福井弁護士のネット著作権ここがポイント

人工知能と著作権 ~増大するAIコンテンツを握るのは誰か?~

1.自動作曲してみた、いやさせてみた

 さて、前回のコラムでは人工知能の生み出すコンテンツ(AI創作)の激増ぶりと、果たしてそれに著作権が発生するのかを考えた。今年はこの話題で反響をいただくことが多く、あちこちでお話をする場面も増えた。当然、自分でもやりたくなってくる。

 そこで選んだのがこれ。嵯峨山茂樹明治大学(元東京大学)教授らが開発した自動作曲システムの雄「オルフェウス」だ。ちょうどCRIC(著作権情報センター)という団体で人工知能と著作権について講演することになったので、自動作曲を試してみた。オルフェウスはとても使いやすい。例えば自分で歌詞を書いて入力すると、すぐ自動で曲を付けてくれる。今回は、せっかくなので著作権をテーマに歌詞を書いてみた。人生初作詞である(たぶん)。

自動作曲システム「オルフェウス」

 こんな風にロック風とか校歌風といったテイストを選んだり、楽器編成など実に細かく指定できるのだが、今回はできるだけ人為は加えない前提で、ほぼデフォルトのまま作曲ボタンを押した。すると何と20秒でこんな立派な楽譜とMIDIデータが出力される。

 ここから自動演奏にも移行できるが、せっかくなので初音ミクの権利元、前回登場のクリプトン・フューチャー・メディア株式会社(札幌)にご相談したところ、なんと快く皆さんでミク音源を作成して下さった。やっぱり北の大地の方々はあったかいぜ純! 蛍!

 その結果がこちら。本邦ネットでは初公開の「CRIC★講演の歌。」だ(https://soundcloud.com/user-621674474/cric-copyright-song)。

CRIC★講演の歌。

作詞:福井健策
作曲:Orpheus
歌唱:初音ミク

コピライト コピライト コピライト それは 創作的な 表現に
コピライト コピライト コピライト それは 人間だけの 特権なのか
あゝ自動作曲の この変な曲は 果たして著作物と 言えるのだろうか
そんな講演を おこなうための これはテスト曲 ただのテスト曲

 これまでの講演では結構受けたが、いかがだろうか。自動作曲と知らなかったらこれを著作物と判断されますか? 歌詞ではなく、楽曲(メロディ)の部分について。聴衆に手を挙げていただくと、大半の方は著作物だろうと言って下さる。まあ、筆者もそんな気がする。歌詞の出来は「?」だとしても、著作物性においては出来の善し悪しは問われないしさ。

2.でもアップして良かったのか?

 筆者はあっさり曲を公開しているが、これはOKなのか? もしも自動作曲の曲に著作権があるなら、ネット公開は「複製」や「公衆送信(送信可能化)」を伴うから、無断ではできないのではないか。最近ネットはこういうことにうるさいのだ。

 まず、作詞は福井だから問題ない。では、メロディを飛ばして、ミクの歌唱部分はどうか。こうしたボカロの歌唱等が「実演」とみなされて著作隣接権が発生するかは、ひとつの論点だ。ただ、ミクの「エンドユーザー使用許諾契約」によれば、別途許諾事項等に該当しない限り合成音声の使用は自由とされているし(2条3項)、そもそも今回はクリプトンが快く了承して下さっているので、これも問題なさそうだ。

 ではいよいよ楽曲部分はどうか。前回書いた通り、こうしたAI創作物に著作権を認めるかは論点で、日本などは伝統的に否定的である。英国は、1988年の革新的な法改正で完全なるコンピューター創作を著作物と認め、その権利は「necessary arrangementを行った者」が持つとした(前回参照)。他の国でも著作権を認めるかは、自動生成コンテンツが激増してGoogleなどがその著作権を主張する中、これから間違いなく世界的な課題として再浮上するだろう。

 仮に英国法と同様のルールを前提とする場合、「CRIC★講演の歌。」の著作権を握るべき「必要なアレンジをした者」は、一体誰なのか。今回は筆者が歌詞を入力しており、恐らくそれにプログラムがある程度反応して楽曲が生み出されたのだろうから、筆者かもしれない。やった。夢の印税生活である。でも、公平に見て全体をお膳立てした存在はと言えば、作曲システムの開発・運営側だろう。今回でいえばオルフェウスである。

