● 歴代の国語施策が固有名詞の漢字を収録しなかった理由
いよいよ実際の選定作業について説明する番だが、その前に選定に関わる前提として討議されたことをひとつだけ説明しておきたい。それは固有名詞が新常用漢字表でどのように考えられるかということだ。
もともと固有名詞は、日本語の標準化にとっては鬼門とも言えるものだ。現行の常用漢字表では前書きの第3項目で〈この表は、固有名詞を対象とするものではない〉と明確に適用範囲外であることを宣言している。この方針は常用漢字表だけではない。その前の当用漢字表(1946年)でも[*1]、戦前の常用漢字表(1925年発表、1931年に修正版)[*2]でも、やはりはっきりと固有名詞を除外しており、社会全般に向けた漢字表としては、国語施策はずっと固有名詞をオミットしてきたことになる。
それはなぜか? まず日本語ではほとんど固有名詞にしか使われないような字が意外に多い。例えば第2回で触れた「藤」のほか、「伊」「之」「阿」「彦」「智」「也」「弘」など、日常よく目にする字のうち結構な数が、他に熟語を構成することなく、ほぼ固有名詞にしか使われない[*3]。もしも頻度だけを基準にすれば、当然これらの漢字も漢字表に入れなければならなくなるが、そうすると文字数が大きく膨れあがる。これらの漢字は固有名詞以外の一般的な熟語を構成する力が弱く、漢字としての機能性が低い。こうした字を多く含む漢字表を学習しなければならないとすれば、子供達をはじめ初学者には大きな負担となるだろう。
また、例えば「神戸」という語は地名だけでなく人名にも使われるというように、人名と地名の間に境界線を引くことはできない。だから、たとえば地名だけ、あるいは人名だけというような部分集合を決めることが難しく、漢字表を作るにあたってはオール・オア・ナッシングに、膨大な固有名詞の漢字を入れるか入れないかという選択になりがちだ。さらにこれらの漢字は、それぞれ自分が使う字体に強い愛着を示すので、仮に字体規範を定めても定着は難しいだろう。もしも不満をなくそうとすれば異体字を際限なく入れるしかなくなる。
このように固有名詞の漢字は字体規範にとって、一歩足を踏み入れればズブズブと沈んでしまう泥沼なのであり、だからこそ歴代の国語施策は固有名詞を除外してきた[*4]。ところがその結果、日常よく目にする漢字が常用漢字表には入ってないということになり、これが一般の人々にとってわかりづらさの一因となってしまった。それはそうだろう、大阪府や岡山県、愛媛県に住む人にとって、身近な「阪」「岡」「媛」が表外字だと言われれば、たいていの人はなぜそれが〈一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安〉なのかと聞きたくなるはずだ。
● 今回は固有名詞の漢字を避けることは許されない
第1回で諮問理由を整理した際「固有名詞(人名・地名)の扱いについて基本的な考え方の整理」という項目があったことを覚えておられるだろうか。つまり歴代の国語施策が除外してきた固有名詞について、今回の諮問はあえて踏み込むことを求めている。
新常用漢字表において固有名詞の問題をどのように取り扱うか、漢字小委員会は討議を繰り返した結果、まず固有名詞を適用範囲外とする常用漢字表の方針は変えない(というより変えられない)ことが確認される一方、都道府県名の表外字に限ってすべて入れることとした[*5]。この結果、新たに追加されることになった字は「阪」「奈」「岡」「阜」「栃」「茨」「埼」「梨」「媛」「鹿」「熊」の11字となる。これらは都道府県名は日本人にとって非常に基本的な漢字であるという判断によるものだ。落とし所としては妙案と言える。
ただしこうした都道府県名漢字を追加した結果、常用漢字表の時代までは維持されてきた「まず字種の範囲を決め、次にその字種における字体標準を示す」という一字種一字体の法則は、今回の改定から崩れることが確実になった。たとえば先に例に挙げたうち「阪」は、常用漢字表で「坂」がすでに収録されている。これにより発音と意味は同じでも字体が違う異体字を抱え込むことになり、はたしてどの字体が標準か不明という「分かりづらさ」が発生する。もっともこれは、一般に「阪」が「坂」の異体字と言われると意外と感じる人が多いように、固有名詞に特化することで別字意識が発生していると考えられるので、あまり大きな混乱にはならないと予想される。
なお、選定作業以前から母集合に追加することが決まっていた漢字として、他に「新聞常用漢字」が挙げられる。これは日本新聞協会が常用漢字表と同様に使うことを決めた45字のことだ。ただし今までの議事録をいくら探しても、これについて議論された部分が見つけられない。たった11字の都道府県名漢字を追加するのに何回も議論したのに比べると、いささか不自然であるようにも思える。これらの明細は以下のとおり[*6]。
