第2部では漢字小委員会が発表した常用漢字表で追加される「字種候補修正案」[*1]に基づき、これが文字コード規格に及ぼす影響について考えた。検討する中で常用漢字表に略字体が追加された場合に起こる「漢字政策の玉突き現象」や、後発規格だったUnicodeが互換性確保のために規定したUnicode正規化により、結果として互換漢字が、いつ、どこで対応する統合漢字に置き換わるか分からない不安定な文字になったこと、さらにこの互換漢字に代わる技術として異体字シーケンスが実装されつつあるが、これも万能ではないことなどを見てきた。
第3部では、ここまで見てきた「情報化時代」のさまざまな現実を踏まえ、これが常用漢字表の改定にどのような影響を及ぼすのか、そしてそれはどんな意味を持つのかを考えてみようと思う。その前に、なぜここで「情報化時代」にこだわるのだろう。そこで今回の常用漢字表改定の元となった、文部科学大臣の文化審議会に対する諮問『平成17年諮問第15号』を再度見てみよう。
情報化時代に対応する漢字政策の在り方について[*2]
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この諮問には「理由」と題する文書が付属している。これについては第1部第1回でも説明したが、その一節「情報化時代に対応する漢字政策の在り方について」を読むと、〈種々の社会変化の中でも、情報化の進展に伴う、パソコンや携帯電話などの情報機器の普及は人々の言語生活とりわけ、その漢字使用に大きな影響を与えている〉とあり、ここから諮問が言う「情報化時代」とは、「パソコンや携帯電話など情報機器が普及した時代」であると読むことができる。同時に「理由」では、JIS漢字や人名用漢字も含めた総合的な漢字政策の構築を求めている。新しい常用漢字表はこの前提を踏まえて審議されているのだが、もちろん私たちもそこから離れることはできない。まずこの前提を確認しておきたい。
● 字種候補修正案のほとんどは表外漢字字体表か人名用漢字に収録済み
おそらく常用漢字表の改定で最も大きな話題は「どんな漢字が追加されるのか」ではないか。そして次に少し玄人っぽい疑問として「追加された文字はどんな字体になるか」が続くのだろう。第一の疑問については、まだ審議の当事者ですら分からないことであり、確かなことは2010年春に予定される最終答申を待つしかない。しかし第二の疑問については、今の時点からかなりの確度で答えることができる。
最初に2008年9月22日の第25回漢字小委員会で発表された字種候補修正案191字と従来の漢字政策との関係を見てみよう。このうち表外漢字字体表(2000年)に含まれるのは153字、同様に現在の人名用漢字に含まれるのは127字だ[*3](図1)。どちらにも含まれないのは「憬」1字のみだが、この字によく使われる異体字はない[*4]。すなわち、すでに字種候補修正案のほとんどは過去の漢字政策の中で基準となる字体が示されていることになる。
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図1 字種候補修正案191字のうち、表外漢字字体表(下線)と人名用漢字(水色背景)[訂正1]
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● 人名用漢字収録分の字体は略字体のまま
そこで表外漢字字体表と人名用漢字のそれぞれから新常用漢字表に追加される漢字の字体を検討してみよう。まずあまり問題がなさそうな方から検討する。人名用漢字の方だ。こちらは2004年9月に693文字を追加している。これについてはすぐ後で検討するので、ここでは2004年9月の追加以前の漢字を考える。以下に挙げよう。参考のため斜線の右に、いわゆる康煕字典体を示す[*5]。
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図2 字種候補修正案のうち、2004年9月以前から人名用漢字だったもの。斜線のあるものについては、斜線の左が人名用漢字に示された字体、右がいわゆる康煕字典体。なお「弥/彌」は両方が人名用漢字
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斜線で示した字のうち、「那」については1976年の追加、「弥、亀、鎌」に至っては1951年の追加という長い運用の歴史を持つ。これを考えれば人名用漢字で示された以外の異体字を今あえて採用する理由は薄いように思われる。異体字の採用が考えられるとすれば、比較的新しい1990年追加の「拳、采、媛」だろうか。そこで漢字小委員会で重視されている凸版漢字頻度数調査を見ると、「拳」は人名用漢字1859位、異体字2197位、「采」は同じく2504位/2823位、「媛」は同じく2896位/2968位。いずれも人名用漢字の頻度が勝っている。「媛」がやや伯仲しているが、これが愛媛県を書き表す漢字であることを考えれば、やはり人名用漢字の字体に分があると考えたい。
これらの字体は常用漢字表の字体と同じ略字体であり、追加された場合の親和性も高い。したがって従来人名用漢字で示された字体のまま追加されると見てよいのではないだろうか。
