ところで、常用漢字表の改定を審議する漢字小委員会や文化庁の人々は、「情報化時代の文字」についてどのように考えているのだろう? まさかとは思うが、「読めるだけでいい漢字」(第1部第3回参照)を常用漢字表に追加すれば「情報化時代」に対応したことになると思っているのだろうか。あるいは、Webや電子掲示板の漢字使用頻度(第1部第2回参照)を調査しただけで、「情報化時代の文字」の実態がつかめると思っているのだろうか。
ここまで5回にわたり、漢字小委員会がどのように常用漢字表を改定しようとしているのか、具体的な審議経過をたどりながらお伝えしてきた。そこで明らかになったように、改定の理由は「情報化時代」の到来――パソコンや携帯電話等の爆発的ともいえる普及により、人々の間で「文字を書く」ことがキーボード等で「文字を打つ」ことへと変わってきたというような、書記環境の激変に対応しようとするものだった。
では、文字コード規格はこうした常用漢字表の改定によってどんな影響を受けるのだろう? パソコンや携帯電話等で使われる文字とは、文字コード規格の文字だ。つまり「情報化時代」の文字とは、一面で符号化文字(coded character)にほかならない。そこでの影響を考えることは、常用漢字表の改定の本質を問うことにつながるはずだ。同時に漢字小委員会でまだ十分に審議されていない、ある問題点を浮き上がらせることになるだろう。第2部としてこの問題を取り上げる。
● 安岡孝一氏の語る「常用漢字表の拡大はJIS漢字にどういう混乱をもたらすか」
5月17日、東京都下の日本大学文理学部キャンパスにおいて、日本語学会(旧国語学会)の2008年度春季大会が開催された。その幕開けを飾るシンポジウム「漢字文化と日本語の未来」は、今回の常用漢字表の改定もあって、内外の注目を集めることとなった[*1]。とにかくパネリストの顔ぶれが豪華だ。
漢字小委員会で副主査を務める林史典氏(聖徳大学)、JIS X 0213の2004年改正を審議した新JCS委員会の池田証壽氏(北海道大学)、同じく安岡孝一氏(京都大学)、かつてJIS X 0208の1983年改正を審議する原案作成委員会の委員長を務め、現在は日本語学会会長でもある野村雅昭氏(早稲田大学)。そして司会は漢字小委員会と新JCS委員会の両方に名を連ねる笹原宏之氏(早稲田大学)。
最初にパネリストがそれぞれ自説を述べる時間が割り当てられたが、中でも安岡氏の「常用漢字表の拡大はJIS漢字にどういう混乱をもたらすか」は、刺激的なタイトルときわめて具体的な問題提起により、参加者に強い印象を残すことになった。ここでは安岡氏の発表を紹介することで、文字コード規格への影響を考える糸口としよう。
以下、安岡氏の語り口をなるべく再現してお伝えするが、この日許された発表時間は各15分と短く、聴衆にも深い工学系の知識を期待できないこともあってか、いくぶん説明不足の点があった。そこで氏の了解を得て、この2カ月ほど前の3月21日に開催された「東洋学へのコンピュータ利用/第19回研究セミナー」における同趣旨の発表、「神と神、榊と榊」(「神」の2字目は示偏の「示申」、「榊」2字目も同様に「木示申」)を参照しながら補うことにしよう[*2]。またシンポジウムが開催されたのは、第1次字種候補素案が発表された5月12日の第21回漢字小委員会から5日後というタイミングだった。このため、現時点での審議状況からは若干ずれている部分もあることをお含みおきいただきたい。
● 「新常用漢字表に追加されるとJISが困る字体」とは?