 では筆者による曲の公開は著作権侵害か? 大丈夫。同サービスは使用上の注意の中で、曲の著作権を主張しないと明言しており、動画サイトでの公開なども推奨されている(http://www.orpheus-music.org/v3/Orpheus-manual.php#disclaimer)。いずれにしても今回のアップは問題なさそうだ。

 でも、もしも開発・運営側が許可しなかったら、その膨大なコンテンツは誰も利用できないのか。激増するAI創作物に著作権を認めるか、ひいてはそれを誰が握るかは、情報社会の未来にとってはかなり重要な問題に思える。

3.知財制度の基本発想

 かつて「著作権の世紀」(集英社新書)という拙著で描いた、著作権をはじめ知的財産制度の基本的な原理はかなりシンプルだ。知的財産、つまり情報は有形財と違ってコピーが容易だしコピーしても減らない。それをあえて禁止して、つまり情報の独占を制度として認める。その結果、コピーしたい者は許可を取り対価を払うほかなくなる。それが初期投資のインセンティブにもなり、ひいては創造活動が活性化すると期待する。ただし、独占が制度的に強すぎると情報流通が阻害されて逆に新たな創造が萎縮する。だから独占させ過ぎないようベストバランスを探るのだ。知財制度の生命線は、この保護と利用の最適バランスという一点にある。

 例えば、著作権は作品の根底にある着想・アイデアには及ばない。著作権は、全世界で自動的に、かつ極めて長期間守られる強い権利なので、アイデア自体を著作権で独占させてしまうと弊害の方が大きいからだ。他方、そうしたアイデアを活用して生まれた個々の作品の表現は、著作権で保護する。表現の選択肢は多様で、基本的に無限にあり得るので、個別に独占させても弊害が比較的少ないと考えられるからだ。

4.変わる著作権制度の前提

 しかし、こうした著作権制度の前提は現在急速に変わりつつある。コピー(その配布や送受信を含む。以下同じ)を禁止して収益を確保するというなら、コピーが売れることが当然の前提になるはずだ。しかしコピーの売上は落ち続けている。多くの先進国に共通の特徴として、コンテンツ産業の売上は過去10年から15年の間、連続して縮小し続けているのだ。

 日本でいえば、音楽CDが10年で約3分の1に落ちたのを皮切りに、新聞や書籍・雑誌がこれに続く。ネット配信での売上増加は、こうした下落のごく一部を埋めているに過ぎない。つまり、コピーを売る分野が縮小しているのだ。他方、イベント系など、コピーに依存しない分野は全般に元気だ。ライブコンサートに至っては、過去15年間で3倍以上に市場拡大している(一般社団法人コンサートプロモーターズ協会「基礎調査推移表」より)。

 なぜ売上が落ちるのか。もちろん、世界的に蔓延するオンライン海賊版もその一因だろう。卑劣なり海賊版業者。対策は急務だ。しかし、より大きな原因は恐らく、世に溢れる適法/グレーなコンテンツである。

 かつてコンテンツは稀少だった。コピーの手段も限られており、印刷業者など一部の者に占有されていた。だから、無断コピーを法的に禁じて、いわゆる海賊版業者を抑え込めば、人々はコピーにお金を払ってくれた訳だ。いわば複製芸術時代のある時点まで、著作権制度(コピーライト)はこの「コピーを売るビジネス」を支えるインフラとして、絶大な効力を発揮した。

 ところが、今やコンテンツは稀少ではない。過剰なのだ。一億総クリエーター、一億総発信者の時代になって、新聞は購読しなくても無料のニュースサイトで読めるし、無料の動画サイトにも映像があふれている。YouTube上の動画は今や1分間あたり300時間ずつ増加を続け、1万8000人が手分けして24時間休まず視聴を続けても見切れないという。「情報はフリーになりたがる」の言葉通り、そうしたコンテンツの多くは無料・低廉で提供されるので、有料の既存コンテンツはどうしても価格圧力を受ける。その結果が、恐らくコピー依存産業の世界的な売上恒常低下なのだろう。「コピーライト」という制度の社会的な前提は、かなり揺さぶられているように見える。

5.表現の完全独占?

