彼等は必死に抵抗しようとしている。「新常用漢字表(仮)」(以下、この連載では新常用漢字表と略)を審議する漢字小委員会を傍聴していると時折そう感じる。何に? ここ10年顕著になったパソコンや携帯電話の爆発的な普及と、それにともなう人々の急激な変化にだ。巨大なうねりとも言える社会全体のIT化により、私たちにとって「文字を書く」とは、紙に書くより情報機器を操作することを指す方が圧倒的に多くなっている。その状況は今後、進むことはあっても決して無くなることはない。影響は私たちの暮らし全体に及んでおり、すでに誰にも否定できない現実となっている。
国語施策の根本である常用漢字表が制定されたのは1981年、すでに27年もの歳月が流れている。今回の改定はその間に起きた「書く」環境の急激な変化に対応しようというものだ。常用漢字表は法令や公用文を書き表わす場合の指針になっており[*1]、改定されれば官公庁は新しいものに従って書くことが求められる。それだけではない。改定が終わりしだい学習指導要領、人名用漢字やJIS文字コード規格の改正に手がつけられることになるだろう。もちろん影響は官公庁にとどまらない。日本新聞協会から漢字小委員会に出ている金武伸弥委員は、常用漢字表が改定されれば新聞界がそろって対応することを審議の席上で表明している[*2]。このように現在私たちが体験している「書く」環境の変化は、玉突きのようにこの国のエスタブリッシュメントを動かしつつある。
5月12日、第21回漢字小委員会において、『これまでの検討結果(第1次・字種候補素案)』と題した資料が配付された[*3]。この中には「本表に入れる可能性のある追加候補」として、現行の常用漢字表1945字に追加する漢字220字と、削除する方向で考える6字が掲載されていた[*4]。2005年9月に同委員会が発足して以来、初めて明らかにされた具体案だった。これは翌日の朝刊1面で大きく取り上げられることになったが、この先いくらでも変わる「素案」段階の漢字を1面で大きく報じる姿勢には疑問を感じる[*5]。
その後6月16日の第23回漢字小委員会で第2次・字種候補案が提示された。ここでは追加候補として前案から30字あまり絞り込まれた188字、そして削除候補として1字減った5字が示されている[*6]。今後7月15日に開催される第24回で字種の最終案が提示される予定だ。ただしこの最終案の後も、音訓の選定作業の中でまだ字種の入れ替えがあり得ることが予告されており、7月に提示される案が「最終」というわけではなさそうだ。こうした状況において必要なのは、どの字が追加されるとかいったことより、むしろ今まで積み上げられてきた審議内容や、その背景にある考え方の整理であるように思う。
今回から短期集中連載として新常用漢字表についてお伝えする。まず第1部として今までの経緯をふまえながら、常用漢字表がどのように改定されようとしているのか、その現状を5回に分けて報告しよう。そして、私たちコンピュータユーザーにとって気になることは、改定の結果によりJISやUnicodeなどの文字コード規格が、どのような影響を受けるかということだろう。これについては第2部としてお伝えしたい。
● 新常用漢字表を審議する漢字小委員会とは?
改定そのものについて説明する前に、いくつか霞が関特有の「ルール」をおさえておこう。まず組織とその位置づけについて。以前国語に関わる施策を審議していたのは国語審議会だった。これは同名の組織としては1934(昭和9)年までさかのぼる由緒ある審議会だったが、2001年1月の中央省庁再編にともなってあえなく廃止。代わって文化庁所管の審議会を糾合して作られた文化審議会の下に、国語分科会が新設された。漢字小委員会はそのまた下部の組織になる。
国語審議会当時は42名という大所帯だったが[*7]、国語分科会は23名[*8]、漢字小委員会は15名[*9](両者の多くは重複)で、ぐっとスリム化されたことになる。人数が多いと議論も紛糾しがちなのは、国語審議会が残した波瀾万丈の足跡が示すとおりだが[*10]、この人数なら物事も決めやすいはず。もっともその反面、偏向がチェックされにくい面も考えられ、この点は私たちがしっかり見守るべきだろう。
どこの審議会もそうだが、まず所管大臣が「諮問」として審議してほしい政策テーマを提示する。審議会はこれを議論し、その結果を「答申」という文書にまとめ提出する。大臣はこれを政策に反映させ、必要であれば法律や省令として制定する。かつての国語審議会答申のうち、仮名遣いや漢字の音訓・字体を定めた国語施策は、ほぼすべてが文部省の省令でなく内閣総理大臣による内閣告示・訓令として制定されている[*11]。それだけ重みを認められていたということだろう。新しい体制になってからはまだ内閣告示・訓令になった答申はなく、その第1号と目されているのが新常用漢字表だが、さて、どうなるか。
話を諮問に戻そう。注意が必要なのは、文部科学大臣の諮問相手はどこかということ。答は文化審議会。つまり新常用漢字表を実際に作成しているのは漢字小委員会でも、そこで作られた案は上位の国語分科会の承認と、さらにその上の文化審議会の承認を経なければ正式なものにならない。前述したように文化審議会は中央省庁改編により新設されたが、傘下に文化政策部会、著作権分科会、文化財分科会、そして国語分科会を収める。つまり新常用漢字表は著作権の専門家の承認も必要ということになり、このあたり中央省庁改編がはたして有効に機能しているのか、素朴な疑問を感じるような事例ではある。
それはともかく、国語分科会の議事録をたどると第26回から28回にわたって新常用漢字表を検討する枠組みを審議していることがわかる[*12]。その結果まとまったのが『国語分科会で今後取り組むべき課題について』という文書で[*13]、現在の漢字小委員会での審議は、この文書の枠組みに沿ったものだ。
● 常用漢字表を改定する理由は?
