時代に合った新しい映画を出していきたい
アスミック・エース エンタテインメント 豊島雅郎社長


アスミック エース エンタテインメント豊島雅郎(てしま・まさお)社長。同社受付で10月31日封切の映画「わたし出すわ」で小雪さん演じるヒロイン、山吹摩耶の等身大パネルと並んで

 突然、昔の友達に夢や希望を叶えるための費用を差し出されたら、あなたは受け取るだろうか。東京から故郷に戻ってきた主人公・摩耶は、高校時代の友人と再会し、友たちの欲しい“もの”や“こと”、かつての“夢”や“希望”に大金を差し出す――。

 小雪の単独初主演作品であり、森田芳光監督の「(ハル)」以来13年ぶりのオリジナル作品である映画「わたし出すわ」が10月31日、全国で封切となる。

 「わたし出すわ」のモチーフは、「お金」の使い方。本来ツールであるはずの「お金」が目的となってしまいそうな、リーマンショック以後の不況に見舞われた世相を予見して製作されたかのような作品だ。製作したのは、映画配給会社のアスミック エース エンタテインメント。

 アスミック エース エンタテイメントは映画製作のほか、海外映画の買い付けや版権管理、DVDソフトやゲームソフト販売などエンタテイメントにターゲットした事業を展開している。

 10月31日全国公開の「わたし出すわ」と同じく森田芳光監督による「間宮兄弟」を自社制作しているほか、「真夜中の弥次さん喜多さん」「西の魔女が死んだ」「天然コケッコー」などの話題の映画を次々と配給しているので、映画好きならすでにおなじみだろう。同社代表取締役社長 豊島雅郎(てしま・まさお)氏に、新しいビジネスの波や新作映画、目指すものまでを聞いた。

スポーツ好きだった子供時代

 昭和38年生まれ、千葉県は松戸市出身です。音楽とスポーツが好きで、小中高と野球やサッカーに夢中になっていました。大規模UR賃貸住宅である常盤平団地に住んでいたのですが、ニューファミリーが一斉に入ってきて子供を産んだので、とにかく子供が多いところでした。中学など、1クラス45人で14クラスあり、学校全体で2000人もいたくらいです。

 人数が多いので、必然的にスポーツも強い。サッカー部に入ったのですが、朝4時半に行って校庭30週とかしなければなりません。あまりにつらくて、「これはあかんな」と思って一月半で辞めました(笑)。次は朝練がないところに行こうと、柔道部に移りました。高校の頃は、地元の人たち中心でサッカーチームを作り、おじさんたちに混じってリーグ戦に参加していました。

ミュージシャンになりたかった高校・大学時代

大学2年の時に軽音楽サークルの部長になった。100人規模のサークルで、当時のあだ名は「社長」。名画座でヌーベル・ヴァーグ映画などをひんぱんに観るようになったのもこの頃からだ

 友達の兄姉がビートルズのリアルタイム世代なので、自然と自分も聴くようになっていました。同時に、吉田拓郎などのフォークも聴いていました。中学高校と、ギターを買ってコピーバンドもやりました。バンドには女性も参加しており、男女関係なくつるんでいましたね。

 こう言うといろいろなことをやっているようですが、スポーツを始めたり音楽を始めたりというのは、自分の趣味というより「女性にもてたい」が原動力になっているんですよね(笑)。でも、現実には奥手で妄想して終わるタイプなんです(笑)

 高校の後半から大学頃は、オリジナル曲を演奏していました。大学1年までは、本気でプロになりたかったんですよ。録音して聴いているうちは悪くなかったんです。ところが、大学2年に、家庭用のビデオを持っている先輩にビデオを借りて演奏の様子を撮影したことがあります。冷静に画面で見てみたら、ビジュアル的に「プロは無理だな」と(笑)

 プロにはなれないと思ってから、大学2年の後半に、軽音楽サークルの部長になりました。100人規模のサークルだったので、大規模な方ですよね。サークルで仕切っている印象が強かったのか、大学の時から「社長」というあだ名だったんですよ。今は本当に社長になったわけですが(笑)

 浪人の時から大学4年まで新宿のフランス料理店でバイトをしていました。バイト仲間はほとんど年上の大学生でしたね。日曜の晩くらいしか家に帰らず、友人の家や下宿に泊まっていました。悪いことはみんな彼らに教えてもらいましたね。

 当時はちょうどディスコが流行っている時で、鏡を見ながら並んで踊るんですよ。やはり当時流行ったノーパン喫茶にも「コーヒー500円」という看板につられて、「本当に見えるのかな!?」という好奇心半分とスケベ心半分で入ってみたんですが、真夏で暑いのでアイスコーヒーにしたら、「1500円になります」(笑)。貧乏学生には苦い経験でした。

 映画といえば、大学生の頃つきあっていた女性が仏文科の学生で、フランス文学者で映画評論家でもある蓮實重彦さんに教わっていたんですよ。蓮實先生は、フランス映画、中でもジャン=リュック・ゴダール監督などのヌーベル・ヴァーグなどを中心とした映画の講義をしていました。そこから、彼女に連れられて池袋の文芸座などの名画座に通っては、マニアックな映画を見るようになりましたね。