● 表外漢字字体表収録分の字体は、いわゆる康煕字典体のまま
一方で表外漢字字体表の方だ。ここで問題になる異体字については、JIS X 0213の2004年改正が参考になる。この時はJIS X 0213初版(2000年制定)を表外漢字字体表に対応させるため、168字については包摂の範囲は変えないまま表外漢字字体表と同じものに変更、その上で例示字体を変えるとUnicode/UCSとの間で衝突を起こしてしまう10字については包摂分離して追加収録したのだった。では字種候補修正案のうち、2004年改正字に例示字体を変更したものを挙げてみよう(図3)。
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図3 字種候補修正案のうち、2004JISで例示字体を変更したもの(上段)、同じく追加したものに含まれる漢字(下段)。例示字体変更については、斜線の左が変更前、右が変更後の字体。追加字体については、斜線の左が追加された字体に対応するもの、右が追加字体
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上図に示した斜線右の字体が表外漢字字体表における印刷標準字体=いわゆる康煕字典体、左の字体が概ね略字体となる[*6]。これについて第2部第1回/第2回で、上に掲げた例示字体を変更したもののうち、さらに人名用漢字と重複する「僅、哨、箸、葛、蔽、詮、謎、遜、餅、遡」[*7]の10字について、今までの国語施策で示されたのとは違う略字体で追加された場合「漢字政策の玉突き現象」が起こると指摘したのだった。以下にこの時示したものを再掲する(図4)。
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図4 前図の2004JISで例示字体を変更したもののうち、さらに人名用漢字と重複するもの。斜線の左が変更前、右が変更後。下線を引いた3字は、表外漢字字体表の「表外漢字における字体の違いとデザインの違い」で微細なデザイン差とされたもの。変更前の字体が常用漢字表に追加されると「漢字政策の玉突き現象」が発生する
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つまりこの分類においては略字体をとるか、いわゆる康煕字典体をとるかの判断を誤ると大きな混乱が発生してしまう。しかし言い換えれば、今までの国語施策と同様の字体で追加されれば、少なくとも他の漢字政策との矛盾は起きない。このことは、なにもこの原稿のように文字コード規格の名前や歴史まで出さなくとも、以下のように言うだけで事足りるかもしれない。すなわち「Windows Vistaでフォントデザインの変更までさせたのに、それをまた元に戻せというのか」と。略字体を採用した場合、IT機器に及ぼす混乱はあまりにも大きい。これを考えれば表外漢字字体表で示された印刷標準字体、いわゆる康煕字典体を採用すると考えてよいのではないだろうか。
● IT機器への混乱回避か、分かりやすさを確保するかの二者択一
ここまで常用漢字表で追加される漢字の字体について検討したが、これを一言で表すなら「今までの漢字政策で示された字体のまま」ということになるだろう。特に表外漢字字体表に含まれる漢字については、変えようとすれば大きな混乱が発生する。つまり、変えるに変えられないということだ。現在の常用漢字表は略字体で統一されている。ところが新しい常用漢字表においては全体の1パーセント程度だが、いわゆる康煕字典体が混じってしまうことになる。
こうした改定が実行に移された場合、割を食うのはこれから漢字を学ぼうとする子供たちや日本語を学ぼうとする外国人、すなわち弱者だということに注意したい。「者」と「箸」という部分字体を共有する常用漢字が、一方は点が付き、他方は点が付かない。これでは今までのような知っている部分字体を組み合わせて漢字を覚えていく方法が通用せず、ひたすら「者」は点なし、「箸」は点ありと丸暗記するしかなくなる。
このようにして、今回の常用漢字表改定ではIT機器への混乱回避をとるか、それとも分かりやすさをとるかという、恐ろしく難しい選択を迫られるものとなるだろう。これについて私は、たとえ弱者切り捨てになるとしても、漢字小委員会/文化庁はIT機器への影響を食い止めると予測する。それは、混入するいわゆる康煕字典体が全体の1パーセント程度にすぎないこと、そしてこれらの漢字が第1部第3回で説明した「情報機器を利用して書くことができればよい漢字」[*8]に該当することによる。
新しく追加されるであろういわゆる康煕字典体は、いずれも審議の中で「読めればいい漢字」と呼ばれたものであり、書かれることは無視しないまでも重要視はされないという位置付けだ(第1部第3回)。学年配当表には入るはずもないから、少なくとも小学生への影響は考えなくてもよいことになる(反面で中高生には重荷にはなる)。影響があるとしても全体の1パーセント程度なら許容範囲内、そういう考えが出てもおかしくない。それでも、未来の学習者たちを思うと、いささか気の毒な気持ちになるのは私だけではないだろう。
● 分かりづらい常用漢字表にしてしまう本当の犯人は?
