電子書籍、YouTube、ポスターで被災者を応援「世界の“絆”グラフ」

~電子出版プラットフォームを使った情報支援の試み

 3月11日に発生した東日本大震災は、東北地方を中心とした太平洋沿岸部の広範囲に甚大な被害をもたらした。その様子は国内外メディアで大々的に報道され、海外でもチャリティーイベントや義援金募集が積極的に行われた。

 しかし、通信インフラが寸断した被災地の人々には、支援の輪の存在を伝えること自体が難しい。そこで株式会社インプレスR&Dは、これらの支援を写真とメッセージで紹介する「世界の“絆”グラフ」プロジェクトを立ち上げた。

「世界の“絆”グラフ」には世界中から寄せられた写真とメッセージが収録されている(左上:kawaraowo1984さん提供、右上:POLE POLE TO-CHAさん提供、下列:真辺リカさん提供

 世界のメッセージを電子書籍にまとめ、4月27日に無償公開。続いて画像にメッセージと音楽を付けた動画を制作、YouTubeで公開した。6月16日に、被災地の避難所や学校などで広く見てもらうためのポスターを制作したことを発表し、現地に配布するボランティア団体などの協力を募っている。同時に、携帯電話用のコンテンツも公開した。

 「世界の“絆”グラフ」プロジェクトを開始した経緯や多メディア展開の経緯について、株式会社インプレスR&D 代表取締役社長の井芹昌信氏に話を聞いた。

 

世界中からの励ましの声を被災地に届けたい

株式会社インプレスR&D 代表取締役社長の井芹昌信氏

 井芹氏は出版社の発行人としての立場から、東日本大震災発生直後の様子について「被災地の情報流通や物流は大きく混乱しましたが、その一方で略奪や暴動が起こらなかったことを海外メディアが賞賛してくれていました。諸外国でのチャリティーや復興支援イベントもいち早く行われていました」と振り返る。

 民間レベルでの諸外国の支援は、インターネット上でも数多く紹介されており、井芹氏自身がインターネットで調べてみただけでも相当数に上った。「被災していない地域に住む我々は、比較的簡単にこうした諸外国の支援や応援の声を見ることができます。ところが、世界の人が応援してくれている肝心の当事者である被災者の方は、通信インフラが壊滅した避難所にいたりで、こうした声や取り組みを知ることができない」と当時の状況を振り返る。

 出版やウェブでの情報発信に取り組む企業として、こうした情報を伝えることでなんらかの寄与ができるのではないかと考えたのがプロジェクト始動のきっかけだったという。諸外国の民間支援をいち早く被災地に伝えたいという思いから、本文の構成は極力シンプルにした。69カ国108団体の支援の様子を写真と短いメッセージで紹介している。インプレスR&Dの電子雑誌「OnDeck」の編集部員がそのまま制作に携わった。

 実際の制作期間は約1週間ほど。4月中旬に集中的に行われたが、大半の作業は画像提供元への許諾や確認作業であり、比較的スムーズに制作できたという。海外からの支援の様子をすでに公開していた外務省の協力を仰ぎつつ、各国の日本人会などとも直接コンタクトをとった。なお、基本的にはEPUB版として制作されたが、PDF版、Kindle版もあわせて公開されている。

 

通信インフラが途絶した被災地~ケータイや紙ポスターへの展開

 発行にあたっては、その情報をもっとも届けたい読者、つまり被災地に住む人々がそういう情報を見たいかどうかを直接確認し、また被災者の置かれた状況を確認する必要があった。井芹氏らは発行前の4月中旬に被災地へ足を運んだ。地震発生から約1カ月が経過した状況ではあったが、情報インフラはいまだ完全復旧をみていなかった。

 「岩手県陸前高田市で最も大きい避難所だった中学校の体育館には、当時は約400人の方がいたのにテレビが2台あるだけでした。大きなテレビではありましたが、400人に2台では『遠すぎて見えないし、音もほとんど聞こえない』とのことでした。新聞も、誰かが手に入れた新聞をみんなで回し読みしているような状況で、海外の声どころか、国内の報道も十分届かない状態でした。」(井芹氏)

