前回は常用漢字表の改定が、IT機器への混乱回避をとるか、あるいは分かりやすさをとるかという困難な選択を迫られるだろうことを述べた。そして漢字小委員会/文化庁は「情報機器を利用して書くことができればよい漢字」の追加であることを理由に、IT機器への混乱回避の方を選択するだろうということも。新しい常用漢字表では全体の1パーセント程度にしても、いわゆる康煕字典体が混入することにより、分かりづらいものになるはずだ。
ただし、そのような改定を行う漢字小委員会/文化庁を一方的に批判することに意味はなく、かえって本当の問題のありかを隠してしまう可能性すらある。ここ10年の漢字政策はいつでも「社会の要望」を実現する方向で動いてきた。漢字小委員会/文化庁も特定の主義主張があって前述のような改定をするのではなく、積み重なった問題のツケを払うはめになっただけではないか。
本当の問題のありか、このような分かりづらい改定にするであろう本当の犯人は、そうした漢字政策を進める「社会の要望」の元となった、私たち自身が持つ字体意識ではないか。そしてその矛盾が最もはっきりと現れているのが、人名や地名など固有名詞における字体であると思える。普段は気にもとめないような一点一画の違い、長短の違い、はては撥ねる撥ねないの違いが、なぜか固有名詞に使われるというだけで大きな問題となってしまう。特にこれは人名において著しい。
例えば、そのような字体意識を示す一例として、衆議院のWebページ『議員氏名の正確な表記』(以下、『正確な表記』)を見てみよう(図1)[*1]。ここでは計40人の議員、異なり字数にして23字の「衆議院ウェブページで使用できない漢字」が示されている。
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図1 衆議院における『議員氏名の正確な表記』
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● 文字コード規格から見た3種の「文字の違い」
全文はあらためて後の回に掲載するが、衆議院事務局から衆議院のWebページ全体で使用する文字について、古い機種でも閲覧できるよう「JIS X 0208を適用している」との回答をいただいている。この方針そのものは妥当なものだ。現在ではUnicodeはかなり普及していると言ってよいだろうが、公共性の高いWebページは互換性を重視してJIS X 0208の範囲にとどめているところが多い(この原稿が掲載されている「INTERNET Watch」も同様)。この『正確な表記』で挙げられた議員諸氏の名前は、JIS X 0208では表現できないか、表現できる可能性が低いと判断されたのだろう。
では規格としてのJIS X 0208は、本当に『正確な表記』で挙げられた字を表現できないのか、それをここでは考えてみたい。そうすることで、衆議院のWebページがどのような字体意識を持っているのかが明確になると思うからだ。
その前にいくつか、ごく基本的なことを説明しておこう。一般に文字コード規格では字体の違いがあっても「社会的に同じ字と認識されている」として区別しないことにしている[*2]。この字体の「ゆれ」の幅を包摂の範囲といい、JIS X 0208ではこれを「6.6.3 漢字の字体の包摂規準」として詳細に規定している(図2)。「包摂」とは「同じ字にする」という意味だ。その範囲から外れるものだけが「JIS X 0208では表現できない字」、つまり未収録の字とすることができる。
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図2 JIS X 0208で示されている包摂の範囲の例(『JIS X 0208』日本規格協会、1997年、P.20~P.21)。ここで引用した規準により、例えば図1の大口議員(他2名)の「徳」、深谷議員(他6名)の「隆」、それに伊藤議員の「逹」が、それぞれ包摂連番130、同133、同128で包摂される。ここには他に第2部で触れた点付きのと点なしの「箸」を包摂する連番125がある
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さらに詳しく言うと、包摂の範囲には「デザインの違い」というものが含まれる。これはJISと別のところで規定されている。それが常用漢字表における付録「字体についての解説」における「明朝体活字のデザインについて」だ(図3)。JIS X 0208はこれをそっくり取り込んで規定としている。その中では以下のようなことが書かれている。
現在、一般に使われている各種の明朝体活字(写真植字をふくむ。)には、同じ字でありながら、微細なところで形の相違が見られるものがある。しかし、それらの相違は、いずれも活字設計上の表現の差、すなわち、デザインの違いに属する事柄であって、字体の違いではないと考えられるものである。つまり、それらの相違は、字体の上からは全く問題にする必要のないものである。(『常用漢字表・現代仮名遣い・外来語の表記』大蔵省印刷局、1992年、P.4)
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図3 常用漢字表に示されているデザイン差の例(『常用漢字表・現代仮名遣い・外来語の表記』大蔵省印刷局、1992年、P.4~P.5)。全体で3項目14分類に及ぶが、ここでは本稿に関連するものだけを抜き出した
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デザインの違いは字体の違いよりもずっと微細なものだ。だから通常は〈全く問題にする必要のないものである〉。ここまでをまとめてみよう。文字コード規格から見る限り、文字の違いには(1)未収録の字(包摂の範囲外)、(2)字体の違う字(包摂の範囲内)、(3)デザインの違う字(包摂の範囲内)という3つの分類が存在する。
