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“情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」 |
第3部 印刷文字から符号化文字へ 第8回 字体意識と社会的コスト
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● 「書かれた字のとおり」にこだわる社会的コスト
前回は、『議員氏名の正確な表記』(以下、『正確な表記』)は、「書かれた字のとおり」に強く配慮するあまり、常用漢字表にある「書体の違い」や「デザインの違い」を逸脱してしまっていることを述べた。ただし、こうした字体意識は私たちの社会において特別なものではなく、相手に配慮しようとする態度に基づくことを指摘した。
とはいえ、あまりにも「書かれた字のとおり」に強くこだわれば社会的なコストが増大することに、私たちはそろそろ気付くべきだろう。すでに第2部第8回~第10回で見たように、従来の文字コード規格では包摂していた字体を区別し、微細な違いを持つ文字を使い分けられるようにする異体字シーケンスという技術がある。この技術は「書かれた字のとおり」にこだわる、私たちの社会の求めに応じようとするものと言える。しかしその開発コストは製品価格に転嫁される。異体字シーケンスの代金を支払うのは、そうした技術を求めた私たち自身なのだ。しかもそこで書いたように、異体字シーケンスは必ずしも万能とは言えない(第2部第10回参照)。
コストという意味でもっと影響が大きいのは、フォントの製造コストが増えることだろう。微細な形へのこだわりは、漢字の数を増やす。実際に『正確な表記』の40名の中だけでも、「そのものの形」にこだわれば9字が足りないのだった。第3回で図1(3)(4)として示したものを再掲する(図1)。忘れてはいけないのは、こうした違いを区別し始めれば際限がないことだ。「縦棒の信」を区別することで、「縦棒の言」も必要になり、さらに言偏の漢字すべてに縦棒を追加することになる。やがて「点の信」も欲しいとなり、これがまた言偏の漢字すべてに波及する。あっという間に言偏の漢字数が3倍に増える計算だ。全く同じことが草冠にも言える。そしてそうしたコストを負担するのは、消費者である私たち自身なのだ。
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図1 『議員氏名の正確な表記』にある字をMac OS Xの上から分類したもののうち、既製のフォントで表現できず作字が必要なもの
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あるいは、こうしたこだわりが混乱を招く場合もある。第2部第9回で見たように、Windows VistaやMac OS Xバージョン10.5では、JIS X 0213の2004年改正に基づくために、それ以前のバージョンからフォントデザインを変更した。これは2004年改正により、包摂の範囲内で例示字体を変更されたためだった。もしもそこで混乱が起こるとすれば、それは文字コード規格が「同じ字として区別しない」として設定した包摂の範囲に合意できなかったからだと言える。つまり文字の形の「ゆれ」を認め、包摂の範囲に合意できていれば、起こりようのない「混乱」だ。現在はまだWindows VistaやMac OS Xバージョン10.5など、2004年改正に基づく新しい日本語環境は広く普及していると言えない。その意味で「混乱」が起きるかどうか、現時点ではっきりしたことは言えない。しかし、「書かれた字のとおり」に強くこだわれば、それは必ず起きるのである。
また、情報機器で普通に使えない文字を本人が強く主張すれば、そうした機器で名前を表記すること自体が不可能になる。これは手書きの時代には考えられなかったことだ。鉛活字、写植の時代でも無い文字を主張されれば表記できないのは現代と同じだが、あの時代は使用者が専門業者だったため、鉛活字では自前で木活字を彫ったり、写植の場合は文字を切り貼りするなどして対策ができた。しかし「情報化時代」においては、文字の使用者は一般消費者だ。機器に実装されていない文字はまずお手上げだし、その文字が使えないのは同じ機器を使用する人全員となる。こうして、この一見どうでもよい微細な違いにこだわることによる影響が、より大きくなってきている状況がある。
● 人名表記の位相文字と社会的地位の関係
そして、こうした人名異体字を主張をする人の社会的地位が、高いほど影響は大きくなることに注意したい。一例を挙げると、町村議員は前述した「縦棒の信」を主張している。ただしその主張はトップページに掲げられたビットマップ画像による文字にとどめられ(図2)、他のページでは符号化済みの「信」を使っている。つまり現実的で抑制的な主張と言える。
