● 「若い人」への懸念
最初の回の冒頭で、漢字小委員会での審議のことを「彼等は必死に抵抗しようとしている」と書いた。そして抵抗の相手こそが「情報化時代」なのだと。では実際の審議ではどのように話されているのか、委員達の声に耳を傾けてみよう。(※肩書きは発言当時のもの、以下同じ)
・我々は携帯電話の機能の中でも、しゃべることで意思伝達をする方ではなくて、メールの部分を考えなければいけないと思うんです。(中略)そこにおける危険というか、多分、我々が共通に危惧していることは、先ほどから御意見が出ているように、例えば一つの言葉にしても、その言葉の持つ背景とか、意味とか、あるいは書き順も含めてですけれども、そういうことを全く知らないままに、どんどん親指でボタンをプッシュすることだけで使いこなしてしまうということではないかと思うんです。(第7回/松岡和子委員/翻訳家・演劇評論家)[*1]
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・今、漢字というのは仮名漢字変換とかパソコン、情報機器の利用とかで書けなくなってきつつある。それが全部書けなくなっていいのか。非常に極端な考えもあるわけですね。20年たったら、みんなパソコンを使うんだ、だから、漢字はパソコンに任せていいだろうという考えも成立し得るわけです。けれども、そこのところは私はそうじゃないと思っているんですね。(第11回/東倉洋一委員/国立情報学研究所副所長)[*2]
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・この間、授業中に、何げなく「毎日、新聞読んでいる人、手を挙げてごらん」と言ったら、40人ぐらいの中で1割いるかいないかという、もうそんなところなんですね。では「テレビのニュースは見るか」と言ったら、テレビのニュースは手を挙げるんです。(中略)結局、かなり国民的な、言わば情報源というのが拡散、多様化して、しかも文字に依存する度合いも若干低下している。そういう事態も、やはり我々としては、これから非常に注意していくべきことだなというふうに思いました。(第11回/林史典副主査/聖徳大学)[*3]
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・去年の4月から大学生に教え始めた経験ですが、漢字をこの4月から補習の形で1時間半の講義の中で30分やっております。けれども、実感としては、学生はワープロで打てるからいいやという感じでいるんですね。書けない漢字は、確かに試験をやると露呈してきますけど、意欲が低いんですよね。何でこんなに意欲が低いのか、これだと将来世の中に出て恥をかくよと言っても、それは分かっているわけです。だけども、踏み込んで書けるようにするという努力が続かない。どうせ打てば出てくるということですね。(第13回/小池保委員/元NHKアナウンサー・解説委員・尚美学園大学教授)[*4]
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● 「読めるだけでいい漢字」と「読めて書ける漢字」
以上のような発言から伺えるのは、「若い人」への戸惑いと違和感だ。情報機器、中でも携帯電話が普及したことにより、「若い人」の漢字を使う力がひどく衰え、同時に文字やメディアをめぐる意識が旧来から劇的に変化しているのではないか──そういう懸念が共有されているようだ。じつのところ、委員達が抵抗しようとしているのは、むしろこうした「若い人」の変化なのかもしれない。となると、そのような「若い人」に対し、常用漢字表をどのように対応させていくのかが、彼らにとっての大きな課題となるはずだ。
このような懸念から出てきたのが、現在「情報機器を利用して書くことができればよい漢字」と呼ばれている考え方だ[*5]。これは以前、便宜的に「読めるだけでいい漢字」と呼ばれていたもので、審議ごとの経過をまとめる文書『国語分科会漢字小委員会における審議について』をアップデートしていく過程で、より誤解の少ない表現としてこの言葉が選ばれた。この考え方は〈情報化時代に対応する漢字政策の在り方について〉[*6]という諮問への答申として、おそらく背骨になるはずのものだ。具体的にはこの考え方を採用することで、常用漢字表の文字数を増やす道が開かれた。では、具体的にどのような漢字か。たとえば「鬱」という表外字がそうだ。