では諮問の内容を詳しく見てみよう。漢字小委員会に関わるのは、以下のものだ。
情報化時代に対応する漢字政策の在り方について[*14]
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この1行だけではあまりにも漠然としているので、「理由」という別紙が付属している。これを要約すれば以下のようになる。
(1)情報化時代に対応するよう常用漢字表の在り方を再検討
(2)JIS漢字や人名用漢字も含めた総合的な漢字政策の構築
(3)固有名詞(人名・地名)の扱いについて基本的な考え方の整理
(4)漢字を手で書くことの位置づけの再検討
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冒頭で「彼等は必死に抵抗しようとしている」と書いたが、その抵抗の相手、すなわち「情報化時代」が諮問の大前提であり、その対応策のひとつとして常用漢字表の改定を考えるという形になっている。注意すべきは、決して改定が先にあったわけではないし、また新常用漢字表以外にも考えるべき「お題」が与えられているということだ。
漢字小委員会が考える「情報化時代」とは、「書く」文字から「打つ」文字へという書記環境の大きな変化として捉えることができるだろう[*15]。パソコンや携帯電話では、手では書けないような漢字でもキーを打っていくだけで入力できてしまう。これを裏づけるように手書きよりパソコン・携帯電話等の方がより多く漢字を使用する現実が、文化庁『国語に関する世論調査』で報告されている[*16]。現行の常用漢字表は「前書き」でその目的を〈一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安〉と規定しているが、情報化時代の到来によりかえって「目安」としての必要性は増している、そう漢字小委員会は考えた[*17]。しかし、そのためには新しい時代にマッチするものに手直ししなければならない。これが常用漢字表改定の目的だ。
● 新常用漢字表以外の審議について
新常用漢字表の改定作業の報告に入る前に、これ以外の主な審議事項をまとめておこう。まず上記(2)に関わることとして、定期的な漢字政策の見直しが必要であるとされた。現行の常用漢字表の前身である当用漢字字体表は1949年制定、つまり常用漢字表から32年前にできたものだ。そして常用漢字表の制定は現在から27年前であるのは前述のとおり。このように見直しは約30年に一度のペースなのだが、これでは変化の激しい「情報化時代」に対応できない。今後は定期的に見直す機会を設け、必要があれば改定に踏み切ることが合意された。これはJISが工業標準化法に基づき5年ごとに見直される制度を参考したものだ[*18]。
また(3)の問題だが、これは直接的には2004年9月に法務省が人名用漢字として693文字という大量の漢字を新たに追加、合計983字にまで膨れあがったことが大きな契機のひとつになったと思われる。ここでは、従来人名用漢字の異体字として許容されてきた10字だけでなく、「廳」「顯」など常用漢字の異体字208字まで追加されたことにより、事実上は子供に付ける名前が無制限とも言えるような状態になってしまった[訂正3]。この大量追加については国語分科会で、漢字小委員会の設置を論議する中で「これで常用平易と言えるのか」等、何度か強い疑問の声があがっており、これが諮問理由につながったと考えられる。
ではなぜこの大量追加が文化庁の側から問題になるのか。それは2004年以前は保たれていたような、常用漢字表が中心に位置し、それを頻度の準じる人名用漢字が補完するという「秩序」が崩壊してしまったからではないか。たとえば表外漢字字体表(2000年答申)を策定する際には、高頻度を理由にあらかじめ人名用漢字を除外して選定したが、それはこの「秩序」があったからこそできた操作だ。また、表外漢字字体表を策定したことによって、およその頻度順に常用漢字<人名用漢字<表外漢字字体表<JIS漢字という一種の同心円を描く幾何学的構造が形成されることになったが(図1)、追加後の人名用漢字はこれを破壊するものだった(図2)。もちろん常用漢字表には「璽」「朕」などきわめて頻度の低い字が少なからず含まれているので、じつはこの「秩序」とは文化庁中心の文字観と言わざるを得ないのだが、ともあれ文化庁の側からは人名用漢字の大量追加があまり愉快なものに映らなかったことは容易に想像できる。
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図1 表外漢字字体表(2000年)制定時における国語施策の「美しい」構造[訂正1]