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図2 『町村信孝オフィシャルホームページ』[*1]。作字したと思われる「縦棒の信」の使用はトップページに限定され、他では符号化済みの「信」を使う。抑制的な使い方だ
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しかし、前回見たように人名異体字は本人が名乗りとして使うより、周囲が待遇表現として使う際に影響が増幅される。そしてその大きさは本人の社会的地位に比例する。周囲の人々は本人の主張どおりにしなければ失礼になると感じ、本人が思っている以上に反応してしまう。町村議員の例で言えば、たとえ本人は抑制的な主張にとどめていても、周囲が先回りして過剰に配慮をしかねない。
町村議員の場合は、まだ本人が「縦棒の信」を主張しているからよい。前回見たように伊藤議員、井上議員の場合は、たまたま「縦棒の信」を手書きしたにすぎない可能性がある。本人のWebページでは「縦棒の信」がないからだ。そうであった場合、本人が特に主張しているわけでもない字を、周囲が苦労して外字を製作したりすることが起こり得る。しかし、いくら努力しても符号化されていない外字は情報交換ができない[*2]。情報交換できない文字に振り回される社会的なコストは、誰が負担するのだろうか。
● 印刷文字から符号化文字への変化
現代の活字とはデジタルフォントのことだから、うっかりすると「情報化時代」の文字とはデジタルフォントのことと考えてしまう。しかしそれは画面表示にとらわれた誤解にすぎない。第2部で見てきたとおり、情報機器で使われる文字の本質はフォントなのではなく、フォントの背後に「符号」が貼り付いている点にある。すなわち「情報化時代」では印刷文字から符号化文字に、文字が変質したのである。
では符号化文字に変質した結果、微細な違いにこだわることが、どのような影響を与えるというのだろう。符号化文字の特徴はインターネット等で情報交換することにより、違う文字の形に変わり得るところにある。例えば菅議員の「直」を含んだデータをWindows Vistaで作成し、それをMac OS Xへメールで送れば文字の形が変わってしまう。Windows Vista搭載のMS明朝は「直」の第二画が真っすぐだが、Mac OS X搭載のヒラギノ明朝は斜めだからだ。以下に第3回図1(4)として示したものを再掲する(図3)。
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図3 『議員氏名の正確な表記』にある字をMac OS Xの上から分類したもののうち、フォントの種類によっては表現可能なもの(3名/1字)
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かつて常用漢字表が制定された時代の文字は紙に印刷された印刷文字だったから、文字の形は変わりようがなかった。しかし符号化文字は包摂の範囲内で変化し得る。もちろん変わるといっても「直」第二画の傾斜や「信」の縦棒/横棒の違いなど、普段は気にすることもない微細な違いにすぎない。だからこそ符号化文字は「同じ字」として区別しないことにしている。ところが、それをわざわざ区別しようとするのが「書かれた字のとおり」に強くこだわる字体意識なのである。符号化文字は「情報化時代」の基盤だ。こうした字体意識は、符号化文字の考え方そのものを否定していることに注意してほしい。これが過度に広がれば、やがて情報機器の使用自体を難しくするだろう。
以上「書かれた字のとおり」に強くこだわる字体意識の不利益を検討した。しかし、いくらデメリットがあるといっても、相手の気分を害さないよう配慮する気持ちまで変えられるのだろうか。たとえ「情報化時代」を迎えても、そうした感情は変えようがないし、変えてはいけないはずだ。ただ「書かれた字のとおり」にこだわる意識や習慣を批判するだけでは何も解決しないのである。ではどうすればよいのか?
その答えのためには、もう少し『正確な表記』について分析を進める必要がある。この中には「書かれた字のとおり」と正反対に、自分の名前を仮名書きをしている議員がいた(第4回)。これをどう考えるべきなのか。次回をどうかお楽しみに。
関連情報
■URL
“情報化時代”に追いつけるか? 審議が進む「新常用漢字表(仮)」 連載バックナンバー一覧
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/jouyou_backnumber/
2008/11/13 11:27
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小形克宏(おがた かつひろ) 文字とコンピュータのフリーライター。本紙連載「文字の海、ビットの舟」で文字の世界に漕ぎ出してから早くも8年あまり。知るほどに「海」の広さ深さに打ちのめされています。文字ブログ「もじのなまえ」ときどき更新中。 |
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