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誰もが起業できる世界を〜もしも実藤裕史社長(前編)


株式会社もしもの代表取締役社長 実藤裕史氏。1979年生まれという若さと温厚な印象からは想像できない、ドラマチックで浮き沈みの多い経歴を持つ

 童顔で穏やかな第一印象からは想像できない、ドラマチックで浮き沈みの多い人生。それが、もしも代表取締役社長 実藤裕史氏だ。もしもは、ドロップシッピングでは最大手の「もしもドロップシッピング」を運営する会社だ。取り扱い商品は4万点、会員数は28万人を超える。

 ドロップシッピングとは、在庫を持たないWebショップの形態を指す。Webショップは、商品を並べて受注をするが、商品の発送や在庫管理はメーカーなどが直接行う。「もしもドロップシッピング」は取引商品から決済方法、顧客サポートまでを一貫して提供する、ドロップシッピングのプラットフォームサービスを提供している。

 このため、「もしもドロップシッピング」の利用者は、商品を選び、いくらで販売するかを決めるだけで、自分のサイト経由で1つ商品が売れるたびに販売マージンが入ってくる仕組みだ。

 ドロップシッピングはアフィリエイトと比較されることが多いが、一般にアフィリエイト報酬は商品販売価格の1〜3%と低率であるのに比べ、販売マージン収入であるために、アフィリエイトよりもずっと高い収入を得ることができるのが特徴だ。その代わりに、ブログ運営のついでにアフィリエイトリンクをはるよりも、商品の選択や並べ方に工夫が必要となる。

 まだ若い実藤氏が、なぜドロップシッピングのビジネスで起業することになったのか。起業するまでと、今後目指すものを実藤氏に聞く。

いつか起業したかった幼少時代

 集団行動が苦手な、脱走癖がある子供でした。小学校高学年の時は、学級崩壊の先頭に立っていました。授業を抜け出して、みんなが見ている前で校舎の壁にペンキでキン肉マンの絵を描いたこともあります。僕の影響でみんなも授業を抜け出すようになり、隣の学校に喧嘩を売りに行ったりもしました。少年ジャンプの「ろくでなしBLUES」の影響を受けていたのです。

 そんな僕が大好きだったのが、小学5年生の時に読んだ「うわさのズッコケ三人組」。ハチベエ、ハカセ、モーちゃんが、堤防で釣り客等に弁当やジュースを売る話です。最初は自分たちのお小遣いで弁当やジュースを仕入れていたものの、規模が大きくなってくると、友達に出資してもらって株式を発行し株式会社を作ります。

 特に、インスタントラーメンにおいしくなる工夫をして、150円で売っていたものを300円で売って収益を上げる話が気に入っていました。工夫ひとつで起業ができる。思えば、これが僕の原点なのだと思います。商売に興味を持った僕は、皿洗いや掃除などの手伝いの料金表を作って母に渡し、お小遣いを稼いでいました。

努力と挫折の中学時代

 中学入学早々、校則違反の制服を着た僕は、体育教師に容赦なく蹴りを入れられていました。粋がっていても無力な自分を感じ、「変わりたい」と思いました。スポーツができないことがコンプレックスだった僕は、体育教師が顧問をしている強豪のバレーボール部に入ることにしました。

 毎朝5時起きで朝練し、放課後も最後まで残り、掃除をしてから帰宅。土日は練習試合で休みなし。中学の3年間はバレーボール一色でした。ところが、結局レギュラーにはなれなかったのです。チームは県大会2位までいったものの、3年最後の大会ではベンチ入りすらできませんでした。

 中3の秋、運動会の1500メートル走で8位になりました。バレーボールの練習で持久力がついていたためでしょう。足が遅かった僕にとってはかなりの好成績でした。足の速いメンバーが集められ、学校代表の駅伝チームが作られました。バレーボールが不完全燃焼に終わった僕は、今度こそやる気でした。僕たちのチームは市大会を勝ち上がり、県大会に出場することになりました。

 チームはスタートから絶好調。第4走者の僕は、2位でたすきを受け取りました。ところが、緊張しすぎて軽い脱水症状を起こし、ようやく中継地点に着いた時には8人に抜かれていました。おかげで、チームは10位に後退。僕のタイムは、練習時より1分以上も遅いものでした。

 結局、チームは僕のせいで8位に終わりました。僕ひとりが大ブレーキとなってしまったんです。またダメだった。頑張っても僕はダメなままだ――。

陸上、成績オール1、そして死にかけた事件

毎朝10km走り込むなど、部活一色の生活をするうち落ちこぼれに。高校2年の時に、交通事故で生死をさまようほどの重症を負う。まるでドラマのようだが、実藤氏が淡々と話すのを聞いていると、すごい事態だという感じがそれほどしないのが不思議だ

 高校に入学してからは、陸上一筋でした。中学時代の雪辱を晴らしてインターハイへ行く。その思いだけで、毎朝10km走り込み、午後練をし、プロの陸上選手の食事を調べ同じものを作って食べていました。

