「ITで日本を元気に!」トライポッドワークス 佐々木社長

~仙台の自社も被災しながら支援活動を続ける


 東日本大震災から1年。関東でも余震や原発問題が続き、被災地では住宅や産業の問題をはじめとして“震災後”が続いている。

 トライポッドワークス株式会社は、セキュリティアプライアンスなどを開発し販売する仙台のベンチャー企業だ。代表取締役社長の佐々木賢一氏は、仙台のIT企業を紹介するFacebookページを開いており、自身も仙台で地震に遭う中、震災直後から各企業の元気な様子を伝えてきた。さらに、津波で町をさらわれた南三陸町に通って支援活動をするほか、「ITで日本を元気に!プロジェクト」も発足させた。

 佐々木氏と、ともに活動する北村 彰氏にお話を聞いた。北村 彰氏は、ベンチャー投資や支援活動を行っている特定非営利活動法人Japan Venture Research(JVR)代表理事で株式会社サンブリッジ取締役を務める。なお、お二人への取材は2011年8月に行なったため、活動状況など、内容は当時の状況にもとづくものであることをお断りしておく。(以下本文中、敬称略)

トライポッドワークス株式会社 代表取締役社長 佐々木賢一氏JVR代表理事 北村 彰氏。株式会社サンブリッジをはじめ数社の役員を務める傍ら、JVRの代表理事に就任、ベンチャー企業に関する資本政策情報のデータベース化を推進する


地震とは思えなかった

―― 佐々木さんは毎週末、南三陸で活動されているというお話ですね

佐々木:平日は仙台と東京を往復しながら仕事をして週末は南三陸という生活を、4カ月ぐらい続けています。

北村:休みなしですね。

佐々木:気分も切りかわりますし、南三陸も週に1度ですから、無理なく長く続けたいと。体だけは丈夫なので(笑)

―― 北村さんはサポートということでしょうか

北村:私は東京で、調達の担当のようなことを分担しています。企業にお願いをして回り、IT機材や衣類など生活物資の提供をお願いします。交渉が成立して実際に提供が可能になりますと、各地域ごとの数量割当てとその調整、各企業の物流センターからトラックの手配、ルートと日程の調整、現地で受入れる場所、人の確保など、調整とロジスティックの作業が大変で、現地に到着するまで手が抜けません。これらの作業は、企業側との調整ということもあり週末ではなく平日に行っていますので、週末も現地に行って活動をされている人たちのほうがより大変だと思います。

佐々木:われわれ仙台組は、現地に足繁く通って、現地の方々との人脈作りと情報収集、それと東京からの支援のハブ役になったりしてます。

 全国や世界の支援を集めるには、東京のリソースが重要です。北村さんは深い人脈をお持ちですし、今回の活動にも時間を割いて実動していただいているので、心強いですね。

―― コンサルタントのような立場ではないんですね

佐々木:そうではなく、普通に活動していただいています。今回のようなときには、評論家のようなことを言っていても物事が進みませんから。大災害はイレギュラーなことの連続で、知見を持っている人って、ほとんどいませんよね。ですから、実際に現地を感じて、そこにいる人たちと触れあって、そのうえですべきことを考えて行動する人でないと、なかなか難しいですね。

―― 佐々木さんは震災の日は仙台に?

佐々木:そうです。本来、週後半は東京にいることが多いんですが、たまたま3月10日に地元のベンチャーキャピタルへのプレゼンがあって、3月11日は仙台にいたんですね。それで、自席に座っていたときに、地震が来ました。

 もう、地震とは思えなかった。隕石が落ちたとか地球的破壊が起き始めたんじゃないかというぐらいに思いました。しかも、何波にも分かれて何度も激しく揺れて、時間も長かったので渦中にいると永遠に続くんじゃないかと感じたくらいです。生まれて初めて死を覚悟しました。

地震発生時、社員が撮影していたトライポッドワークス社内の動画(震度6強でのオフィスビル7Fの様子)

―― 交通や水道などは

佐々木:もちろん、何も動いていなくて。電気も水道も、ガスも全部止まりました。

 電気は、うちの会社のある仙台の市街地は、12日の午後にはつきました。周囲の住宅地は3日後ぐらいですね。ちょっと郊外になると1週間。海のほうは3か月ぐらい停電しましたから。

