は「機械的失業」、そして「棋譜解析と著作権」である。
次なる電王戦は、「羽生・森内・渡辺のビッグ3の登場はあるのか」と取り沙汰される。が、仮に次は接戦だったとしても、近い将来、プロ棋士はコンピュータには全く歯が立たなくなるだろうというのが素人なりの予測だ。
それ程コンピュータ将棋の成長ぶりは凄まじいし、躍進の原因もはっきりしている。データ解析能力の飛躍的な向上だ。将棋は考え得る局面の選択肢が10の220乗もあるのだそうで、一般にはプロ棋士は経験に裏打ちされた大局観や直感力で勝るとされるが、コンピュータの「疲れない脳」が可能にするデータ解析能力がそれを圧倒しつつあるのが、現在の状況らしい。
解析はふたつの面でなされる。ひとつは、可能な全ての駒の選択肢を検討することである。この結果、定跡に合わないため通常のプロ棋士がそもそも検討もしないような、予想外の好手・奇手が登場することになる。もうひとつは、既存の棋譜の徹底分析だ。過去の対戦内容をコンピュータ分析することは、プロ棋士達も既に行っており、ゆえに現在の勝負は過去の棋譜を最終盤までなぞる展開が多いと言われる。将棋ソフトはこの分析を、大規模かつ徹底して行うのである。
「機械的失業」が将棋界を襲うのか
さて、こうしたビッグデータ解析などを駆使してコンピュータが人間の牙城を脅かす領域は、確実に増えている。チェスでは1997年、IBMの「ディープブルー」に当時の世界チャンピオンが敗れて以来、もはや人間は市販のチェスソフトにも勝てない状況だ。証券トレーダーもコンピュータ解析にとって代わられ、次々と失業しているという。コンピュータに東大を受験させようという国立情報学研究所のプロジェクトまであり、至るところでコンピュータは人間の知的作業に進出しつつある。
そこで浮んでくる関心は、「機械的失業」「デジタル失業」は将棋にも及ぶのか、である。
機械的失業は、かつてレコードやジュークボックスが普及して演奏家の仕事の機会が奪われた際などに登場した言葉。無声映画時代に何千人といた活動弁士(活弁)が、トーキーになって一斉に失職したのもその一種かもしれない。19世紀以降デジタル化の今日まで、あらゆるジャンルで指摘され続けている事態だ。
現代に残った数少ない活弁にして将棋ファンである山崎バニラ氏は、自ら前ほどプロ棋士の対戦に興味が持てなくなった、と告白した上で、「プロ棋士が10人しか生き残れない未来」について言及している。将棋界の収入を支えるのは人類最強の頭脳達の対戦を楽しみにし、教室に習いに来る全国の将棋ファン達だろう。彼らが棋戦に以前ほど興味を持たなくなったり、教室に通う代わりに将棋ソフトで済ませるようになったらどうなるか。
「電王戦は勉強になった」という表面の言葉とは裏腹に、トップ棋士たちの内心の危機意識は深刻なのかも、しれない。(そして、これは弁護士など他の専門職にも通じる問題だ。)
著作権による棋譜の囲い込み?