 部活のみの生活をするうち、学業はあっという間に落ちこぼれました。朝練が終わると家に戻り、昼間はゲーム。夕方、部活の時間になるとまた学校に向かいます。僕は、すっかり登校拒否生徒になっていたのです。当然成績は最悪で、オール1だったこともあります。

 高校2年生になると、練習が休みの時は自主トレとして自転車や水泳をやるようになりました。そんなある夏の暑い日、自転車でトレーニングに出た僕は、時速100km/hで走ってきた乗用車に跳ねとばされていました。

 気がつくと、ベッドの上。右肩、右足が折れ、頭が割れて血がだらだら出ていました。運良く一命は取り留めたものの、手術の時に傷口から細菌が入り、40度の高熱を出しました。1カ月間、生死の境をさまよい続けました。

 奇跡的に回復したものの、医師の見立てでは3カ月の入院が必要。もともと授業はさぼりがちだったので、3カ月の入院は「留年」を意味していました。先生も友達も、僕を「留年確定」として扱いました。天の邪鬼な僕は、それが悔しくてすごい勢いで勉強を始めました。結果、学年1位の成績を取り、何とか留年を免れたのです。

 医者からは「もう歩けないかもしれない」と言われていました。しかし、奇跡的な回復とリハビリにより、3カ月後に松葉杖で歩けるようになり、4カ月後くらいからは普通に歩けるようになりました。

 その後練習を再開し、3年の最後の大会には出場までこぎ着けました。ところが結果は30位。やはり、満足する結果は得られなかったのです。

受験と初めての成功体験

一橋大学に合格した時は、まったく知らない教師にまで声をかけられたほど。劣等生が合格するとは誰も思っていなかったという

 11月30日に大会が終わった後、やることがなくなった僕は、受験を考え始めました。交通事故で入院していた時、病室で「経営学入門」という本を読んだことがありました。いろいろな大学教授の論文を集めた本で、一橋大学の教授の論文が多く収録されていました。小学校の時から、自分で商売をしたいと思っていた僕は、「ビジネスを学ぶなら、一橋大学がいいかもしれない」と思ったのです。

 ところが、劣等生だった僕がセンター試験を受けると言っても誰も信じてくれません。センター試験には、国語・英語・数学・理科・社会が必要です。国語はフィーリングだ。英語は、小学生の頃近所のイギリス人と話していたので英会話ができるからいい。数学は何とかなるかもしれないし、あとは社会と理科だ。

 そう考えた僕は、毎日15時間くらいただひたすら社会と理科の暗記を繰り返しました。センター試験の結果は、800点満点中664点で、D判定でした。

 一橋の二次試験は、国語・英語・数学・社会。国語はフィーリング。社会は世界史を選択したもののまったくわからないので諦めて、数学と英語に絞って勉強することにしました。数学は一問一問考えて解いていき、英語は単語力がないので単語帳を購入し、1日100個ずつ覚えていきました。

 朝7時に起きて勉強を開始し、夜は深夜1時まで勉強を続けました。その甲斐あって、無事に一橋大学に合格したのです。自分でも信じられませんでした。それまで落ちこぼれ経験しかなかった僕の、初めての成功体験でした。

エアコンクリーニングバイトと留年

 大学生の僕は、漠然と起業を夢見ていました。けれど、いざ起業と言っても何をすればいいのかわからない。それなら、いろいろな仕事を知っていた方が起業に役立つのではないか。そう思った僕は、週7日バイトすることにしました。家庭教師、塾講師、空調整備、道路工事、引越作業、コンビニ、スーパーなど、何でもやりました。

 長くやっていたのは、家庭教師と空調整備の仕事です。平日は授業終了後に家庭教師、土日は朝から空調整備の仕事をしていました。空調整備の仕事は、ビルやオフィスの大型空調機を分解、水洗いし、ペンキがはげていたら錆び止めを塗ります。

 残業になると、給料を多く支払わなければならないので怒られます。そこで、ご飯を食べている間も仕事をしていました。作業の段取りは大雑把にしか決まっていず、班長の段取りによって仕事の進み具合がまったく違いました。ここで、リーダーの役割と社会の仕組みを学びました。

 大学1年の夏に、「無人島研究会」というサークルの無人島探検がありました。別の大学の人たち中心のサークルだったため、島に行く時期がテストとかぶってしまったのです。迷ったのですが、「こんな島に行けるのは一生に1回だ」と考え、無人島に行くことにしました。島は楽しみましたが、結局単位は全て落としてしまい、1年生にして留年が決定してしまいました。

オイシックスとの出会い

インターン募集で働くことになったオイシックスでは、朝から晩まで働いても給料は雀の涙。しかし、「高島社長は本当にすごい人で、学生の間では“ゴッド”と呼ばれていたほど。高島社長の話を聞けるだけでもいいと思った」

 3年生の時、有機野菜宅配サービス「Oisix(オイシックス)」との出会いがありました。インターン募集に惹かれて行くと、高島宏平社長が「アメリカではネットで革命が起きている。産業革命に近い。優秀な学生は起業している。君たちみたいな優秀な人たちはやるべきだ」と言うのです。