ニューメディアに関わりたい

 僕は、1986年4月にアスミックに入社しました。第一期生です。本当は、テレビ局や広告代理店、出版社などに入りたかったんですよね。大学は立教大だったのですが、4年間で30時間も授業に出なかったものの、なぜか卒業が決定。コネはなかったけれど、就職が良い時代でした。ただ、今でも大学を卒業できない夢を見るくらい成績は良くなかったので、有名どころは受かりませんでしたね。

 当時は、パソコンやCATV、VHSレコーダー、レーザーディスクなど、既存のマスメディアにとらわれない新しい媒体、いわゆる「ニューメディア」がもてはやされている時代でした。就活に行く時、たまたま電車の網棚にあった週刊ポストを拾ったところ、「新しくニューメディアのソフトを出す会社ができた」という記事が載っていた。それが、アスミックでした。

 アスミックはもともと、1985年にアスクと住友商事と講談社が共同出資して設立した会社で、それぞれの会社の頭文字をとってそういう社名になっています。当時のアスミックは、ニューメディアソフト、教育教材やレーザーディスク、ビデオ向けの映像ソフトと印刷物をパブリッシングする会社でした。特に映画を扱う会社というわけではなかったのですが、新しいもの好きだったのと、講談社の息のかかった会社なら検討してみるかと考えました。

 アスミックは当時設立1年目なので、アスクや住友商事から来た出向の人たちで会社を始めていました。そこに、6月か7月頃、「来年度の採用はありませんか」と出かけて行ったのが僕で、まさに入社第1号になったわけです。「7~8月にアスクグループが合同でグループ採用するからきて」と言われて出かけて行き、8月には内定をもらいました。

 ただ、当時は内定はいくつももらうのが普通で、内定がひとつ出て安心したものの、それで決定とまでは考えていなかったんです。

 その年、僕が4年の秋に、学生主導でセントポールズフェスティバルという学校公認ではない祭りをやることになったのです。僕がいた頃、立教大ではしばらく文化祭にあたる立教祭が中止になっていたんです。

 もちろんすでに就活時期だったのですが、僕も浮かれて参加していたんです。ある日、朝方まで後輩たちと飲んでいて、ヤクザにからまれたことがありました。通報されて警察が来る騒ぎになったんですよ。

 酔っていたので止めに入ったら、顔面を膝でやられて鼻血が止まらなくなってしまって。翌朝、顔中が内出血で真っ赤に腫れて盛り上がっていて、鼻骨にはヒビが入っていました。これが11月頭で、完治に丸1カ月かかりました。

 それで、僕の就活期間は終わってしまったわけです(笑)。それまでに内定をもらっていたのはアスミックだけだったので、自動的に入社が決まったんですよね。

入社、未公開映画の買い付け

「1980年代はとにかくソフトが必要な時代だった」。1987年から未公開ビデオのパブリッシングを始めた

 1980年代前半には、世の中にレンタルビデオ店ができ、一般家庭にビデオデッキが普及してきました。レンタルビデオは、新作では1本1000円以上と今から考えると割高な料金で貸し出しされていました。しかし、それでも「映画館に行かなくても家で見られるのはありがたい」と思われていた時代です。そんな状況なので、事業としてレンタルビデオのパブリッシングビジネスは儲かっていて、一時期は供給が追いつかないほどの状態でした。

 1980年代はとにかくソフトが必要な時代。そうした背景を受けて当時設立されたのが、たとえば、映画版権輸入商社のギャガです。日本コロムビア・徳間ジャパン、アポロン音楽工業などの演歌系に強いレコード会社が本業の音楽不振だったこともあり、未公開映画をビデオで発売していて、そこにギャガが供給していたのです。新規参入の会社であっても、家庭用ビデオをターゲットとしたレンタルビジネスで儲かっていた時代です。

 1987年1月、現特別顧問である椎名 保さんが住友商事から出向してきて、レンタルビデオ部門の部長に着任しました。5月には、椎名さんと僕と僕の1年後に入社した金田との3人で、未公開ビデオのパブリッシング業務を始めました。

 全国を回り、毎月30カ所くらいのビデオの問屋さんに未公開映画のビデオをセールスしていました。未公開映画にもっと力を入れてもよかったのですが、結局はやらなくてよかったですね。1980年代に儲かっていた会社は、1991年のバブル崩壊でマーケットが縮小した時に撤退してしまいました。うちはそこそこの儲けで終えていたので、次があったのだと思います。

 僕らはブームの中いちばん最後の列車に飛び乗ったので、比較的ブームの時であっても慎重で、付加価値がないと映画をレンタルビデオ店に買ってもらえないと考えはじめていました。やがて、未公開映画も選別されるようになり、ギャガも自ら劇場公開を始め、東宝や日本ビクターなど大手とつきあうようになっていました。

 ギャガは映像商社であり、輸入した映画の権利をビデオメーカーに売ります。しかし、僕らは自分たちで海外から直接仕入れて、パブリッシャーとして発売・販売業務を行っていましたが、1990年頃からビデオに付加価値をつけるために、劇場映画の配給を始めました。

(明日の後編につづく)


関連情報

2009/10/29 06:00


取材・執筆:高橋 暁子
小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三 笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っ ている。