 こうしたコンテンツ過剰の時代に、AI創作は何をもたらすのだろうか。さらなる圧倒的なコンテンツ数だ。先ほどのオルフェウスが自動作曲に要した時間は1曲わずか20秒である。前回紹介したスペインの「IAMUS」は、(ちょっとアウトプットが違うようだが)もっと高速で自動作曲するとも言われている。

 ユーザー自身の履歴を活用したテーラーメード化も、さらに進む。理論上はいずれ何億・何百億、少なくとも「大半のユーザーの当面の需要を充たす」という意味ではすべてのパターンのコンテンツの完全供給も、可能になりそうだ。そうなれば個別のコンテンツの価格は限りなくゼロに近づき、クリエイター大量失業はやはり現実味があることになる。

 これは、AI創作に著作権を認めようが認めまいが、十分起こり得るシナリオだ。

 そこに著作権まで与えるとどうなるか。「ほとんどの潜在的な表現について誰かが独占権を持っている状態」を、知財制度は前提としていない。というか、それだけは避けなければならない事態である。そうした状況下では、後続するクリエイターはどんな作品を作っても、それこそ賢治レベルの機械の予測を超えた表現を生み出さない限り、すべて著作権侵害となりかねない。もちろん、事前に対象のAI創作物を見たことがなければ(=偶然の一致なら)免責されるとはいえ、そりゃ萎縮するだろう。表現活動を守るはずの著作権制度で、人々の表現活動が阻害されては本末転倒だ。

6.プラットフォーム寡占の懸念

 では、こうした激増するAIコンテンツを(もし著作物になるならその著作権もろとも)握るのは一体誰か? いくつか候補が挙がるが、最有力はメガプラットフォーム達だろう。現に、2014年にDeepMind Technologiesを推計5億ドルで買収したGoogleら米国系「ビッグ4」を筆頭に、世界のプラットフォーマー達は、相次いでAI研究への高額投資を発表している。

 なぜ彼らが有力候補か。例えば次のものを握っているからである(思いつくままに挙げるので、未整理な部分は愛のご寛容を。)

①まずは当然ながらアクセスだ。Googleはインターネットサイトの世界アクセス数で不動の第1位(Alexa調べ。子会社のYouTubeも第3位)であり、検索エンジンの世界シェアは驚異の90%にも達する(Statista調べ)。彼らを筆頭に、プラットフォーマー達はユーザーのアクセスと滞留時間を長期占有している。

②次いで、こうしたアクセス集中がもたらすビッグデータである。そもそもGoogle Booksにせよストリートビューにせよ、プラットフォーム自体が億単位のコンテンツを提供するのに加え、ユーザーがまた大量の投稿を行う。Flickr上の投稿画像は100億枚、Facebook上の写真は恐らく1000億枚以上だ(2010年時点で500億枚超と公表)。

Flickrで「お祭り」CCライセンス限定で検索した結果。高水準の写真が多数並ぶ

 さらには各自のつぶやき・会話、アクセス・検索・視聴・購買・移動履歴まで、ユーザーのアクセス・滞留時間とともに無限無数のビッグデータがプラットフォームには流れ込んで来る。こうしたビッグデータがマーケティングを極めて有利にすることは言うまでもなく、彼らが外部提供しても良いと判断した一部の加工済みデータは他の企業に売られてもいる。しかし最も強力な、個人と紐づいたパーソナルなコアデータは、(流出でもない限り)まず表には出て来ない。というより個人情報なので、出せない。つまり寡占されている。

③次いで、こうしたビッグデータを活用するアルゴリズムだ。ネット上の情報は膨大過ぎるので、我々はとても図書館よろしくひとつひとつのコンテンツを吟味して選ぶことはできない。そこでは、検索に基づくランキング表示や我々の行動履歴に基づくお勧め(レコメンド)が頼りとなる。このランキング/レコメンドの力は強く、人々がページをクリックする率が上位数点に集中することは周知だ。その焦点のアルゴリズムは、これまたブラックボックスだ。プラットフォームはそれを独自に決定する。決定は当然ながら営利目的によって動機づけられがちであり、そして基本的には外部公表されない。「公表したら最後、上位対策を取られてしまう」からだ。