 水道は2週間ぐらい止まりました。だから、マンションでも、給水車から水をポリタンクに入れて、10階なり20階まで歩いてという感じでしたね。

 あと困ったのが、ガスが1か月以上、仙台市街でも麻痺してたんですよ。料理もできない、風呂にも入れないで。寒かったですしね。

北村:けっこう市内でも避難所がありましたね

佐々木:私も、家が壊れたわけではないんですが、家の中がぐちゃぐちゃになって。小さい子供が3人いて、ここでは寝泊まりできないということで、11日と12日は避難所にいました。

地震の後、トライポッドワークス(仙台市)のオフィス震災直後の佐々木氏の自宅

北村:やはり仙台市街の知り合いが、1カ月ぐらい避難所にいて、TVも電話もないので、津波の被害を1週間後に知って驚いたと言ってました。

佐々木:私も震災直後、津波が来たのはワンセグ携帯でわかったんですよ。その後もTwitterなどで情報はフォローしていましたが、これ程までの大きな被害があったと言うのは、次の日の新聞で知りました。東京の人たちのほうがTVを見てよく知ってましたね。地元はほんと、情報が少ないのと、目の前のことでいっぱいなのとで。原発のこともよく知らなかったし、それどころじゃなかった。

―― 食べ物は

佐々木:食べ物の調達には苦労しましたよ。仙台市内でも、3月中は苦労してたかな。東北全体が陸の孤島になって、物流が寸断されて、何も入ってこなかったんですよね。

 交通の寸断もあったんですけど、それ以上に、倉庫や工場が被災して、一部のパーツが供給できなくなると商品が作れない、というのは、日本のサプライチェーンって大災害に対しては非常に脆弱だなと思いました。たとえば、ペットボトルのキャップがなくなって飲料水を作れないとか、タマゴはあるんだけどタマゴのパックがないとか。全国チェーンのスーパーやコンビニはパックに入れないと売らないので、必然的に足りない状態になりましたね。

 それで、最初の2~3週間にすごく助けられたのが、ふだん行ってなかった地元の商店や、朝市でしたね。電気がなくても手渡しでお金をやりとりできますし。

震災1週間後の仙台駅前の朝市の様子


翌週には期日を守って納品、周囲のIT企業の元気な姿を発信

―― 震災を受けてトライポッドワークスの活動は

佐々木:まず当日は、オフィスにいた全員がいったん近所の小学校に避難しました。そこで、スマートフォンで、仙台や東京なども含めて、約20人全員の安否を、メールやTwitterで確認しました。そこで一安心しましたね。

 もともと2005年に設立したときから、ロケーションに縛られずに働く会社を作りたいという考えだったんですね。それが、日本の地方都市で事業をやっていけるモデルなんじゃないかと。そのため、全員にスマートフォンやiPadを配り、それでコミュニケーションするというのは震災前からいつもやっていたんです。

 安否がわかったあと、ワンセグで情報を見て、「ほかの地方の取引先などは、きっとトライポッドワークスが物理的に潰れていると思っているだろう」と思ったんですね。そこで、情報を発信しなくちゃと思って、札幌にいる技術者にTwitterで連絡して、ウェブサイトを更新してもらいました。

 発信した情報は3点です。地震にあって営業は停止します、従業員は全員無事です、月曜日から営業を再開します、と。その更新までやって、あとは全員帰しました。

―― あの状況で月曜から営業開始するって、目算はあったんでしょうか

佐々木:本震はおさまっていましたし、直後にはあれだけのインフラの寸断などの影響を想像していなかったものですから。いまにしてみると、軽く考えてたなと。

―― 事業としては、3月末納期のものとかあるわけですよね

佐々木:ありました。アプライアンス機器が、その日だけでも18社からバックオーダーがあり、年度末までに150社ぐらいのオーダーを予測していたんです。われわれベンチャーは、ブランドも信用も強くないので、地震とはいえ納期を守れないと、いままで築き上げてきたものがすべて崩れ落ちるんじゃないかという気持ちで。

 月曜日には地下鉄も一部動いたので、来られる4~5人だけ来てもらって。片付けをしてもらいながら、私は物流の情報を収集しました。すると、調べれば調べるほどまずい。電話は5回に1回ぐらい通じる状況になっていましたが、宅配便の事務所に電話をかけても出ないし、ウェブも更新されていない。だから、宅配便はあきらめました。鉄道もだめというのがわかっていましたので、どうしようかと。

 ちょうど、アプライアンスのハードを供給してくれるパートナー会社が山形にあって、困ってるだろうなと思って電話したみたんですね。そうしたら、新潟の宅配便が動いているのでいまから持っていくという話なんですよ。だったらいっしょに積んでいってくれと頼んで、アプライアンスを50台ぐらい車に載せて、社員に行ってもらったんです。翌日にはまた60台を車に積んで新潟に直接運び、その110台を水曜日に東京にすべて発送できました。

