福井弁護士のネット著作権ここがポイント

ゴーストライター論 〜我々は作品の何を「買って」いるのか〜

 久々のコラムである。このところ次の新書の原稿が難産に難産を重ね、もう自分を年度末の粗大ゴミで出してしまいたい気分だったが、奇跡的に初稿が出来た。なので、取材などで自分もだいぶ余波を受けた一連のゴーストライター論争について、この機会にまとめておく。

相次ぐ「実は別人の創作」報道

骨董通り法律事務所の福井健策弁護士

 言うまでもなく、発端は「現代のベートーヴェン」こと佐村河内守氏である。全聾の障害を克服して作曲したという「交響曲《HIROSHIMA》」が18万枚を売る大ヒットとなり脚光を浴びた。ところが、桐朋学園大学非常勤講師だった新垣隆氏が週刊文春の記事で「18年来ゴーストライターだった」と名乗り出て、大騒ぎになる。本人も大筋でゴーストライターの事実は認めて謝罪。レコード会社はCDを出荷停止にし、全国のコンサートは中止され、ワイドショーは毎日取り上げて、このあたり筆者も結構引っ張り出された。

 また、いわゆるゴーストライターではないが、同じ2月には由緒ある公募美術展「全日展」の前会長が、16県以上の知事賞受賞作は自分が代作・ねつ造したものだったとして謝罪して、これまた大きく報道された。3月、今度はホリエモンこと堀江貴文さんの小説「拝金」「成金」が実はゴーストライターの筆によるものだった、と表紙イラストを描いた漫画家の佐藤秀峰さんが暴露する。毎月のように「実は別人の創作」報道が続いているのだ。

 佐村河内氏の事件は世論の厳しい指弾を受けたが、この頃から、「ゴーストライター? とんでもない!」という一般世論と、芸能界や出版界などいわば“業界人”の感想との温度差は、しばしば感じるところだった。「佐村河内事件は良くないが、ゴーストライター自体は当たり前の存在」という業界側の指摘は最近になるほど増えていて、ホリエモン事件でも評価は大きく割れた。

 実際、ゴートライターを広く「他人名義で創作を行う個人」と呼ぶなら、これはジャンルを問わず多い。実態もおよそ完全なる代筆から、「著者本人」の口述筆記にむしろ近いものまで、千差万別だろう。タレント本やビジネス書の9割までがゴーストライターによる代筆である、との指摘はあるし、佐々木俊尚さんや(ネットの記載によれば)重松清さんなどゴーストライターだった経歴を持つ人気作家も多い。

 さらに、ソングライターでもゴーストによる代作・補作の事実は仄聞するし、純然たるゴーストではないが著名人が外国文学を翻訳する際の「下訳」や、漫画編集者が事実上の原作者・作品プロデューサー的役割を担っているケースなども、広くはこの範疇に入るだろう。

「ゴーストライター契約」は有効か

 さて、ほとんどのゴーストライターは契約書など残さないが、それでも約束がある以上、口頭/暗黙の「ゴーストライター契約」はある。そして典型的なゴーストライティング契約は、少なくとも次の2つの条件を含んでいる。(1)著作名義に関する合意(=「著者」名義でのみ公表すること)、(2)著作権の譲渡(あるいは利用の「独占的許諾」)、である。たいていはこれに、(3)守秘義務、(4)支払の約束、が付くだろう。

 (1)の約束は、それこそゴーストライターの定義そのものと言って良く、前面に名前が出るならゴーストとは言わない。法律的には「著作者人格権(氏名表示権)の不行使特約」の一種と呼んでも良いだろう。(2)であるが、作品を公表し各種利用するのは「著者」側であり、ゴーストライターは使わない。ゆえに著作権は「著者」に譲渡するか、あるいは永久に「著者」が独占的に利用して良い、という暗黙の合意はあるはずだ。だからこそ、佐村河内氏は自分名義で曲をJASRACに信託したし、新垣氏も永年にわたってそのことに異論を唱えなかったのだろう。