常用漢字表を中心に、およその頻度順に人名用漢字と表外漢字字体表がこれをドーナツ状に取り囲む。三者は字体として重複がない。そしてJIS漢字がすべてを包含している。文化庁から見れば、2004年の人名用漢字の大量追加はこの「美しい」構造を破壊に導くものだったと言える
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図2 人名用漢字の大量追加後(2004年)における国語施策の「崩れた」構造[訂正1]
2004年に人名用漢字が大量追加されたが、これには表外漢字字体表にある漢字以外に常用漢字の異体字まで含まれていた[訂正2][訂正3]。これにより常用漢字表、人名用漢字、表外漢字字体表の三者が字体の重複なく整列する「秩序」は破壊された
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またこれとは別に、例えば「宝冠」と書いて「てぃあら」と読ませるような、読みを思い浮かべることが不可能な子供の名付けが目につくようになり、これが円滑なコミュニケーションを疎外している問題がある。加えて、葛飾区と葛城市(それぞれ「L+人」と「ヒ」の違い)、三条市と五條市のように同じ字種の違う字体を採用する自治体が出現するようになってしまった問題も発生した[*19]。このうち「葛」に関しては前述の表外漢字字体表の制定前後で字体が分かれてしまったのだから、筋としては国語審議会の直接の後継である国語分科会が何らかの手を打つ必要があることになる。
こうした多様な状況により、国語施策の総本山として国語分科会/文化庁は、人名用漢字やJIS漢字も含めた総合的な考え方を提示する必要に迫られることになった。具体的には新常用漢字表の前文などで、国語的な視点に立った参考情報として見やすくわかりやすい名付けを勧める一文を加えることや、地名も含めた固有名詞用の読みを音訓欄に示すことなどが検討されている[*20]。その他、固有名詞の漢字を新常用漢字表に加えるかどうかという大きな問題があるのだが、これについては長くなるので第4回で述べることにしたい。なお、上記(4)に関しては議論はあまり深まっておらず、今後の課題とされている[*21]。
次回は新常用漢字表の審議に使用されているさまざまな調査から、その性格を考えてみよう。
● 修正履歴
[訂正1]……図1、2内の名称が間違っていた。
誤:JIS X 0213:2001
正:JIS X 0213:2000
[訂正2]……図2のキャプションが間違っていた。
誤:2004年に人名用漢字が大量追加されたが、これには表外漢字字体表にある漢字以外に常用漢字の旧字体や表外漢字字体表の印刷標準字体も含まれていた。
正:2004年に人名用漢字が大量追加されたが、これには表外漢字字体表にある漢字以外に常用漢字の旧字体まで含まれていた。
直井靖さんのご指摘に感謝いたします。(2008/6/20)
[訂正3]……2004年に人名用漢字として追加された「常用漢字の旧字体」は、195文字以外にもあるとの指摘をいただいた。
誤:ここでは、従来人名用漢字の旧字体として許容されてきた10字だけでなく、「廳」「顯」など常用漢字の旧字体195字まで追加されたことにより、事実上は子供に付ける名前が無制限とも言えるような状態になってしまった。
正:ここでは、従来人名用漢字の異体字として許容されてきた10字だけでなく、「廳」「顯」など常用漢字の異体字208字まで追加されたことにより、事実上は子供に付ける名前が無制限とも言えるような状態になってしまった。
誤:2004年に人名用漢字が大量追加されたが、これには表外漢字字体表にある漢字以外に常用漢字の旧字体まで含まれていた。
正:2004年に人名用漢字が大量追加されたが、これには表外漢字字体表にある漢字以外に常用漢字の異体字まで含まれていた。
安岡孝一さんのご指摘に感謝いたします。詳細は、私のブログ「もじのなまえ」の6月19日のエントリのコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20080619/p1#c)を参照されたい。(2008/6/23)
2008/06/19 19:31
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小形克宏(おがた かつひろ) 文字とコンピュータのフリーライター。本紙連載「文字の海、ビットの舟」で文字の世界に漕ぎ出してから早くも8年あまり。知るほどに「海」の広さ深さに打ちのめされています。文字ブログ「もじのなまえ」ときどき更新中。 |
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