亀、舷、痕、挫、哨、狙、磯、牙、瓦、鶴、釜、玩、臼、脇、錦、駒、詣、拳、鍵、虎、虹、柿、餌、腫、袖、尻、腎、須、腺、曽/曾、誰、酎、賭、瞳、頓、丼、謎、鍋、汎、斑、枕、闇、妖、嵐、呂
(『これまでの検討結果(第1次・字種候補素案)』P.7)[*7] |
なお説明が前後するが、6月16日の第23回漢字小委員会の審議で第2次・字種候補案が提示され、その中で上記のうち「賭」「釜」「磯」「柿」が「本表に入れない字」とされた。これについて日本新聞協会から出ている金武伸弥委員の反応が注目されたが、「新聞常用漢字が特例と受け取られることは本意ではない」とした上で、「外れる字があった方がむしろ公平。これらの字の頻度は我々の客観的データとも一致する」として、反対しない姿勢を明確にした。
以上説明した前提にしたがって追加候補を選定する母集合が決められるのだが、思ったより長くなってしまった。申し訳ないがこの続きは次回にさせていただきたい。次回が第1部の最終回になる予定だ。
[*1]……「固有名詞については、法規上その他関係するところが大きいので、別に考えることにした」(当用漢字表・まえがき)
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[*2]……「二、固有名詞ニハ本表ニナイ文字ヲ用イテモ差支ナイ。タヾシ外國(支那ヲ除ク)ノ人名地名ハ假名書キトスルコト」(常用漢字表・凡例)
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[*3]……ただし全部が固有名詞専用とも言い切れず、これまた線引きが難しいところだ。
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[*4]……唯一の例外が新しく生まれた子供の名前に使う漢字を定めた人名用漢字だ。しかし戸籍法は名前の読みまでを求めていないこともあり、最近は字面から読みを想像することが極端に難しい子供の名前が目立つようになっている。こうした問題については第1回でも述べたように、新常用漢字表の前文などで国語的な視点から参考情報を記載することが合意されている。
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[*5]……第20回漢字小委員会配布資料『国語分科会漢字小委員会における審議について(案)』P.4(http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/bunkasingi/kanji_20/pdf/siryou_2.pdf)。都道府県名漢字については第8回と第10回で審議されたが、「阪」「岡」など特に頻度の高いものについては追加が合意されたものの、11字全部を追加するかどうかまでは異論が出て合意できなかった。その後、特に議論する機会がないまま1年半後の前掲第20回配布文書『国語分科会漢字小委員会における審議について(案)』における〈ただし、固有名詞の中でも特に公共性の高い都道府県名に用いる漢字は、そのすべてを表に入れた〉(P.5)という文言でこの問題が突如復活、これに関して議論のないまま静かに了承されたというのが、これら11字が入るに至った経緯だ。
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[*6]……都道府県名漢字が追加されることをあんなに報じた新聞が、なぜこれらの追加を報道しないのかちょっと不思議だ。
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[*7]……『これまでの検討結果(第1次・字種候補素案)』(http://internet.watch.impress.co.jp/static/column/jouyou/2008/06/19/soan_080512_0526.pdf)。なお「曽/曾」は同じ字種なので、この段階では1字に数えている。本文で後述するように字体は最後に判断される予定。
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2008/06/24 10:53
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小形克宏(おがた かつひろ) 文字とコンピュータのフリーライター。本紙連載「文字の海、ビットの舟」で文字の世界に漕ぎ出してから早くも8年あまり。知るほどに「海」の広さ深さに打ちのめされています。文字ブログ「もじのなまえ」ときどき更新中。 |
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