現行の常用漢字表では、建て前として「読む」「書く」「分かる」の3つ全部を満たすことを念頭に考えられている。その結果、たとえば画数が極端に多い「鬱」などは、手で書くことが難しいから常用漢字表には入れられない。そこで常用漢字だけで無理に書くと「憂うつ」と交ぜ書きになってしまい、かえって読みづらくなってしまう。しかしこの字は使用頻度はかなり高いし(『漢字頻度数調査(3)』では1803位[*7])、「躁鬱」「鬱状態」といったよく目にする熟語にも使われる。さらに情報機器の発達によって必ずしも手で書くことばかりを考えなくてもよい状況がひろがっている。
そこで必ずしも「書く」という縛りは必要ないことにし、「読めるだけでいい漢字」という枠を新設すれば表内字とすることができる。言葉を換えれば、「情報化時代」の現在では「読む」「書く」「分かる」の3つすべてに拘ると、かえって〈現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安〉として入れるべき漢字まで排除してしまうということだ。
この「読めるだけでいい漢字」はごく初期から審議で話されている。早くも第1回の顔合わせで以下のような発言が見られる。
常用漢字の見直しをするかしないかということになると思うのですけれども、こういう状況では、私は見直しをするということはまず必要だと思います。(中略)書けるという調査、これはちょっと現在ではもう無理ではないか。つまり、常用漢字でも書けない人がたくさん出ている状況ですから、それ以外の字で書けることまで要求して、書けるものを常用漢字に入れるということになると、非常にそれは少なくなってしまう。現実に、こういうパソコン時代でありますから、読めればいいと思っております。(金武伸弥委員/日本新聞協会用語専門委員)[*8]
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● 区分することへの疑問
これについて同じ考えを持つ委員は多く、こうして第2期[*9]の最初の会議である第6回漢字小委員会(2006年4月24日)で配布された、それまでの議論をまとめた文書『今期の漢字小委員会の進め方について(たたき台)』[*10]の「論点3「新常用漢字表(仮称)の基本的な性格について」の中で、〈「常用漢字」と「準常用漢字(読めるだけでいい漢字)」に分けることの是非〉という文言が登場、ここから本格的な議論が始まる。
その結果、従来より敷居を下げた「読む」「分かる」の2つを満たした「読めるだけでいい漢字」として「準常用漢字表」という枠を設け、加えて戸籍謄本の「謄」や憲法に使われる「璽」、あるいは伝統文化継承の観点から歌舞伎の「伎」などといった、頻度は低くても日常生活には必要な字を入れる「特別漢字」という枠も新設、従来からの常用漢字と合わせて全体を3段階に分けることに一旦は決まりかけた[*11]。
ところが一転してこれに反対する声があがったのが、第3期の最初の会議である第15回(2007年7月)だ。新しくメンバーに加わった委員を中心に、そもそもある字が「読めるだけでいい」と明確に認定可能なのかという疑問や、区分を設けることでかえって人々に理解されづらくなるのではという懸念が出される。
常用漢字と準常用漢字の区分ということですが、私はこれは区分をしない方がいいという立場でございます。言葉は、使用する人のニーズを満たすために変化、増殖し、一方で減衰するものがあります。文字も同じでして、やはり日常生活でよく目にするもの、それから使う必要のあるもの、これは「常用」、正に(引用者注、配布資料にある)「漢語整理案の一」にある定義ですよね。「現代の文章に用いられないものは捨てて、常に用いられるものを専ら整理したのである」と。これが「常用」の定義だろうというふうに思いますので、準常用漢字と常用漢字は一体どこで区分するのかと思います。(第17回/内田伸子/お茶の水女子大学理事・副学長)[*12]
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注意してほしいのは、これは「読めるだけでいい漢字」に反対しているのでなく、区分することに反対しているということだ。じつのところ、どのように「読めるだけでいい漢字」は定義可能かという問題や、教育漢字や固有名詞との絡みについては長い議論が続いたのだが、これを常用漢字として認めることそのものへの疑問は、特に提起されていない。