本来なら常用漢字表が持つ大きな役割を考えれば、字体を統一すべきところだ。しかし今回の改定ではそれができない。こうした字体をめぐる状況を一言でいえば、がんじがらめとしか言いようがない。私はこの状況について、ある席で「ゴルディアスの結び目」という言葉で表現したことがある[*9]。古代中央アジアにあったフリギアのゴルディアス王が、神殿に供える戦車を複雑な結び目で固定して「これを解いたものがアジアの王となる」と予言したという。よく知られているとおり、この地に侵攻したアレキサンダー大王が、この結び目を一刀のもとに断ち切ってしまう。このことから難題や、それを思いもかけない手段で解決する喩えとして、この言葉は使われている。
日本における字体の状況はまさに「ゴルディアスの結び目」であり、アレキサンダー大王のように、漢字小委員会が一刀のもとにこの状況を打開してくれることを祈りたいが、そこで考えるべきなのが、なぜこんな状況が生まれたのかということだ。
ここで思い出すのは、Unicode正規化と互換漢字のことだ。本来は互換性を確保するために考案された巧妙な仕掛けであるUnicode正規化だが、互換漢字が互換等価でなく正規等価に指定されてしまったことにより、互換漢字に対してUnicode正規化を行えば、必ず対応する統合漢字に置き換わることになってしまった。その結果、互換漢字は伝送経路の途中で、いつ統合漢字に置き換わってもおかしくない不安定な文字になった。
確かに非漢字圏の人間が大半であるUnicodeにとって、互換漢字がどちらの等価だろうが大差はないと軽視されていただけかもしれない。では、そのように軽視したUnicodeだけが悪いのか? そうではないだろう。JIS X 0213初版がUnicodeの互換漢字に割り当てなければ、こうした事態は起きなかった。
ではJIS X 0213が悪いのか? それも違う。JIS X 0213初版がUnicodeの互換漢字に割り当てたうち、7割強は政令に根拠を持つ当時の人名用漢字許容字体(現在の人名用漢字)だった。こうした文字を新しいJIS文字コードに収録するのは当然の判断だが、これらの字体を包摂している文字が既に統合漢字として収録されている以上、互換漢字として提案するより方法がなかったろう。
ということは法務省がこうした字を人名用漢字許容字体としたから悪いのか? もちろん違う。人名用漢字許容字体は、人名用漢字としては初めて旧字体を子供の名に使えるよう規定したものだ。その背景には法務省や当時の国語審議会などさまざまな思惑があったにせよ、「子供の名前に自分の願いをこめたい」という親の思いがなければ、こうした政策がなかったことは間違いない。
もうひとつ、第2部第7回/第8回で取り上げた異体字シーケンスのことを思い出してほしい。これは本来文字コード規格で包摂されるべき複数の字体を使い分けられるようにするものだ。いつでも技術は社会のありようを映す鏡だ。異体字シーケンスという技術が登場する背景には、これを必要とする社会があるに相違ない。つまり私たちの社会そのものが「包摂字体を区別する技術」を望んだのだ。
以上のことから、こういうことが言えないだろうか。つまり、これから漢字を学ぶ子供たち、日本語学習者たちにとって分かりづらい常用漢字表にしてしまう本当の犯人は、他ならぬ私たち自身、私たちの社会そのものなのではないか。次回はこのことを、もう少し掘り下げて考えてみよう。
●更新履歴
[訂正1]……図1で挙げられている字種候補修正案191字のうち、「顛」は、「填」(土+眞、U+5861)の誤りでした。お詫びして図を正しいものに入れ替えました。(2009/04/09)
2008/10/27 16:44
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小形克宏(おがた かつひろ) 文字とコンピュータのフリーライター。本紙連載「文字の海、ビットの舟」で文字の世界に漕ぎ出してから早くも8年あまり。知るほどに「海」の広さ深さに打ちのめされています。文字ブログ「もじのなまえ」ときどき更新中。 |
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