● 私たちのリーダーの字体意識
もうひとつ、お断りしておきたいことがある。以下ではこのページにおける字体意識を、常用漢字表やJIS X 0208など既存のルールに照らし合わせることで、なるべく客観的に浮き彫りにしたいと思っている。しかし分析対象の人数はたかだか40人にすぎない[*3]。このサンプル数では統計的に有意なものとはできず、ここから社会全体の傾向まで分かると考えるべきではない。
では、なぜそのようなサンプル数の少ない分析でも意味を持ち得るのか。それは『正確な表記』に挙がっている議員諸氏が、民主的な選挙によって選ばれた私たちの代表であり、日本国憲法第41条が規定する国権の最高機関の構成員であるという点による。すなわち、これらの議員諸氏は、まぎれもなく私たちの社会におけるリーダーだ。そのリーダー達の字体意識を通して、私たちの社会全体にひそむ問題を明らかにしようというのがこの原稿の目的である。したがって、以下の分析によって議員諸氏や、このページを作成した衆議院事務局を誹謗中傷する意図はない。また、ひと通り分析を終えた後、衆議院事務局に質問した回答全文を第5回で掲載する。なお、以下で議員諸氏の名前を表記する際、本紙のルールにしたがってJIS X 0208で表記することをご了承いただきたい。
● 浮かび上がる「そのものの形」に対する強いこだわり
では、実際に『正確な表記』を調べてみよう(図4)。
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図4 JIS X 0208から見た『議員氏名の正確な表記』の分析。吹き出し内はJIS X 0208の例示字体と同じ字体。分類は赤字と吹き出し内の字体を比べたもの。包摂の範囲については『JIS X 0208:1997』「6.6 漢字の区点位置の解釈」を参照(日本規格協会、1997年、P.9~P.23)。(2)では該当する包摂連番を併記した。(3)では常用漢字表の「明朝体活字のデザインについて」における例を併記した。なお、使用フォントはヒラギノ明朝W3
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図4の結果をまとめると、『正確な表記』で挙げられている全40名、異なり字数23字のうち、JIS X 0208では表現不可能で、収録されていないと考えられるものは人数にして6名、異なり字数で5字だった(図4(1))。この6名は全体の15パーセントにあたる。残り34名、85パーセントにあたる議員名は、JIS X 0208においては図の赤い字と吹き出しの中の字を包摂している(同じ字としている)。つまり衆議院のWebページが依拠しているはずのJIS X 0208では、吹き出し内の字を使えば表現可能となる(図4(2)(3))[*4]。
表現可能だったはずの85パーセントのうち、人数にして12人、異なり字数で6字が「明朝体活字のデザインについて」にあるデザインの違い、つまり常用漢字表が言うところの〈全く問題にする必要のないものである〉違いを区別している(図4(3))。これは全40人のうち30パーセントという比較的大きな割合を占めている[*5]。
さて、以上からどんなことが考えられるだろう。それは『正確な表記』作成者の、「そのものの形」に対する強いこだわりである。もしもJIS X 0208が「社会的には同じ字」とした包摂規準を参照していたら、ここに挙げられている40人はただちに6名まで減ってしまうからだ。『正確な表記』作成者にとっては、JIS X 0208の包摂規準や、常用漢字表「明朝体活字のデザインについて」など、文字の「ゆれ」の幅を定めたルールは全く意味がない。「JIS X 0208を適用している」との回答だったが、おそらくは規格票は見ず、JIS X 0208を実装したパソコンのフォントと見比べただけではないか。
もう少し分析を続けよう。私たちが使っているパソコンでは、『正確な表記』にあるうちのどの字が使えないのだろう? 次回はこれを調べてみる。
[*1]……『議員氏名の正確な表記』(http://www.shugiin.go.jp/itdb_annai.nsf/html/statics/syu/gaiji.htm)。なお、参議院にも同様のページがある。『議員氏名の正確な表記』(http://www.sangiin.go.jp/japanese/frameset/fset_a03_04.htm)を参照。いずれも小熊善之氏のご教示に感謝します。ただし小熊氏は私とは意見が異なると考えておられるようだ(http://smallbear.sakura.ne.jp/tron/btm20089.html#20080908-4)。この原稿を読み終わってどのように感じられるか、楽しみにしている。
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[*2]……この言葉は、JIS X 0208の1990年改正版において適用範囲を定めた次の文言に基づく。「この規格は、JIS X 0202に基づき、通常の国語の文章の表記に用いる図形文字の集合とその符号について規定する」(『JIS X 0208:1990』日本規格協会、1990年、P.1)。「通常の国語の文章の表記」とは、どの字が「同じ字」とされるか社会的な合意が成立済みの表記であると考えられる。なお、現行のJIS X 0208:1997では「通常の国語の文章の表記」という文言は削除されている。しかしJIS X 0208:1997は包摂の範囲を含め文字集合を一切変更しておらず、この1990年版の適用範囲を否定するものではないと考えられる。