第1次字種候補素案(以下、素案)には「箸」という表外漢字が入っている[*3]。よく見るとそこにあるのは点のある「箸」だが(図1上段右)、これがもし新常用漢字表に入ったらどうなるか? すごく変である。なぜ変かと言えば、現行の常用漢字表では「者」が点のない字体(図1下段左)で収録されており、これと不整合になるからだ。では点なしの「箸」が収録されればよいかというと、それはJIS漢字屋である自分が困ることになる。
なぜ困るか。それは点のある「箸」と点のない「箸」、そしてすでに規格に収録されている点のある「者」と点のない「者」との整合性が問題になるからだ。これを説明するために、以下にこれらの字体についての常用漢字表と人名用漢字[*4]、そしてJIS漢字による三つどもえの漢字政策がどうなっているかを見ていきたい。
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図1 点のない「箸」と点のある「箸」、および点のない「者」と点のある「者」
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● 「者」と「箸」における漢字政策の歴史
まず1946年に当用漢字表が内閣告示されるが、ここでは点のある「者」が採用されていた。その後、1949年に当用漢字字体表が内閣告示されるが、ここでは「者」の中の点をとった字体が採用された。ところがこの時ややこしい問題が起きる。1949年当時、すでに人名用漢字が運用されていたのだが、法務省は点のある「者」とない「者」のどちらを子の名に使ってよいのかと聞かれて、両方使ってよいと答えたのだ。これが不幸の始まりである。
1978年にJIS漢字(JIS X 0208)の最初のバージョンができるが、この時は点なしの「者」を28区52点、点ありの「箸」を40区04点に例示していた。これはあくまで例示であり、規格票に従えば実際のフォント等の製品には点のある方、ない方、どちらを使ってもよいことになっている(包摂)。
そうこうしているうちに1981年に常用漢字表ができる。そこでは当用漢字字体表と同じく点のない「者」が採用されていたが、カッコで括ってその後ろに点のある「者」が掲載されている。とはいえカッコの中は常用漢字表そのものではないから気にしなくてよいと思っていたら、法務省がここで妙なことを言い出す。常用漢字表のカッコの中の字も人名用漢字として許容する、つまり常用漢字表の制定に伴い当用漢字表が廃止されたにも関わらず、子の名には点のある「者」も、ない「者」も両方使ってよいという従来の立場を貫いたのだ。
1983年にJIS漢字の最初の改正があるが、この時「者」はそのままだったが、どういう具合か「箸」の中の点も取ってしまう(ここで場内に笑いが起こり、野村氏が苦笑い)。しかし取ったからと言ってどうということもなく、この時は単に取りましたというだけ。もともと「箸」は常用漢字でもなんでもないから、そういう意味ではどうでもよいということになる。
2000年になって従来のJIS漢字(JIS X 0208)を拡張するJIS X 0213が制定され、それまでの第1・第2水準に、第3・第4水準の漢字が追加された。この時はJIS X 0208の時から収録されていた点のない「者」に加え、第3水準として点のある「者」を新たに収録している(包摂分離)。それというのも子の名に使える字としてはすでに両方の「者」が運用されていたからだ。点のない方は1面28区52点、ある方を1面90区36点に収録してある。ただし「箸」の方は複数の字体が運用されていたわけではないので、JIS X 0208で収録されていたのと同じく、1面40区04点に点のない「箸」を例示したままである。
ところが、これに当時の国語審議会がイチャモンをつけてきた。2000年に表外漢字字体表というものを作り、「箸」という字は点があるべきだと言い、情報機器に使う漢字、すなわちJIS漢字も合わせてくださいと言う。仕方ないのでJISの方は2004年にJIS X 0213を改正し、「箸」の例示を点のあるものに変えた。ただし以前の「者」のように符号位置を2つに分けたわけではなく、(包摂したまま)例示字体を変えただけの対応だった。
同じ年、法務省も戸籍法施行規則を改正して人名用漢字が大量に追加された。この時、不幸なことに「箸」が追加されてしまった。子の名に「箸」を使うとはどんな人間だと思わないでもないのだが、法務省は国語審議会の顔を立てて「箸」は点のある方を人名用漢字にすることにした。
こうして子の名に使う漢字として、「者」は点のある方もない方も両方使えて、「箸」は点のある方だけ使える。つまり点のない「箸」は使えないという状況が生まれた。一方でJIS X 0213では「者」は点のあるなし両方の字体が使え、「箸」は点のあるものを例示し、使う際にはどちらか片方だけ使えるということになる。これが人名用漢字とJIS漢字の現状である。
● 困るのは点のない「箸」が常用漢字表に追加された場合
ではここで、点のない「箸」がもしも新常用漢字になったらどうなるかを考えたい。当然法務省としては点のある方もない方も、今後は両方認めますということになるだろう。というのは「者」がそうだからだ。竹冠の有無だけで対応が変わるのはどう考えても不整合だろう。
子の名に使う漢字に点のない「箸」が追加されるとJIS X 0213はどうなるか。点のある方の「箸」と点のない方の「箸」を、符号位置として分けなければならなくなる(包摂分離)。というのは「者」がそうだからだ。両方が運用されている実態があれば、JISはそれを反映せざるを得ない。では、分けるにはどうすればよいか?