3月14日(月)に社員の自家用車で製品を運び出す様子

 その間に受発注業務を仙台から東京に移して、水曜日からは完全に東京で受発注をできるようにしました。製品も、仙台を経由せずに東京に送ってもらうようにして。一日も納期を遅らせずに守れたんですよ。

―― それは、取引先もびっくりですよね。

佐々木:そうそう、仙台の会社は動いてるとは思ってなかったのに、しっかり期日通り納品されて(笑)。結果として、3月には予測より多く、193社に納品できました。

 私がたまたま仙台にいて、会社としては幸いだったと思います。たぶん、私が東京にいたら、山形や新潟に行かせなかったと思うんです。東京にいたらもっとひどい状況を想像して、リスクを回避する方向になったじゃないかと。逆に、いくらなんでも2~3日で宅配便も送れるようになるだろうと楽観したかもしれない。それで納期を守れなくて会社としての損害が大きくなっていたと思うんです。でも、仙台にいて、物流は1週間は回復しないだろうと思ったし、リスクを取ってなんとかやろうという決断になった。

―― 運命の分かれ目でしたね。

佐々木:すごい分かれ目でした。一方、これから会社を続けていくうえで、私がそこにいなくても誰かがリーダーシップを発揮するような自律的に動く組織にしなくちゃいけないなと、痛感しました。

―― Facebookで仙台のIT企業の様子をご報告されていましたね。

佐々木:水曜の時点で、会社はなんとかなりそうだと目処がついて。業務はほとんど東京に移しちゃったので、仙台はやることがなくなってきたんです。

 なので、水曜日に全員を集めて、明日からは午前か午後のシフト制にして、1日の半分は家や地域のために使いなさいと。あと出勤しても業務はあまりないので、仙台の街中のIT企業を回りなさいと。というのも、自分の会社について思ったように、きっとほかの地域からは仙台のIT企業は壊滅状態になって、事業継続どころじゃないと思われているだろうと考えたんです。

 そこで、写真で市内のIT企業を回って、無事な様子を写真つきでFacebookページにどんどん載せていったんです。1か月で約11万アクセスあって、応援メッセージもたくさん来て、仙台のIT企業がどうなっているかのポータルサイトとして機能できたんじゃないかなと思います。

その当時のブログ
d.hatena.ne.jp/tripodworks-ceo/20110325
Facebook「仙台のIT企業ファンページ」
www.facebook.com/sendai.it


南三陸でショックを受けて毎週支援に向かう

―― 南三陸での活動は、いつ始められたんですか。

佐々木:私は地震の次の週から毎週末、津波の来た地域の記録を取ってブログに載せようと、被災地に通っていたんですよ。仙台からずっと週ごとに北上して。

その当時のブログ
d.hatena.ne.jp/tripodworks-ceo/201103


震災1週間後の多賀城市の幹線道路の動画震災2週間後の仙台市若林区荒浜地区の動画


震災3週間後の東松島市野蒜地区の動画震災1カ月後の女川町

 そうして4月になって、南三陸に入ったら、異質な感じなんですね。他の地域も沿岸部は大変状況なのは間違いないんですが、各市町村の中に一部でも町が残ってる。ところが南三陸は、町がことごとく流されてしまって。ちょうど夕方に行ったんですが、町中も避難所もまっ暗だったんですね。それを見て、ショックを受けて。それから、毎週支援に行くようになって現在に至ってます。

震災1カ月後の南三陸町

 最初、仙台で何人かに声をかけて、食糧や衣料品などの必需品を持っていきました。何回か行っているうちに、今度は何が必要かわかってくるので、それを調達して持っていくように。

北村:佐々木さんたちの回っているところは、いっぱい物資も届く大規模な避難所じゃなくて、町内の公民館とかお寺とかに緊急で集まっているようなところなんですね。

―― そういうところが困っているとわかったから回ったのでしょうか

佐々木:結果としてわかったんです。最初はとにかく、手あたりしだい走って、避難所を探しながら回っていたんですね。避難所のマップや一覧も、その当時はないですから。

 通っていると、だんだんそれぞれの場所でリーダーになっている人たちと知り合いになるわけですよ。人のつながりがだんだんできて、なおさら気持ちが入って、いっしょに復興しようという気になってきた、と。