避難所となっている岩手県陸前高田市の中学校。4月中旬には400人ほどが避難していた「世界の“絆”グラフ」を見てもらうと、年齢層に関わりなく「こういうものがあれば見たい」との声がかえってきた

 東日本大震災で、NTTグループでは固定通信136万回線、携帯電話基地局約6700局で障害が発生し、通信が遮断された。陸前高田市でも、固定系の通信回線は完全にダウン。携帯電話もかろうじて利用できる程度だった。

 井芹氏は「給食センター内の仮設市役所では、ボランティアのプロジェクトPDRNET(Post-Disaster Recovery Network)がパラボラアンテナを立ててインターネットが利用できるようになっていましたが、パソコンは共用で電子書籍をゆっくり読むことはできません。印刷して見るには紙もトナーも必要になります。被災地の方に見てもらうには、電子書籍以外のさまざまなチャネルを検討する必要があると実感しました」と現地の様子を振り返る。

 「実際、被災者の方に電子書籍『世界の“絆”グラフ』を見ていただいてお話を聞いてみると、こういうものがあればぜひ見たいと言っていただけました」(井芹氏)。ニーズがあるなら、ではどう届けるかということになる。テレビもまともに見られない避難所では、スマートフォンではない“ガラケー”が主な情報源となっていた。ガラケーへの対応、避難所にはれるポスターの制作は、この時に考えた。

 被災地にいかに情報を届けるか。展開するメディアを決めると、電子書籍制作のノウハウが有効に機能した。EPUB形式の電子書籍データからPDF出力は簡単にできる。PDFから静止画フォーマットを出力して、音楽をつけてスライドショー形式の動画を制作することは比較的簡単だ。

 井芹氏は「今回いろいろなものを制作しましたが、どの形であっても基本的に“パッケージ”であることを重要視しました。電子書籍は単体ファイルとして完結していて、完成物として他人に送ったり届けたりすることが容易です。今回の取り組みでは、このポータビリティの高さが非常に重要でした」と説明。検索すれば見つかるウェブ上のいちコンテンツではなく、インフラの機能不全によって情報を得にくい人々にもよりわかりやすい形で届けられることの重要性を強調した。

 「世界の“絆”グラフ」の制作実務にあたったOnDeck副編集長の福浦一広氏は、「実は編集部内でも『電子書籍でなくウェブ公開で十分ではないか』という議論があったんです。ですが、ウェブには確かに多くの情報があるものの、基本的にプル型のメディアなので、自分から情報を探す必要があります。ばらばらの情報を編集作業によって1つの固まりにして、一覧できるようにすることで、個々のメッセージだけでなく全体としてのメッセージが生まれます。編集によって、ひとつのパッケージにまとめて提供する意味はやはり大きいです。今回、電子書籍やポスターを作って改めて実感しました」と言う。

 ウェブとEPUBはいずれもXHTMLやCSSを活用しており、基本技術は共通する部分が多い。しかし、ウェブ媒体の編集長も経験した福浦氏は、ひとつのパッケージとして提供する電子書籍と、主に利用側が検索やリンクをたどるなどで積極的に特定の情報を得ようとするウェブ媒体では、情報を伝える方法や目的に決定的な違いがあるとした。

 

ポスター掲示には、ボランティア団体などの助力を募る

 6月17日に発表した避難所貼り出し用ポスターの制作は、一連のプロジェクトの最終段階にあたる。ポスター掲示によって、インターネットや携帯電話に詳しくない高齢者などの層にも「世界の“絆”グラフ」の内容が伝わることを期待している。また、被災地の若年者では、PC以上にフィーチャーフォンの利用者が多い状況も考慮、QRコード経由でアクセスできる携帯電話向けの「世界の“絆”グラフ」PDF版を準備した。

