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独身男性でもママと育児を応援したい ~リトル・ママ社長 森光太郎氏(前編)
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福岡に、「リトル・ママ」という会社がある。同名の情報誌やサイト、イベントなどを通して、ママたちの育児支援をする会社だ。「リトル・ママ」という社名や、育児を応援するWeb連動のミニコミ誌という事業内容から女性経営者を想像するが、実は独身の若い男性が経営している。
当日は「取材の取材」ということでリトル・ママのママライターが駆けつけ、取材陣が逆取材を受けながらの取材となった。なぜ子どももいない未婚男性が育児支援メディアを始めたのか。目指すものは何か。同社代表取締役社長の森光太郎氏に話を聞いた。
● “医者の息子”からの挫折
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リトル・ママ社長 森光太郎氏。ママ向けの情報誌の会社の社長が、子どももいない若い独身男性というのはかなり意外だ
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生まれも育ちも福岡です。祖父も父も開業医という家に、跡継ぎとして生まれました。今思うと、いわゆる“いいとこの坊っちゃん”ですよね。ですから、物心ついたころから自然に将来は医者になるつもりでいました。それが当然で、それ以外の選択肢は考えもしなかったという感じですね。
小学3年生の頃には野球部に入り、キャッチャーをしていました。当時はぽっちゃりしていたので、体型でキャッチャーに決まってしまったのです(笑)。本当はピッチャーがしたかったのに、言えなかったんですよね。地元では頭が良い方だったので、小学生の頃は人生で一番モテていたかもしれません(笑)。バレンタインの時も、チョコレートをたくさんもらっていました。
頭が良い方だったと言いましたが、実は姉の方がずっと出来が良かったんです。小学校でお受験をしてすべて落ちてしまったのですが、姉は受かって名門校に進学しました。だからずっと、勉強に対するコンプレックスがありました。将来は医者になるつもりだったんですが、頑張っても良くて二番目で、いつも自分より上がいてどうしても勝てなかったのです。
中学も、入った頃こそ成績が良かったんですが、途中から真ん中くらいまで下がってしまって。しかたなく、塾に通い始めました。結局、県立で一番いい高校に入れたのですが、入ってからが苦労しました。もともと、そんな学力はないので、もう少し下のレベルの私立高校に行くつもりだったのです。「落ちてもいいや」という気持ちでリラックスして受験したら、今までで一番よくできて受かってしまったというわけです。
ところが、実力は嘘をつきません。周りについていけないので学校をサボるようになり、さらに成績は落ちて学年最下位にまでなりました。中学では野球部でピッチャーをしていたのですが、高校では野球部に入るも途中退部しました。次第にあまり学校にも行かなくなり、毎年進級会議に引っかかるようになってしまいました。
● 両親の離婚、母子家庭
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父に言われた一言がきっかけで、進路を変更。挫折であると同時に、子どもの時から当然と思っていた“将来は医者”という進路から解放された瞬間でもあった
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挫折は勉強の面でだけではありませんでした。小学6年生の頃母が家出をし、その後僕も姉と一緒に連れられて行ったのです。中学1年生の頃に両親の離婚調停が始まり、僕は姉と一緒に母方に引き取られました。離婚が成立したのは20歳の頃で、長かったですね。
それまでは医者の跡取り息子だったのが、いきなり母子家庭です。家庭が音を立てて崩れていくのを目の当たりにしていました。いざこざに巻き込まれて、流さなくていい涙もたくさん流しました。