 ボランティア精神だけじゃなくて、これから復興していく中で、企業人としての役割も考えてたんですね。たとえば、泥かきをするなら私より学生さんのほうが戦力になる。でも、私はITのノウハウもあるし、IT関係の仲間もいる。その関係で何かできるんじゃないかと考え始めたんです。

 もうひとつ考えたのは、もともと三陸沿岸は少子高齢化が進んでいて、市町村が全部財政赤字になっていて、若者は外に出ていって、これからどうする、という状況だったんですね。なので、復興するときに、元に戻るべきところは戻るとして、違うものを作っていくべきところも多いはずなんです。

 そこに、おそらく北村さんも同じように感じてると思うんですけど、起業するのと同じようなモチベーションが、途中から湧いてきたんですね。我々起業人もこれまで培って来たノウハウや知恵、所属する組織のリソースをうまく活用して、地元の方々と連携して復興に関わって行けるのではないかと。そのためか、北村さんをはじめ、経営者の人たちが私たちの活動に参加してくれています。

その当時のブログ
d.hatena.ne.jp/tripodworks-ceo/201106

―― 北村さんが参加された経緯は

北村:佐々木さんが言ったことに重なりますが、私も震災後にできることを考えている中で、ITの会社を作って復興などを支援できないかと考えていたんですね。そこで、JVRが持っている日本のベンチャー企業5000社のデータベースから、仙台で一番元気な会社を調べたら、佐々木さんの会社が出てきました。

 さっそく連絡したら、「まず1回、現地を見なさい」と言われて、5月の連休に行かせてもらった。そしたら、IT支援という以前の問題、電気も水道も何もなく、みなさん暮らしに困っている。ではまず生活支援からということになる。私自身は年齢的なこともあって、毎週通うのは厳しい。そこで調達役を買って出ました。

 そうした中で、南三陸町でがんばっている30代ぐらいの人や、南三陸出身の同じ年齢の人たちが集まって、活気のある町づくりをする、南三陸リニューアルプロジェクトというグループが、現地にできました。集まって話しながら、まず生活支援から始まり、電気が通じていく中でIT支援ということで、私が東京で調達したPCなどを佐々木さんチームが現場に届けていろいろセッティングしています。

―― PCはどういうところに届けているのでしょうか

佐々木:ノートPCを流されてしまった個人や、事業を再開する会社、あとは漁協や町役場などですね。

 それに加えての部分ですけど、今回、震災直後や物資のことでも、自分の生死を分けるのは情報だという実感をみなさん持った。そこで、若者を中心に、TwitterやFacebookを始める人が増えていて、即席のFacebook教室、スマートフォン教室などもやっています。

避難所での即席スマートフォン講座避難所でのネットワーク及びPCのセッティング

北村:そういう意味で、PCを集めて提供しようというのは、事業復興のひとつです。これからは多くの住民の人たちにPCを使ってもらい新しい生活基準と文化を築いていただけたらと思います。

 それと調達担当として、当初は甘く考えていて、大企業を回って話をすれば、PCも何十台か出してくれるだろうと。でも実際に行ってみると、景気のせいもあると思うんですが、あまり協力的ではない。すでに震災直後に企業として義援金を出しているので自分たちの役目は終わっている、と多くの企業から言われます。本当はこれからなのですが。

佐々木:あの状況は、言葉ではうまく説明できないんですよね。たとえば、光景はTVでみんな見ている。TVとは全然違うんだと言っても、違いがわかってもらえない。それは行ってみないとわからない。すごくギャップを感じますね。

 伝わらないことが逆にわかるのが、協力をしてくれるユニクロやオリックスなどに現地を見てもらうときですね。われわれの活動は、物だけ、お金だけじゃなくて、「参加しましょう」なんですよ。そこで一度いっしょに行ってもらうと、状況がわかってリピートしてくれる。やはり、一度行くというのが重要なんだな、と思っているところです。

「ユニクロは2万着もの衣類を継続的にデリバリーしてくれた」(佐々木氏)

北村:そこは佐々木さんが力を入れているところですね。何もしなくてもいいから、まず行って、見て、話を聞いてくださいと。そして、その生々しい状況や感じた事を東京に戻って皆に伝えてほしいと。

佐々木:通っていると、人脈ができたわけです。自分でも覚えきれなくて、図で整理してるんですけど、震災前はこの中の一人も知らなかったんですよ。だけど、それぞれの地域でリーダーになっていく人たちになっていくんだろうなと。そこで、ITなり、ほかの専門分野なりが必要になったときに、私がその技術やノウハウを持った人を連れていって、つなげられるんじゃないかと。

