デザインは商品開発そのもの~株式会社プレーン 渡辺弘明社長
三軒茶屋にあるオフィスには、思わず手に取りたくなるような目を惹くデザインの家電やパソコン製品が並んでいる。そのすべてをデザインしたのが、インダストリアルデザイン会社プレーンだ。実用品のデザインは、かっこいい、美しい、なつかしい――など製品のイメージを決めると同時に、使い勝手など製品の性能そのものでもある。
1980年代のApple社の初代Macintoshが与えた衝撃は、斬新で美しいデザインによるところも大きいというのは、誰しもが認めるところだ。その2代目以降のMacintoshのデザインを担当したことで知られるデザインスタジオ、フロッグデザインに所属した経験を持つ株式会社プレーンの代表取締役 渡辺弘明氏に、デザインについて、またデザイン開発する上で目指しているものをお聞きした。
●絵が好きだった子ども時代
株式会社プレーン代表取締役 渡辺弘明氏 |
私は1960年生まれで、18歳まで出身地の福井県にいました。野球などスポーツと絵を描くことが好きな子供でした。実家は商売をやっており、デザインとは縁がありません。ただ、父は絵を描くのが好きで、よくスケッチブックやペンを買ってくれました。父自身が、長男で好きなことができなかったからかもしれません。「お前は次男だから外に出て、自分で生きる道を見つけろ」と言われていましたね。
実家の家業は、冠婚葬祭用の餅やお菓子を作る餅屋です。結婚式などの祝い事が多い土日は忙しく、友達は遊んでいるのに自分は家の手伝いをしなければなりません。ずっと、いつか家を出て東京に行きたいと思っていましたね。叔父や叔母が東京にいたので、しょっちゅう遊びに行っていました。
写真も好きで、中学生の時にはカメラを持っていました。高校ではアルバイトをして一眼レフや望遠レンズを買い、野球場に選手の写真を撮りに行っては雑誌で売り、お金を稼いでいました。
●失敗した高校入学
高校は、福井工業高等専門学校、通称“福井高専”に進学しました。もともとは、県立高校に行ってその後美大を目指したいと思っていましたが、県立高校より入試日が早く、試しに受けたところ受かってしまったのです。そのまま土木課に入りました。それが間違いのもとでしたね(笑)。
建築やデザインに興味があり、橋やトンネルも、デザインと関係なくはないだろうと思って入ったのですが、実際は数学や物理の世界。1年のうちに高校3年の数学を終わらせて、2年から大学の勉強を始めるような学校でした。おまけに、僕は数学が嫌いでした。入学した時から、「こりゃダメだ、いつやめよう」ということばかり考えていました。
当然、周囲は数学や物理が好きな人たちばかりで、話も合いません。真面目にやっていない奴らと一緒に遊んでばかりいましたね。授業中は話も聞かずに絵を描いたり、友人を主人公にした小説を書いて回し読みをしたりしていました。一応授業のメモはとっていたものの、ノートの後ろの方から描いている絵の方が多いような状態でした。
高専は、3年が終われば高校の卒業資格がもらえ、大学受験ができる仕組みになっています。赤点ラインが60点でクラスでも10人が落ちるほど難しかったものの、なんとか4年に進級できました。「進級できたので辞めたい」と両親に話したところ、「あと2年だからがんばれ」と言われてしまって。
しかたがなく通っていたのですが、さすがに我慢できなくなりました。土木の道に進む気などさらさらないのに、このまま勉強していても無駄なのではないか――。
●東京、そして芸大予備校へ
やがて私は勉強もせずにパチンコに行ったり、アルバイトをしたり、美大を受けるために絵を習ったりし始めました。ところが、福井にはあまり美大受験のための学校がありません。そこで一大決心して、期末テストの日に、学校に行くふりをして東京に行き、デザインの学校を下見に行ったのです。テストに行ったとばかり思っていた親は、びっくりです。
しかし、仕方ないと思ってくれたようで、無事デザインの勉強ができることになりました。東京の親戚で芸大受験予備校の講師をしている人がいたので、そこに入ることにしたのです。福井では「適当に描いていい」と言われていたのですが、芸大にいる従兄弟を見るとレベルが違う。これはダメだと考え、予備校に通うことにしたのです。
高専では美術の授業がなく、音楽も1年の時くらいしかありませんでした。社会も教科書の初めの方だけやって終わりなど、専門科目以外は深く学びませんでした。その代わり、専門科目である製図や測量は1年の時からありましたけれどね。
ですから、それまで石膏デッサンもしたことがありませんでした。予備校では、何回も美大を受験した人や高校から勉強している人たちばかりで、レベルが高かったですね。この時、私はもう19歳でした。
美大の受験科目は、国語と英語と実技です。国語は中学までは好きだったので何とかなりましたが、英語はまったく勉強していなかったので、中学レベルの英語で受験を迎えることになりました。
●美しさと機能の両立
渡辺社長が桑沢デザイン研究所在学中に「肩肘ついて気楽に電話をする」というコンセプトのもとにデザインした電話機。既製品のように見える完成度の高いモックアップは手作りだ |