高校はなんとか卒業し、いろいろな大学の医学部を受けたのですが、ことごとく落ちまくりました。それなりに勉強したのでそこそこ偏差値は上がったのですが、やはり落ち続けて2年間浪人をしました。そんな時に父から言われた一言は、「おまえが頑張って医者になったところで、大した医者にはなれん」ということ。それもそうです。僕には、テキストを1回見てすべてを覚えられるような頭はありません。当時僕は、医者というのは人の体を見て一瞬で病状がわからなければならない、と思い込んでいました。自分にはそんなことは無理だろうと考えたのです。
当時僕が考えていた医者のイメージでは、患者の命を救える医者と、気持ちをわかってあげられる医者とがいました。そして、名医というのは人の命を救う医者のことだと思っていたのです。僕は頑張ってもタイプとしては後者で、人の命を預かるのは無理だと感じました。
● 医者を諦め、東京へ
国立大も受かっていたのですが、医者になるのをやめるなら東京に行きたいと、東京の日大に進学することにしました。ところが、東京といっても僕が行くことになった日大の学部は津田沼にあって、実際来てみたらまったく都会ではなかったんですけど(笑)。
大学に入って、「医者にならなきゃ」という抑圧から解放されました。それまでの僕の将来像というのは医者しかなかったのが、一変したのです。抑圧から解放され、東京で一人暮らしですから、もうやりたい放題です。でも、僕には本当にやりたいことがなかった。何になろうということもない。逆に言うと何にでもなれた。
20年間ダメダメでしたが、大学にいたその後の数年間はもっとダメダメでしたね(笑)。野球だけはそこそこやっていて、大学でも軟式野球部と野球サークルに入っていましたが、後はナンパとコンパしかしませんでした(笑)。大学はたいして勉強しなくても卒業できるもので、卒業だけはできてしまいました。
● 就職氷河期の就職
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「ホスト営業でがんばったのですが(笑)、デザイナーは先生、営業である僕は使い走りなんですよね。どうせなら僕も先生と呼ばれる側に回りたいと思い始めた」という
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今も就職難と言われますが、僕の卒業当時もひどかった。山一證券が破綻した頃で、超氷河期でしたね。理系なのに「アパレルとかいいな」と適当に履歴書を書いて送ったのですが、全部落ちてしまって。
結局、ジュエリー会社に入ることになりました。地域のお金持ちのおばさまが来る展示会でジュエリーを売る仕事です。大学時代に学んだナンパとコンパのノウハウがフルに生かせました(笑)。「お手を貸していただいてもよろしいですか」とか言って、おばさまの手を取って指輪をつけるわけです。気づくとおばさまにお尻を触られてたり。いわゆるホスト営業ですね(笑)。
売れてすごく楽しかったのですが、僕のホスト営業よりもデザイナーが売る方がよく売れるわけです。デザイナーは知識があって、「こういうデザインは指に映えてきれいですよ」などと言うので、説得力が違う。購入したおばさまはデザイナーと一緒に写真を撮ったりするのですが、その間僕は荷物持ちです。
僕とデザイナーの関係は、「森君」「先生」でした。デザイナーは専門学校に行き、僕は一応大学を出ているのに、「ちょっとパンを買ってきて」と使い走りです。先生であるデザイナーと営業の僕では、この関係は何年いても変わらないだろう。どうせなら僕も先生と呼ばれる側に回りたい――そう思い始めた頃、なんと就職1年目でリストラにあいました。
景気が一段と厳しくなった頃で、会社は体面を慮って新卒の内定取り消しはしなかったものの、代わりに前年の新入社員である僕らの首切りを決定したんです。もっとも、その時代はまだ良かったのかもしれません。入社からたった1年間で、退職金が100万円出るというんです。
その後、会社同士の野球大会がありました。元野球部で大学を出たばかりという強みを生かして、ピッチャー4番で活躍して、会社の優勝に大きく貢献したんです。リストラが決まった後に出場して優勝したので、社長が「ご褒美に何でもしてあげるよ」と言ってくれました。そこで「寮からの引っ越し代を出してください」と言ったら、引っ越し代の30万円を足して130万円もらえたのです。芸は身を助くと言いますが、まさにその通りだと思いました。
● 先生と呼ばれたい!