「世界の“絆”グラフ」ポスターでは、108枚の写真とコメントが一覧できる。携帯電話版にアクセスするためのQRコードも中央に印刷した

 ただし、避難所ではポスターの有効性を目の当たりにする一方で、ポスターを貼るのは簡単ではないこともわかったという。「避難所にはさまざまな郵便物が日々届いており、それを管理する人の対応は様々です。ポスターを1つポンとお送りしても避難所の担当者の方が対応に苦慮されるはずで、さらに貼り出すとなると、現場での確認も必要になります。そこで、ぜひ自治体やボランティア団体、公共施設の管理者の皆さんにご協力いただけないかと考えています」。(井芹氏)

 具体的には、避難所、市役所、病院、学校など10カ所程度の場所にポスターを掲示可能な団体や管理者から自己申告してもらう形式を想定。申込みはOnDeck編集部の専用メールアドレスで受け付ける。

 

低コストで多メディア展開も可能な電子出版は、無償配布物制作に最適

「ビジネス的な視点から見ると、電子出版のメリットはまず、紙メディアよりもはるかに低予算でスタートできる点にある」(井芹氏)

 「世界の“絆”グラフ」はインプレスR&Dとしての非営利プロジェクトだが、電子書籍事業に取り組む同社にとって、情報提供によって支援を行う際に電子出版がどう役立つのか、実際に役立つようどう活用するのか、という取り組みでもある。「基本的にビジネスというのは誰かの役に立つこと。今回のような事態にあっても役立てるものでなければなりません。そういった意味で、『世界の“絆”グラフ』はビジネス実験とも言えるかもしれません。」(井芹氏)

 電子出版のメリットの1つは、まず低コストであることだ。井芹氏も「今回は内部制作の人的コストと、ポスターのデザイン料などはかかっていますが、紙の書籍出版と比べると、製版、紙、インクといった直接原価や、形のあるものを流通させるのに必須となる倉庫代、輸送費などはほとんどかかっていません。紙に比べたら圧倒的に低コストで制作が可能です」という。

 非営利プロジェクトでできるだけ多くの人に読んでもらうことが目的のため、商業目的の電子書籍では必須となるDRMもかけていない。これもコストが安くすむ理由のひとつだという。低コストかつDRMフリーの電子書籍は、公益性が高い分野での出版、例えば政府刊行物や、疾病への理解度向上を目的としたパンフレットのようなものとも相性がいいのではないかと井芹氏は指摘する。

 DRMをかけてしまうと、たとえ無償であってもユーザー認証や登録作業などが必要になってしまい、閲覧する側のハードルが大きく上がる。商用電子出版の難しい点だ。しかし、企業のリーフレットなどの宣伝目的のものや、非営利団体が配布する出版物などでは、こうしたDRMによる縛りがない。他人への周知徹底を目的とする以上、コピーされることはむしろ歓迎すべきでDRMは不要だ。低コストで多メディア展開も容易という、電子出版の長所が活きるというわけだ。

 さらに井芹氏は、「電子出版のいいところは、1つの元データを制作して各要素ごとにタグを付けておけば、あとはスタイルシートを変更するだけで、さまざまな端末や形態に応じて簡単にデータを変換できること」だという。

 これまでの商用電子出版は、マンガの売上げが圧倒的に多いこともあり、紙媒体を制作してから、あるいは既存の紙媒体を電子版へと展開する「紙から電子」のスタイルが普通だった。だが今後は、新潮社が5月に、今後の新刊はすべて電子出版すると宣言したように、電子媒体への展開を前提としたコンテンツ作りが必要になる。井芹氏は、今回のプロジェクトで、本づくりの工程で、紙を主体としたものづくりから、柔軟な運用が可能な電子出版データ作成を行い、電子出版物から紙媒体への展開を図る「電子から紙」へと考え方を切り換える必要があるのではないかという。長い時間をかけて作られてきた制作現場のワーフフローを変えるには時間がかかる。しかし、紙から発想する従来のものづくりから、電子媒体から発想するものづくりへのシフトが迫られていくだろうと指摘しだ。

 


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(森田 秀一)

2011/6/17 06:30