 こうしたビッグデータとアルゴリズムを駆使して、プラットフォームは大量のコンテンツを生みだす。それを膨大なユーザーに、彼らに最もマッチした形でお勧めして享受させ、さらにフィードバックを集積する。つまり川上から川下までコンテンツの生成・流通・受容を寡占できそうなのがメガプラットフォームだ。これ自体がすでに十分重大な問題だが、AI創作物に著作権を認めれば、その膨大なコンテンツの法的独占権まで握らせることになりそうである。

7.そもそも著作権は必要か

 こんな具合で、AI創作物に著作権を認めなくても良いのではと論ずれば、それでは開発が停滞するという反論が返って来るかもしれない。いくら優れたシステムを開発しても、生成されるコンテンツに著作権がないとなれば他人が無断でコピー利用して良いことになる。それでは開発資金が回収できないから、開発が停滞するという懸念だ。

 そうだろうか。

 第一に、プラットフォーム上の情報を仮に無断の大量コピーから守りたいとした場合、果たして著作権が必要だろうか。多くのプラットフォームでは、(仮にそうしたいなら)コピーを止めるアーキテクチャーを採用しているだろうし、少なくともIDはないとコンテンツのコピーなどはできないようにしているだろう。IDを持つには利用規約に同意する必要があり、規約ではたいていコンテンツの商業利用や第三者提供は禁じられている。場合によってはコピーすべてを禁じているかもしれない。例えばGoogleの利用規約がそうだが、我々はまず、人生で一度は同社の利用規約に同意クリックしている。仮に規約の条件に反すれば? アカウントを削除されるだけだ。メガプラットフォームの場合、これは相当効く威嚇手段だろう。つまり、彼らは著作権よりもよほど実効性のあるコピー防止法を持っているように見える。

 第二に、それ以前に今や世界にはコンテンツがあふれている。何億点・何百億点のコンテンツがあれば、個々のコンテンツあたりの対価は限りなくゼロに近づくほかなかろう。そして、AI創作の主役となりそうなメガプラットフォームはすでにそこではさほど儲けていない。Amazonの世界的な売上は現在約10兆円だが、そのうち書籍での売上はもはや7%程度に過ぎないのだ(「Forbes」2014年2月10日付記事『Amazon Vs. Book Publishers, By The Numbers』)。肝心なのは、書籍であれ動画であれ会話そのものであれ、膨大なコンテンツの魅力で人々がアクセスし滞留することであり、ユーザーが自社のプラットフォーム上に「住んで」さえくれれば、ビッグデータを駆使していくらでも彼ら向けにターゲティング広告を打ち、魅力的なレコメンドで物やサービスを買わせることができる。たやすくコピーできる情報財よりずっと実入りが良い、お勧めの家電やレストランや学校や金融商品や医療サービスや(投票先の)政党を、である。
こう考えるとどうも、メリットが少なく、既存のクリエイターを萎縮させるだけに見えるAI創作物の著作権は認めないという従来の扱いで良いような気もする。

8.まとめ

 筆者は、上記の一点でAI創作の著作権には(現時点では)ネガティブだ。あまり「国境」にこだわり過ぎては危ないが、このAI創作を最も把握しそうなのは米系メガプラットフォームであり、著作権を与えなくても現在十分に覇権を握っていることも忘れてはならない。プラットフォーム寡占は、我々の社会が取り組まなければならない大きな問題であり、その対立軸に極めて自覚的なのはEUだが、この辺りはまた別の機会に。

福井 健策

HP:http://www.kottolaw.com
Twitter:@fukuikensaku
弁護士・日本大学芸術学部客員教授。骨董通り法律事務所代表パートナー。著書に「ネットの自由vs著作権」(光文社新書)、「著作権とは何か」「著作権の世紀」(ともに集英社新書)、「契約の教科書」(文春新書)ほか。最近の論考一覧は、上記HPのコラム欄を参照。