【連載】

社会学の理論で斬る「ネットの不思議」

第12回:インターネットは人を幸せにするのか(下)

【編集部から】
すでに日常生活の一部として切り離せなくなった感のあるインターネット。パブリックとプライベートを併せ持つ領域で、「ネットカルチャー」と呼ばれる現象がたち現れてきました。これらの現象に対して、新進の社会学者が社会システム理論などを駆使し、鋭く切り込みます。

インターネットで見えるもの

  先日、父と会ったときにこんな話を聞いた。夫婦で旅行するのに、初めてインターネットで宿を検索して予約した時のことだ。ホームページを通じて宿とのやりとりをしたそうだが、両親をいたく歓迎してくれたのだという。ネットがなければ「出会うはずのなかった」宿の人と両親との繋がりは、やはり「人と人」との関係であることに違いはない。「楽天トラベル」などのサイトを見ていても、家族で経営しているペンションのようなところほど、そのアットホームさについ微笑みがこぼれる。

 その父が私にずっと言っていたことがある。「インターネットで何もかもが検索できるようになって便利になったと人はよく言うのだけれども、それは世界の全てではない」と。パリを旅行する観光客にとって、ミシュランに載っていないレストランがあたかも存在しないように思えるのと同じ意味で、我々はネット上で探せない物事を、存在しないものであるかのように勘違いしてしまう。

 ネットは仮想の世界にすぎず、現実の下位カテゴリーであるという考え方、またはネットにはそれまでと全く異なる新しい世界と可能性が広がっているという考え方、そのどちらにも与しないために、私はこの連載を通じて一つのキーワードを繰り返し用いてきた。ネットは「人と人」との関係であるというテーゼだ。

 今回はもう一度この点について、これまでの連載を振り返りながら考えてみたい。そうすることによって、今後読者の皆さんがネットの現象を考えていく一つの指針を示すことができればいいと思っている。

ネットはただのツールなのか

 ネットが「人と人」との関係であるということは、よく言われるような「ネットはただのツールであり、現実の世界を映す鏡にすぎない」ということとは少し違う。「人と人」との関係は、間に「ネット」が挟まることでそれまでとは違う繋がり方をするかもしれないし、時にそれが新奇なものに映るかもしれない。どちらの場合でも、その現象は「人と人」との相互作用(お互いに働きかけあうこと)が引き起こしたものだ。

 例えば第一回(「他愛もないメール」の不思議)では、「電子メール」という要素が顔見知りの相手との繋がり方を少し変えることで、その相手との関係の調整に用いられるのではないかと述べた。第二回(「ネカマ」の不思議)で取り上げた「ネカマ」では、誰でもが性別を偽れるネットの特性ではなく、ネカマの登場を後押しする男女関係の方に問題があるのだと述べた。両者ともにネット固有の現象を、そのままインターネットというメディアの特性に帰責させず、それを用いる「人と人」との関係がどのように築かれているかに着目点がある。

 私がなぜ執拗なまでに、ネット現象の背後にある「人と人」の関係にこだわるのかといえば、そうしない限り、数多く散見される「ネット現象を読み解くのに役に立たない考え方」に対するオルタナティブが提示できないからだ。第五回(「悪趣味ゲーム」の不思議)で取り上げたように、ネットを通じてある犯罪や、逸脱的な振る舞いが起こった時に、それを「その人がたまたま異常な人間だったから」とか「名前を明かさないまま振る舞えるインターネットの特性に問題がある」と考えるだけでは、「何が彼にそうさせたのか」を社会的な観点から明らかにできず、その結果、再発防止などの観点に生かしていくことができなくなる。

 その上、第四回(「ネットオークション」の不思議)でも取り上げたように、ネットにおいて安全に振る舞うことができるようにと、人々が個人情報を進んで提供するという事態も起き始めている。このような社会学的「逆説」は、ネットをただそれだけとして素朴に理解していると、知らないうちに問題の深刻化に協力してしまうということにもなるのだ。

 だからこそインターネットを「ただのツール」とも、「何かわからないけど凄いもの」とも、単純に理解すべきではない。ネットを使う人たちが、どのような関係を築こうとしているのか、それこそが重要なのだ。

ネットは人を変えるのか

 それだけの話なら、わざわざネットという話をしなくてもいいではないか、と思われるかもしれない。だが、この連載では「ネットは人と人との関係の反映だ」という話以外にも、ネット時代に登場した技術や事柄によって「人と人」との関係が変化する側面についても取り上げてきた。第三回(「ネット読書」の不思議)では「オンライン読書」というネット上のアーカイブ化された知識が共有されることによって、「自我」の作られ方が変わるかもしれないという話をした。第六回(「出会い系」の不思議1)、および第七回(「出会い系」の不思議2)で取り上げた「出会い系」は、ネットが人と人とを直接繋ぐという意味において、ネットがもたらす人間関係の変容というテーマの最たるものだろう。