これまで、将棋界は将棋ソフト側の対戦要望に真摯に勇気をもって応えて来たと思う。しかし、高まる警戒心から将棋連盟が防衛に入るとしたらどうだろう。といっても、今さら対戦を拒んでも、もう逃げているようにしか見えないだろう。またコンピュータに賢くなるなとも言えない。となると、考えられるのは棋譜の分析を止めることだ。
仮にそんなことを将棋界が試みたら、そもそも可能だろうか。ちょっと思考実験してみよう。
棋譜が非公開ならば簡単だ。見なければ、誰も分析できない。しかし現実には棋戦の模様は広く公開されるのが魅力で、見せなければファンが離れる。すると、公開された情報を他人に使わせない法的な手段はほぼひとつしかない。著作権などの知的財産権だ。
棋譜がもし著作物ならば、他人に「勝手にコピーするな=解析するな」と一応言える。では棋譜は著作物なのか。かつて将棋連盟が棋戦再現動画の削除要請などをして論争になった件だが(http://yro.slashdot.jp/story/12/03/02/0218209/、おそらく著作物というのは難しいのだろう。
筆者の知る限り、プロの棋譜は基本的には「最も勝てる一手」を双方が追求した結果の産物であり、「無駄・遊び」を本質とする創作的表現とは言いづらい。と以前コメントしたら、将棋担当の記者の方から、「いや、多くの棋士は美学を同時に追求するのです」と言われたことがある。なるほど、「投了タイミングの美しさ」などはよく耳にする言葉だが、それだけではまだ足りない。勝負の美学はどんなスポーツにもあるが、スポーツは通常著作物ではないのだ。
もし、最も勝てそうな手がありながらそれは捨て、「より美しい/よりドラマチックな手」を選ぶという対局があるならば、その棋譜が対戦したふたりの共同著作物にあたる可能性はあるだろう。「十六文キックをあえて受ける対局」というべきか。が、おそらくそんなプロ対局は少ないのではないか。
仮に著作物でないなら、そもそも誰がどう解析しようが文句は言えない。さらに、棋譜が著作物だとしても、実は2009年の著作権法改正では、「他人の著作物でもコンピュータによる情報解析のためならコピーして良い」という規定(47条の7)が導入されている。
といっても諸条件があり、この規定で棋譜の解析が許されるかは微妙な点もある。よって万一将棋連盟が著作権をテコに「棋譜の囲い込み」に走り、「協会の知的財産である棋戦を分析し利用できるのは協会加盟の棋士だけです」と主張しだしたら、あるいはコンピュータ将棋の躍進をしばらくの間減速させることは出来るのかもしれない。が、まあさすがにあまり筋が良くないだろう。他分野では機械的失業を食い止める手段となる著作権も、棋譜に限ってはさほど出番はなさそうに見える。
もう少し見込みがありそうなのは、今後の将棋ソフトとの対戦条件として「ルール変更」を駆使することだ。そもそも多数のチームと投資で開発されるコンピュータ側と人間棋士との間に完全に対等な条件など存在しない。つまり対戦条件は決め事である。
素人考えだが、過去のデータの「記憶」という点で人間がコンピュータに勝てないのは自明なので、そこだけは対等に近づけるべく人間側に棋譜データベースを使うことを許すのはどうだろう。あるいは、「思考のスピード」だけならコンピュータは無限に上がり得るので、持ち時間に大きく差を設けて、速さではなくお互いの思考がどれだけ遠くまで行けるか、の勝負を目指すのはどうか。
将棋ソフトは「勇気と感動」を生めるのか
とはいえ、チェスの歴史が教えるごとく、単に強さだけでいえば進化を続ける将棋ソフトが近い将来棋士を圧倒する公算は大きい。では、プロ棋士の天才神話・最強伝説は崩れ、活弁や楽士のように駆逐されるほか無いかと言えば、そう単純ではあるまい。歴代のプロ棋士達が築いて来たブランド価値と人気は絶大だ。将棋ソフトの方が強くなったとしても、それをも巻き込んでビジネスモデルを守れる可能性は十分ある。
それ以前に、おそらく我々はプロ棋士の対戦に単に強さを求めているのではない。圧倒的な強さもさることながら、どう棋士が苦しみ、勝負に何を賭け、どう勝ち、どう破れるかを見て勇気づけられ、感動するのである。
その意味で、「最強伝説」が崩れた後のプロ棋士・プロ対戦に求められるものは少し変質するかもしれない。強さはもちろんだが、今以上に壮大な構想力や人間味・ドラマ性が求められ、そうした物語やキャラクターを持った棋士が人気を博する時代が来るのかもしれない。
そしてこの部分では、おそらく今もってコンピュータは人間の足元にも及ばない。電王戦史上最大のキラーコンテンツは、全ての戦前予想を超え、塚田九段が恥もプライドもかなぐり捨てて見せたあの引き分け狙いのドラマだったのだ。
そして、ここで新たな疑問がわく。ならばコンピュータは人間のように、見る者を感動させる将棋を指せるのか、だ。事実あるプログラマーは既に、「美しく投了する将棋ソフト」、つまり負け際で我々を感動させ得るソフトの開発に取り組んでいるという。
果たして機械は、人間知性の最後の牙城、「創造と感動」に踏み込むことは出来るのか。そういう未来が来れば、本当にプロ棋士は失業かもしれない。ことは文学・芸術の分野に及んでちょっと長くなりそうなので、続きはまた次回。