 (3)はジャンルにもよるが、少なくとも「自分が全部書いた」とは名乗り出ない暗黙の了解がある場合は多い。(4)の支払だが、固定で1冊30〜50万円であるとか、印税方式で「著者」と印税を折半する、といった相場感をよく見かける。

 ゴーストライター的な契約については、かつて法の趣旨に反して無効だと述べた裁判例があった。ただ、前述の通り、現実にそれなくして成り立たないコンテンツ業界は多い。著名な脚本家が弟子筋の新人に代作させるケースなどは、むしろ若手に仕事を作り経験を積ませる意味もあると言われる。常にそうであるかは疑問としても、佐々木さんなどは「収入と共に経験・コネクションを得られる新進ライター」「著者本人」「出版社」の間のエコシステムの効用を指摘している。

 こうしたことから、「裏方ライター自体は必要な存在で悪者視はおかしい」「大事なのは成果物の出来であって楽屋裏は重要ではない」といった指摘も多い。筆者も基本的には同感だ。そもそも名前の出ない作り手など、ものづくりでの下請け/OEMからいわゆるアシスタント/制作スタッフ的な存在まで社会の各所に存在している。そこには解決すべき様々な課題もあるが、存在自体が悪いような二元論はおそらく無理だろう。だから常に公序良俗に反するとは思わず、当事者が納得して約束する限りは原則として有効で良いように思う。

 著作者人格権の不行使特約も、有効説の方が有力だろう。(本来はここに「職務著作」という論点も絡んで来るのだが、間違ってもコラム向きではないので割愛。)

ゴーストライターの是非と、作品の売り方は別な問題

 とはいえ、佐村河内氏や全日展の事件は確かに犯罪的だった。ホリエモンについても、事実なら筆者はやはり感心しない事態だと思う。なぜか。買い手の重要な期待を裏切っているからだ。

 比較として通常の「タレント本」や「カリスマ経営者のビジネス書」の場合を考えよう。「実はライターがいた」と言われても「そんなものかな」と感じる購入者が多いのではなかろうか。

 タレント本人が皆それほど文章がうまいとは誰も思わないだろうし、むしろ大事なのは、本人の経験や思いが読みやすく率直に綴られていることのはずだ。つまり、「ライターが本人や周辺に入念に取材して書いた」と聞いて、「そうと知ってたら買わなかったからお金を返して」とまで感じる購入者はおそらく少ない。複数の方が述べているが、大半のタレント本/ビジネス書は、「●●さんが文章を書いた本」ではなくても「●●さんの本」として成立していれば、買い手一般の期待には背いていないのである。

 では小説ならどうか。この場合、ライターがホリエモンに入念に取材して彼のアイディアを小説にした、と言われても納得度はより低いのではないか。そうならば「原案 ホリエモン」と明記してくれよ、と思う。なぜか。おそらく小説の場合には、込められた思想やアイディアと並んで具体的な文章表現が重要で、我々はその表現をホリエモンが紡ぎ出したと期待して本を買うのである。

 例を村上春樹に変えると、おそらくもっと当てはまる。「村上春樹は原案に過ぎず、誰か文章化した人物がいる」なら、少なくともそうハッキリ宣伝して売ってくれなければ大問題だろう。そうと知っていたら買うのは見合わせる、という読者はきっとかなり多いからだ。

 佐村河内氏はどうか。彼の場合には、人々はおそらく曲の表現だけに注目してさえいなかった。「全聾の作曲家が障害を克服して(ほとんど)独力で作曲した名曲」という“物語込み”で、CDを買ったのだ。その物語を聞いたから感動は高まり、ハッキリ言えば「より名曲に聞こえた」はずだ。でなければ、新垣氏はとっくに単独の作曲家として売れている。