 インターネットが人と人との出会いにもたらしたインパクトには計り知れないものがあると私は考えている。前回も述べたように、ネットによって我々は「出会うはずのなかった」人とも出会う機会を手に入れた。それは同時に、できあがるはずのなかった社会を築き上げる可能性を我々が手に入れたということでもある。

 例えば第八回(「個人サイト」の不思議1)、第九回(「個人サイト」の不思議2)で取り上げたように、独自の世界を築き上げる個人サイトやネットアイドルサイトはその一つの例だろう。昨日まで何ら他の人と変わることのない存在だった「私」をネットアイドルとして承認し、コミュニケートしてくれる人たちと出会うことが可能になる。そのことによって「私」は他の誰とも交換不可能な存在になる。このような変化は、ネットがなければあり得なかったかもしれない。

 インターネットはそれまでに存在していた人間関係を反映するものであると同時に、まったくあり得なかった関係をも可能にする。しかしその関係は、いつもよいものであるとは限らない。では我々は、これまでには考えられなかった関係の可能性を前に、どのような社会を築いていくべきなのだろうか。

ネットで何を繋げるのか

  そのことについて言及したのが第十回(「2ちゃんねる」の社会)だ。ここではネット最大のコミュニティである「2ちゃんねる」を題材に、ネット上で匿名の関係を媒介にして築き上げられる中間集団が、社会学的にどのような意味を持つのかという話をした。オンラインであろうとオフラインであろうと、人と人とが集まり、何らかの相互行為を行なう場は、それが「現にある」という意味で「公的領域」として保全されるべき性格を有している。少なくとも、そこに集まる人間が互いに不利益を被りたくないと考えるならば、だ。

 なぜ社会学にとってこのような中間集団が重要なのか。それは、社会学のそもそもの起こりと関係がある。社会学が登場する以前の社会は「啓蒙的理性」の時代と呼ばれていた。ルネサンスを通じて「人間」の価値を再発見したヨーロッパ人は、科学や理性の発達によって迷妄の時代を逃れることができれば、この社会も人間ももっと素晴らしいものになるのだと素朴に信じていた。しかしながらこのような考えは、フランス革命を期に頓挫することになる。人の良い、ごく普通な八百屋の親父だったはずの人間が、「貴族を殺せ!」と叫んで年端もいかぬ子供までギロチンにかけたのだ。

 資本主義の進展の中で、「労働」が人間から疎遠なものになっていくことを発見したマルクス、宗教的エートス(生活様式、心的態度、倫理的態度)が資本の蓄財を招来し、資本主義の発展に寄与するという逆説を唱えたウェーバー、「自殺」が単なる個人的出来事ではなく、社会的な出来事なのだと見抜いたデュルケム。この三人に共通するのは、「人はなぜそのような振る舞いをしたのか」という問題の背後に「何が人にそのようにさせるのか」という社会的な動機付けを読み解いていく姿勢である。その「何か」が社会であり、人と人とが集まって相互行為を行なう場なのである。

 オンライン上で人と人とが出会い、繋がり、コミュニケーションをしていく。その規模が拡大していく時、それは個人にとって重要な意味を持つ「ネットコミュニティ」として捉えられるようになる。ネット上の現象を社会学的に考えていくことのニーズは、おそらくこれからも高まっていくだろう。

ネットは人を幸せにするのか

 では、社会学的に見て、インターネットは今後、我々をどのような場所に導いていくと考えられるだろうか。そしてその場所は我々にとって、本当に望ましいものになっていくのだろうか?

 この連載でも、ネット社会の将来について何度か言及はしたものの、私の感想ではやはりまだ、壮大な実験の入り口にいるにすぎないという気がしている。同時に、だからこそネットの将来は、ネットの持つ独自の特性だけでなく、そこでどのような関係が築かれるのかに注目しなければならないのだと思う。

 それは単純に言えば「インターネットは人を幸せにするか」ということだ。啓蒙的理性や科学が、それだけでは失敗に終わるのと同じように、「ネットという技術に依存すれば人が幸せになる」と考えるのは間違っている。技術としてのネットが進歩すればいいという考え方や、それを使う人が良くなりさえすればいいという考え方も、この連載を読まれてきた方には不十分な考え方であることがお分かりいただけたのではないだろうか。

 インターネットが人を幸せにするかどうかはわからない。しかし、我々は確実に、インターネットを用いて幸せになることができるようになった。それが今後も続くように、考えられなければならないことはまだまだたくさんある。

■お薦めの一冊
C.W.ミルズ 『社会学的想像力』(紀伊國屋書店)
→社会学的想像力とは「情報を駆使し理性を発展させることによって、かれら自身の内部や世界におこることがらを、明晰に総括できる精神の資質」のことだ。この本が書かれた時代状況などはさておいても、やはり社会学の名著であることにかわりはない。

◎執筆者について
 鈴木"charlie"謙介。大学院で社会学を研究する傍ら「宮台真司オフィシャルサイト」の作成・管理なども手がける。この連載を通じてメールを頂いた方に、多忙のため返信できないことのお詫び代わりに、コラムのサイトを作りました。→こちらへ。

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(2001/8/7)

[Reported by 鈴木"charlie"謙介]

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