おそらくその背景には、そもそも現行の常用漢字表のすべての字が、読めて書けて分かるの三拍子が揃ったものばかりではないという矛盾がある。たとえば「璽」や「朕」がそうだろう。一方で現在の教育用漢字1006字は小学校6年間で読んで書けることが求められているが、それ以外の939字は「読めることが望ましい」という位置づけになっている。こうした指摘は席上何回もされているが[*13]、この考え方を拡張していけば常用漢字表の中に「読めるだけでいい漢字」を含めることは、さして不自然な発想ではなくなる。
● 考え方は残しつつ、漢字表の中では区分しない方向に
話を戻そう。こうした議論は第15回から18回まで続いたが、「読めるだけでいい漢字」について以下のような意見の方向に修整されることになった
この「読めるだけでいい漢字」と「書けて読める漢字」という分け方がございますけれども、実は〈読めて分かる漢字群〉というのがあって、書ける漢字というのはその中の部分集合に当たります。だから、これは対立するものではなくて、「読めて書ける漢字」の範囲をむしろ我々は常用漢字として考えて、その中に、「どうしても書けなくてはいけない」のと、「まあまあ書けなくても仕方ないね」というのがあって、実はその書けなくてもいい漢字というのは、現に1,945字の中に存在すると思うんです。教育の観点から言っても、あるいは個人のレベルから言っても。現にそういうものがあるものですから、仮に例えば、準常用漢字みたいなものを認めて、これはまあ書けなくてもいいからねとやると、現にあるそういう漢字群との区別が分からなくなって、準常用漢字というものの表の性格もあいまいになるというようなことが一面でありますので、これに関係する議論の前提として、やはり「書ける漢字」、「書けなくてもいいけれども読めて分かる漢字」というふうな、二分法というのはむしろ誤解を生じることがあるのではないか。それよりは、「読めて書ける漢字群」(引用者注、「読めて分かる漢字群」の間違いか)の中で、「書けなくてはいけない」漢字と、「まあまあ書けなくても仕方ないね」という二つの部分集合から成った「読めて分かる漢字」という大きい集合、これを常用漢字の言わば対象として考えていくのがいいのではないかなと考えます。(第17回/林史典副主査/聖徳大学)[*14]
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つまり新常用漢字表の全体が「読めて分かる漢字」であればよい。その中に「書けて読める漢字」や「読めるだけでいい漢字」を、それと明確にはせず内包することにすればよいという考え方だ。もともと「読めるだけでいい」という表現が誤解されやすいと心配されていたこともあり、結局のところ区分はしない方向で議論は収束することになった。
ただし林発言にもあるように、「読めるだけでいい漢字」=「情報機器を利用して書くことができればよい漢字」という考え方自体が消滅したのでなく、これらの頻度数や造語力の面で問題がなければ追加候補に加えていくことが合意されている。これまでの審議内容をまとめた文書『国語分科会漢字小委員会における審議について』を見ると、現在でもこれらの区分は残ってはいるようにも読めるが[*15]、実際の審議の方向としては採用されない流れにある。
この考え方は、選定作業に取りかかる以前、追加することで総字数が2000字をかなり上回った場合に、人々にわかりやすく説明する一種の便法として考え出された一面がある。しかし実際の選定作業に取りかかってみると、頻度の点から想像していたほど大量の追加は必要なさそうなことがわかってきた。そうした面でも、区分はしない方向で話が進ものと思われる。
次回は、いよいよ実際の選定作業について見てみることにしよう。
2008/06/23 14:07
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小形克宏(おがた かつひろ) 文字とコンピュータのフリーライター。本紙連載「文字の海、ビットの舟」で文字の世界に漕ぎ出してから早くも8年あまり。知るほどに「海」の広さ深さに打ちのめされています。文字ブログ「もじのなまえ」ときどき更新中。 |
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