 「そんな陳腐な物語に群がる人々の方が悪い」? その通りだ。どこかで聞いたような深イイ話に人々がすぐ涙を流し行列を作るから、詐欺もやらせも無くならないのだろう。

 それは事実だが、だとしても、やはり騙される人より騙す人の方がずっと悪い。無論、物語ややらせはどんなビジネスにも少しはある。たとえば、TVのトーク番組でお客さんやスタッフの笑い声が入ると、何だか見ている視聴者も笑える話のような気がしてくる。やらせである。でも、それは視聴者もだいたいわかっているやらせだ。

 佐村河内氏の件では、「実は彼は発注者であってイメージを伝えた程度」という報道された事実を人々が知っていたら、おそらくCDは買わずコンサートには行かずTV番組では取り上げなかった。虚構を話し、それを信じさせたが故に多額のお金を受け取っている。そうであれば、やはり詐欺の可能性は高いのだろう。

 つまり、(A)ゴーストライティングそのものというより、(B)その成果の売り方が詐欺的かどうか、がここではポイントのように思える。著作権法には121条「著作者名詐称罪」という罰則があるが、これも(A)のゴーストライター全般というより、(B)の詐欺的な著作名義の使い方を犯罪化している、という理解が有力なようだ。言い方を変えれば、ゴーストライターの功罪の問題と、作品の売られ方・買われ方の問題を分けることが重要である。

今後のゴーストライターの課題

 では、一連のゴーストライター騒動が投げかけたものは何だったのか。

 第一には、「契約条件の明確化」というコンテンツ産業全体の課題だ。日本的な「あうんの呼吸」のメリットは十分承知した上で言えば、今後、当事者は「裏方への作品発注」において自分達が一体何を合意しているか、上記(1)から(4)の契約要素をより意識する必要があるだろう。

 この点、発注者への著作権譲渡については、譲渡じたいを悪だとする論調もある。確かに強い者が著作権を奪ってしまう慣行は問題だが、それは支払条件とのトレードオフでもあろう。著作権譲渡に見合う一時金があったり、あるいは著作権譲渡でも作品がヒットした場合に印税の配分が得られるなら良い、と感じる当事者も多いはずだ。

 第二には、少なくとも「人々が何を買っているか」という本質的な期待を裏切らないことだ。「そうと知っていたらこの作品は買わなかった」と感ずる人が多いような著作名義の使い方は詐欺的で、違法の可能性が高まる。その意味で、ライターの「クレジット表記」が今後はより重要になる。

 現状でもライターが「執筆協力」として奥付などにクレジットされている例はあるが、場合に応じて「執筆協力」「構成」といった、著作名義未満の適宜な表記を行う慣行はより一般化すべきだろう。そうした名義を載せると売上が落ちてしまうような企画ならばどうするか。それこそ詐欺的なケースである証拠なので、企画自体を見直すべきだ。小さな「やらせ」や「盛り」は、誰でもする。しかし大きな嘘は、やはり嘘だ。ばれて失うものだって大き過ぎる。

 最後に、そうは言っても、やらせや詐欺的な名義の使用は今後も世の中から無くなりはしないだろう。「いいよ騙しても騙されても別に」と思うなら別だが、「そりゃやっぱり駄目だ」と思うなら、買い手である我々が偽物を見抜けるリテラシーを今より高めるしかない。とっても詮ないことを書くようだが、5分で作れるような「いい話」にすぐ財布を取り出す前に、作り手が本当に身を削った良作を受け止められる視聴者や読者が増えるしかない。そしてそのためには、教育とか、批評とか、ジャーナリズムの果たす役割は、やっぱり大きいのである。

 ばれた後の佐村河内氏やホリエモンを叩くよりも、多分ずっと。

福井 健策

HP: http://www.kottolaw.com
Twitter: @fukuikensaku
弁護士・日本大学芸術学部客員教授。骨董通り法律事務所代表パートナー。著書に「ネットの自由vs著作権」(光文社新書)、「著作権とは何か」「著作権の世紀」(ともに集英社新書)、「契約の教科書」(文春新書)ほか。最近の論考に「全メディアアーカイブを夢想する」など。