 「起業を体感できるチャンスだ」と考えた僕は、ここで働くことを決めました。高島社長は本当にすごい人で、学生の間では「ゴッド」と呼ばれるほど、神懸かり的な働きをしていました。

 オイシックスでは、それこそ朝から朝まで働きました。体力の限界にきた人たちがそのへんにごろごろ寝ているんです(笑)。お客様から注文がきたら、僕たち学生バイトが畑まで行ってもいで発送するのです。ばりばりのネットビジネスをやるつもりで入ったのに、やっていることは野菜もぎです(笑)。おまけに、朝から晩まで働いても給料は雀の涙ほどしかもらえませんでした。

 周囲には「騙されているのではないか」と言われましたが、僕はそうは思いませんでした。ネットビジネスを作る過程をもっと見たかったし、「高島社長の話が聞けるだけでもいい」と思っていたのです。結局、40人集まった学生のうち、残ったのは10人だけでした。しかし、残った10人の中にはその後起業した人が多いですね。

 高島社長はいつも、「これからは学校に行っても無駄。うちで働く方が役に立つ」と言っていました。「大学に入った意味がないじゃないか」と思ったのですが、同意する学生たちは次々と大学を辞めていきました。僕も、その後は1回しか授業に出ていないですし、結局中退しています。

諦めなければ道は開ける

 それまでパソコンにも触れたことがなかった僕でしたが、Webサイトを作る仕事が次々と回ってくるようになりました。否応なしにこなしていくことで短期間に知識がつき、自分でWebページが作れるようになっていたのです。

 ある時、夜中に注文を眺めていたら、僕がさっき登録した野菜を、愛知県在住の主婦の方が注文してくれました。本当にお客様とリアルタイムでつながっているんだ――と実感した瞬間です。僕は感動していました。それまではあまりぴんとこなかったのですが、初めてネットの向こうの顧客と"つながっている感"を持ったのです。

 当初、オイシックスの売り上げは非常に少ないものでした。開始から1年たっても売上の伸びは非常に遅く、本当にビジネスが立ち上がるのだろうかと思っていましたが、次第に売上は上がっていきました。「諦めなければ道は拓けるんだ」と感じました。

質屋のブランドショップ立ち上げ

 当時、オイシックスからもらえる給料は非常に少なかったので、学生は他のバイトもかけもちでやっていました。それで始めたのが、質屋のバイトです。

 半年に一度の、質屋のバーゲンセールイベントでした。友達の紹介で手伝いに行ったところ、お客がルイ・ヴィトンのバッグを取り合っている。わずか2日で1千万の売上げがありました。オイシックスの現状を思い返して、唖然としました。

 これをネットで売ればもっと売れるのではないか。そう思った僕は、ネット上にブランドショップを作ることを社長に申し出ました。社長もすぐに乗ってきて、質屋のネット事業部を任されました。オフィスも借り、気合いの入ったスタートでした。

 しばらくはオイシックスと掛け持ちでした。オイシックスは夜が忙しいので、夕方から朝までオイシックスで働き、中央線で仮眠を取って、昼間にはブランドショップに行くという生活です。家にはまったく帰らず、移動の間だけが睡眠時間でした。やがて質屋の仕事が忙しくなり、オイシックスは離れることになりました。

苦労続きのブランドショップ経営

 サイトを作ってみて、自分がネットのことを何もわかっていなかったことに気がつきました。サーバーの借り方も知らないし注文フォームの作り方もわからない。当時は低価格レンタルサーバ―でショッピングカートを簡単に設置できるようなサービスはまだなかったんです。

 仕方なく、メールで注文してもらうことにしました。当初は失敗だらけで、メールをチェックし忘れて、お客様からのメールに2週間も気づかずに怒られたこともあります。頑張ったものの、1カ月目の注文はたったの2件と惨憺たるものでした。

 これではまずい。考えた僕は、ロレックスプレゼントキャンペーンをはり、懸賞サイトに載せてみました。半信半疑でしたが、いざ蓋を開けるとメールが止まらないくらいやってきて、最終的には応募は2万件に上りました。ネットはすごい。僕は感激していました。

 この人たちにものを売れないか。そう考えた僕は、クリスマスシーズンにティファニーフェアのメルマガを作って配信しました。これが面白いように売れて、月の売上が約300万円に上りました。稼いだお金で、バイトを2人雇ったほどでした。

 Web部門を独立採算制で続け、1年半後には、月の売上が2千万円を超えるようになっていました。「このままいけばオイシックスも抜けるのでは」と思うくらいでした。最終的に、バイトは10人になっていました。

 調子に乗った僕は、このまま東京中の質屋の品をネットで売ろうと、質屋協同組合の会合に出て直談判をしました。ところが、会を仕切っていたえらい人の逆鱗に触れてしまい、「なんだこの若造が。もう顔を出すな」と言われてしまったのです。

 社長も、「うちの店のことだけやっていろ」と言う。これ以上大きくすることはできない。そう考えた僕は、ブランドショップを辞めることにしました。

(明日の後編につづく)


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2009/8/24 11:00


取材・執筆:高橋 暁子
小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三 笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っ ている。
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