幸いJIS X 0213にはまだ少しは空き領域が残っている。そこで空いている1面13区xx点に新しく点のない「箸」を割り当てる。そして現在点のある「箸」を例示している1面40区04点はそのまま。こうするとJIS X 0213の改正としては簡単だが、旧来のJIS X 0208との間で矛盾が起こる。JIS X 0208では40区04点に例示されているのは点のない「箸」なのだ。これではJIS X 0213がJIS X 0208の上位互換だとは言えなくなってしまう。しかもJIS X 0208の40区04点はJIS X 0221(=ISO/IEC 10646≒Unicode)の7BB8に対応しており、それはさらにJIS X 0213の1面40区04点にも対応している。その意味でも点のない「箸」を1面13区xx点に追加するのは、かなりまずいやり方だと言える。
ではJIS X 0213の1面40区04点の例示字体を点のない「箸」に戻し、かつ1面13区xx点に点のある「箸」を追加するやり方はどうだろう。このやり方は、将来的に見た場合はかなり良いやり方なのだが、現状を全く無視している。以前2004年の改正で例示字体を点のない「箸」から点のあるものに変更しているからだ。それを今さらまた点のない「箸」に戻すなど言語道断だろう。このように、どういう方法を使っても分離しようとすれば、何か問題が起こってしまう。
時間が多少オーバーしているので、ここでまとめてしまうと、常用漢字表に点のない「箸」を追加しないでほしい、そういう結論になる。では、追加してほしくないのは「箸」だけなのかというと、じつはここに挙げた漢字に同じ問題がある(写真1)。すでに人名用漢字の中に、表外漢字字体表と同じ字体で追加されていて、それに伴いJIS X 0213が例示字体を変更しているから、今さらそれとは違う字体で常用漢字表に追加しないでほしいということだ。
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写真1 常用漢字表に略字体で追加されると困る25字(当日のプレゼンテーション画面から)
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だいたいこの辺の字が危ないということがわかっているが、ではこれだけを追加しなければよいのか。自分が調べた限りでは他の字はだいたい大丈夫。この辺さえ追加しないでくれれば、常用漢字表がいくら追加してもJISは困らないよというのが現状だ。
● 国際規格との対応を考えると、問題はもっと悲惨
以上が安岡氏の発表だ。常用漢字表、人名用漢字、JIS漢字の三者が、言わば三すくみになっている現状がおわかりいただけたと思う。しかし問題はこれにとどまらない。おそらく安岡氏は話が複雑になりすぎると判断して省略したと思われるが、JIS X 0221(=ISO/IEC 10646≒Unicode)との対応を調べていくと、問題はもっと悲惨であることがわかる。「情報化時代」とは自分たちの都合で規範字体すら決められない時代でもあるようだ。あえてごり押ししようとすれば、ユーザーがそのツケを払うことになるだろう。次回からそのことを順を追って詳しく見ていきたい。
2008/07/24 14:44
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小形克宏(おがた かつひろ) 文字とコンピュータのフリーライター。本紙連載「文字の海、ビットの舟」で文字の世界に漕ぎ出してから早くも8年あまり。知るほどに「海」の広さ深さに打ちのめされています。文字ブログ「もじのなまえ」ときどき更新中。 |
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