 そういうハブ役になれないかなと思って、人脈作りも目的のひとつになっています。毎週、車3台ぐらいで行くときに、席が空いていれば東京や仙台の人を乗せていっています。のべ200人ぐらいは乗せて行きましたけど、この人たちがつながってきていることに意味があるんじゃないかという気がしています。

北村:このプロジェクトは地域の人たちを中心とした集まりなので、どうやって町づくり村づくりをするか議論になる。悩みの話もあるんですけど、積極的な話も出てくる。ここをなんとかしていきたいですよね。地元でそれを担っていく世代をどうやって作っていくかというのもひとつの課題ですね。

佐々木:仕事を作るしかないですよね、結論は。

―― 「ITで日本を元気に!プロジェクト」としてのイメージは

佐々木:まずいまはITのインフラや道具立てを提供しつつ、どう使ってもらうかというところに力を入れていますが、ゆくゆくはそれぞれの事業の中で、情報やITのリテラシーを上げて、前と違うことをやってもらう、ということなのかと思います。

 そこで全部が成功するというのはありえない。漁業や農業、地域ならではの産業でITを活用して成功したというような例が1個でもできれば、それが地方のロールモデルになって、ほかにも転用されていく。そういう例が出てくるといいなあと思っています。


仮設住宅でのニーズヒアリングの様子

北村:徳島県に株式会社いろどりっていう、山で葉っぱを採って料亭に卸している会社があって。平均年齢80才ぐらいの人たちが年商2億を上げている。

佐々木:そういうのが三陸地域でできてくれば、ほかの地域や分野でも転用して、ビジネスモデルができてくるんじゃないかなあと。そういうモデルの立ち上げにいっしょに携われたら、いいと思うんですよね。

―― あくまで当事者は現地の人と

佐々木:支援するされると言うより、この震災復興は日本全体の話だと思うんですね。それぞれの地域や立場での役割分担はありますが。いっしょにやっていかないとならない課題だと思うんです。そこで必要なのは、小さいながらもモデルができることで、それをどうやってスケールさせるか、どうやって経済的合理性を生んで継続させるかということ。そのノウハウは企業人が持っている。
一方、復興に向けたニーズは地元の人が持っていて、それらを繋ぐロケーションにいるのが仙台の人たちなのかなと。そこで、いま人々が交流しているのが重要なんだと思います。

北村:いま佐々木さんがいっぱいいろいろな人を呼び込んで、三陸地域と東京の距離が縮まっている状況ですよね。

――今後の活動はどんな形になっていくのでしょうか。

佐々木:とにかく、企業人として復興に関われる活動を継続して行きたいですね。我々の活動の主要メンバーは50人ほどですが、IT企業の経営者、CSRやマーケティングの責任者、IT系メディアの責任者が多く、普段忙しい人たちばかりなので、復興に割ける時間は休日だけです。ですから、短期集中型のプロジェクトの実施は難しいと思っています。

 逆に、経済活動を長く継続させるノウハウはかなり持っている集団なので、少なくとも5年、おそらく10年くらい継続して活動していけるんじゃないかと思っています。

 これまでは復旧フェーズで、ある意味やるべきことが決まっていたと思うのですが、これから復興期に入ると現地のニーズも多様化するでしょうし、解決に非常に時間の掛かる複雑な問題の割合が大きくなって行くんじゃないかと思っています。

 そのような状況の中、企業と言う組織、企業人としての個人として何ができるのか、継続して考え、行動して行きたいと思っていますし、現地の方々とうまく役割分担をして復興に参加して行きたいと考えています。

「ITで日本を元気に!」主要メンバーでの南三陸合宿

 また、今回の震災では直後の安否確認、物資の供給のフェーズから今に至るコミュニティの分断など様々な課題の中で、常に原因となっていたのは「情報」の滞りだと感じています。

 ですから、ITに携わるプロフェッショナルの集団として、都市部以外での「情報の収集」「情報の蓄積/分析」「情報の発信」をどのようにして行けば良いのかと言うこと、その際のIT利活用の可能性と限界について、大いに考える必要があると思っています。

 そのことが、次なる大災害への対処になるでしょうし、もっと言うと、災害が起きなくても少子高齢化が進む地域に、何らかの役に立つかもしれない。さらに言えば、地方が活性化してこれからの日本が元気になっていくヒントが隠されているかもしれない。

 このような問題意識を持ちながら、継続して活動することを第一義に考え、無理なく活動し続けていきたいと考えています。

「ITで日本を元気に!」活動紹介動画



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(高橋 正和)

2012/4/27 06:00