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[*3]……なお、衆議院全体の定数については公職選挙法第4条第1項により480人と定められている。
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[*4]……このうち図2(2)に分類した伊藤議員の字は、『正確な表記』では「達」の異体字とされている。しかしこの原稿ではJIS X 0208に77-93として収録されている「逹」の異体字とすべきと判断した。伊藤議員の字と「逹」の違いはしんにょうの点の数であり、包摂の範囲内の比較的小さな字体の違いだ。一方で「達」との違いは「幸」の下部の横画の本数であり、包摂の範囲を越えた比較的大きな字体の違いだ。字体史の上からは、「達」から異体字として「逹」の元になる字体が分かれ、これが楷書体(一点しんにょう)で書かれれば伊藤議員の字、康熙字典体(二点しんにょう)になれば「逹」の形につくると考えられる。この「逹」について日本語学者の笹原宏之氏は、「達」と対比させて〈手書きの場面にしばしば見られる字体である(二点しんにょうは第二水準では二点に統一するので問題としない)〉としている(『国字の位相と展開』三省堂、2007年、P.595)。つまり「逹」は「達」を手書きした際に見られる異体字であり、一点と二点の違いは包摂の範囲内としている。以上をまとめると、『正確な表記』のように伊藤議員の字を「達」の異体字であるとしても間違いではないが、この原稿のように規格の上から分析するには「逹」と対比したほうがよい。意図の違いが対比の対象に表れたと考えるべきか。
また同ページでは「隆」の異体字については、旁を「夂(ふゆがしら)+一+生」につくる字体だけが掲載されているが、深谷議員ご本人のWebページを見ると、「攵(のぶん)+一+生」の字体を使用している(http://www.fukayatakashi.jp/profile/profile.html)。しかしここではあくまで衆議院のページを分析することが目的なので、「夂+一+生」を掲載することにする。これについては第4回で詳述する。同様にWebページにある字体も第4回で掲載する。
なお、『正確な表記』は五十音順に配列していると考えられるが、1カ所だけ食い違いと考えられる個所がある。江崎洋一郎議員は「えさき」、江崎鐵麿議員は「えざき」と読むことが本人達のWebページで確認できる。洋一郎議員のドメイン名は「y-esaki.com」、一方の鐵磨議員のWebページ「http://www.tetsuma-net.com/」の著作権表示は「Tetsuma Ezaki」とある。ところが現状の『正確な表記』では、濁音の鐵麿議員の方が先に来てしまっている。
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[*5]……このうち町村議員(他2名)の「信」の旁「言」の第一画を縦棒にする形(以下「縦棒の信」)は、本来は「字体についての解説/明朝体活字のデザインについて」に該当する項目がない。しかし、このことから「信」における縦棒と横棒は、デザインの違いではないと考えるべきではないと考える。これは当用漢字表の審議当時に文部省に入省し、退職後は国語審議会の一員として常用漢字表の審議に参加した林大氏の『当用漢字表の問題点』(『漢字字体資料集 諸案集成2・研究資料』所収、文化庁国語課、1997年、P.332)における次の記述に基づく。この一文では当用漢字字体表において、「商」の第一画の方向が、従来は横棒だったものが縦棒に統一されたことを述べた上で、次のように書かれている。
〈この統一が「言」に及ばなかったのは、それらが比較的多数であって、(…)異体がなかったからである。書写の上では第1画に許容が認められている〉。
つまり、「言」は言偏の漢字が多数あり、加えて明朝体活字では「言」の第一画を縦棒につくる異体がなかったことにより、当用漢字字体表では横棒のままにしたと言う。つまり、当用漢字字体表の当時から文部当局者は「縦棒の言」も「縦棒の信」も明朝体には存在しないことを知っていた(第6回で詳述)。常用漢字表「字体についての解説/明朝体活字のデザインについて」は、その名の通り明朝体同士を比較したデザインの違いを規定するものだから、存在しない明朝体は比較もできない理屈だ。したがって、ここには規定されなかったと考えられる。「言」や「信」における縦棒と横棒の違いが同一視されるべき微細な違いであることは、同じ「字体についての解説」にある明朝体と手書き字体を同一視する規定「明朝体活字と筆写の楷書との関係について」には「言」の例があることからも明らかだ。
そこでこの図4においても「デザインの違いしかないもの」に分類し、仮に「縦棒の信」が存在した場合に分類されたと思われる「方向、傾斜に関する例」とすることにした。縦棒と横棒の違いをこの例に分類したのは、表外漢字字体表の「表外漢字だけに適用されるデザイン差」において、「闇」の門構えの中の「音」の第一画の縦棒と横棒の違いが、この「方向、傾斜に関する例」で挙げられていることに基づいた。
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2008/10/28 11:08
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小形克宏(おがた かつひろ) 文字とコンピュータのフリーライター。本紙連載「文字の海、ビットの舟」で文字の世界に漕ぎ出してから早くも8年あまり。知るほどに「海」の広さ深さに打ちのめされています。文字ブログ「もじのなまえ」ときどき更新中。 |
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