予備校で1年過ごした後、桑沢デザイン研究所という専門学校に入りました。この学校は英語の入試試験がなく、国語と実技で入れたからです。1年次では、グラフィック、インテリア、インダストリアルデザインの3分野のデザインを学ぶカリキュラムが組まれていて、2年次から専攻分野を選ぶことになっていました。私はグラフィックかプロダクトのどちらを選ぶか、ずっと考えていました。
1年の最初の課題で出たのが、テープカッターのデザインでした。アイディアを考え、絵を描き模型を作るのですが、プロダクトなので実際に使えなければいけません。機能と美の両方が満たさなければならないのが面白いと感じました。その時に、「自分はプロダクトデザイナーとして生きていこう」と決意したのです。“Form Follows Function”という有名な言葉があります。形態は機能によって決まると言う意味なのですが、まさにそれを体験したわけです。
プロダクトデザインにおいては、まずコンセプトが重要であり、外見上の美しさは機能や使いやすさを表現したことの結果であると、私は考えています。すなわち、最初から形ありきということはないと言えます。また、プロダクトに限りませんが、世の中に既にあるようなものを作っても意味がありません。私は学生時代から、市場にない新しいデザインのプロダクトをデザインしようと試みていました。
たとえば、私が学生時代に作った家庭用の電話機は、「片肘ついて気楽に電話をする」というコンセプトのもと、キーパッドの部分を横方向の傾斜面に配置しました。肩肘をつきながら受話器を持つと、顔が斜めになりますので、キーパッドも斜めにすることで楽な姿勢でテンキーを押すことができます。
課題は最終的にモックアップ(模型)を提出します。モックアップは、本物に見えるようなリアリティが必要です。どのようにすればリアリティのあるものに仕上がるかを考えながら制作します。この電話機は木でできており、鋸で大まかにカットし、サンドペーパーで磨き上げ、アクリルの棒をカットし貼りつけたものをボタンとし、塗装して仕上げてあります。
●紆余曲折を経て
安易な気持ちで土木工学を専攻したのですが、後から自分が何をやりたいのかがわかりました。桑沢デザイン研究所でともに学んだ友人達にも、同じように紆余曲折を経てデザイナーを志す人が多くいました。
今でも友達と会っていますが、たとえば、実家である京都の旅館で板前をしていたもののデザインが好きで勉強し始めた人や、大学で機械工学を勉強した後にデザインの勉強をする為入学し直した人、自転車競技をしていたけれどやっぱりデザインが好きな人、など半分はそういう人たちばかりでした。
私もそうですが、そういう人たちは決意が違いますね。私の学生時代はお互いに切磋琢磨し、良い作品を作ろうという気概に溢れていました。学ぶ環境が良かったと思います。
現在は、桑沢で非常勤講師をしています。優秀な学生の中には、自分と同じように違う分野の勉強をした後にデザインを学ぶ者や、働きながら学校へ通うという、志の高い者が多くいます。
●万博のインパクト
いまプロダクトデザインの仕事をしているのは、「大阪万博の体験が大きく影響しているかもしれない」という。日本中が万博で盛り上がり、未来に期待と関心が高い時代だった |
その頃の友達と今でも話すのは、1970年にあった大阪万博です。私は1960年生まれで、1960~1970年代に子ども時代を送っています。この時代は高度成長期で、少年誌では未来都市や宇宙ステーションのイラストが掲載され、鉄腕アトムなどのロボットアニメも人気があり、21世紀、未来の世の中はどうなっているのか、期待と関心が高い時代でした。
万博は、私にとって本当にものすごいイベントで、未来の都市を目の当たりに出来、刺激的な非日常を体感できました。今考えても夢の世界で、タイムマシンがあったらもう一度万博に行きたいと思うくらいです。
入場券、ポスター、表示や会場の案内などのグラフィックデザインは一流のデザイナーが担当し、建物も一流の建築家が作っていて、展示もすごいものでした。どれもクオリティが高いものばかりで、実験的で普段できないことを実現していました。
どんなにすばらしいものであっても、会期の半年間が終われば壊してしまうのですから、すごい話です。きっと考えられないくらいお金を使ったのだろうと思います。今でもその頃の写真を見ますが、本当に夢のようで感動します。
当時小学4年生だった僕は、最初は、松下館、アメリカ館、ソビエト館など現存するパビリオンの絵を描いていました。やがてオリジナルのパビリオンを想像して描いて、さらに立体モデルを作ったりするようになり、その中で展示するものを考えたりもしました。未来はどうなるのかを真剣に考えましたね。
今でも「2~3年後のケータイはどうあるべきか」など、未来のプロダクトを作る仕事をしていますが、このような仕事をしているのは、あの時の体験が大きく影響しているかもしれません。
(明日の後編につづく)
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2009/11/30 06:00
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