まだ学生気分が抜けきっていなかった僕は、退職金ももらってせっかく自由な時間ができたので、まずは海外旅行に行こうとタイに1週間行くことにしました。自分も先生と呼ばれるデザイナーを目指そうと考えていたので、タイの海で「ケイコとマナブ」をペラペラめくっていて。目にとまったのが、Macデザインアカデミーというデザイン専門学校でした。「広告をデザインとコピーで表現する」とあり、これだと思いました。
専門学校に退職金の100万円を投資すると、1年間の苦学生生活に突入しました。週に5日は学校が終わったら居酒屋バイトの繰り返しです。土曜も居酒屋バイトで、日曜だけは休みという生活でした。それだけバイトしても、収入は月11~13万くらい。ここから家賃を払うとぎりぎりの生活でした。居酒屋バイトは賄いがあるのが有難かったですね。
年金とかはもちろん払えないし、これ以上収入が減ってはやっていけないので、バイトも休めません。大学はあんなにサボっていたのに、専門学校の1年間は1日も学校を休みませんでした。僕は25歳になっていました。この頃から、人生を真面目に考えるようになりましたね。
居酒屋でお客と仲良くなるうち、「頑張ってるね」とスキャナーでスキャンすると1点数十円もらえるバイトをもらったり、ホームページを作らせてくれたりということもありました。食費を浮かしたいから、毎日お客の食べ残しを持って帰るのですが、店長が「持って帰れ」とご飯をよそってくれたこともありました。「一生懸命生きていると味方してくれる人がいるんだ」と感じましたね。
● デザイナーとしての再出発
卒業後、東京の小さなデザイン事務所にデザイナーとして就職することができました。ところが、何とここもたった2カ月でクビになってしまった。雇ってもらったのに、いつまで待っても仕事がなくて。おかしいなと思っていたらそれです。実は、大きな仕事が決まったので僕を採用したのに、その話がなくなってしまったという事情でした。さすがにこの時だけは、「日本で3番目くらいに不幸かも……」と思いましたね。すっかりへこんでしまい、東京を引き払って福岡に戻りました。
その後、福岡で就職活動を開始します。苦労するかと思いきや、あっさり広告代理店でデザイナーをすることになりました。前職の先輩が「履歴書を送るなら自分でデザインして送るといいよ」とアドバイスしてくれたので、作って送ったら即採用となったのです。
実際はたった2カ月でろくに仕事もなかったんですが、「東京でデザイナーをしていた」と書いたらウケが良くて(笑)。それに、県立では一番いい高校出ているのもウケが良かったようです。「見方が変わるとこんなに変わるんだ」と勉強になりましたね。
もっとも、そもそも先生と呼ばれたくてデザイナーになったんですが、ジュエリー業界と違って、広告業界ではデザイナーは営業に使われる側で。「あれ?」と思いましたけれどね(笑)。
● 育児PR誌は僕がやる!
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リトル・ママの本拠地は博多だが、今回の取材は東京出張中にインタビューの時間をいただいた。東京では、あきない総研のインキュベーションセンター内にオフィスをおいている
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入社した広告代理店で「幼稚園や保育園で配るものがあれば面白いよね」ということになり、会社の企画で育児PR誌を手がけることになりました。最初はとにかく言われたものを作っていました。4万部くらい刷って150部ずつ梱包し、幼稚園や保育園に送りつけます。
紙メディアではよくあることなんですが、営業は刷り部数を「8万部」と公称していまして、広告はよく売れたのですが、実際どこまで広告ターゲット層に効果があるかというリーチは把握できていませんでした。なにしろ、子どもがたった10人しかいないような幼稚園でも150部ずつ送っていたんです。
そういうことをしているとやっぱり結果に出てくるもので、広告は取れるけれど、広告に対するリアクションがないので、広告クライアントも「出しても効果がないんじゃないか」ということになります。やがて、会社としては媒体そのものをやめようかということになりました。そこで、ちょっと待てよと。せっかくいいコンテンツなのに、広告が取れなくなったらやめるというのはおかしいだろうと。会社に交渉したところ、「じゃあおまえがやれ」と言われたので、「やります」と。
それまでPR誌を送っていた場所はすべて回りました。当然なんですが、多くのところでは、「勝手に送りつけるな」とお叱りをいただきましたね(笑)。
けれどその中で、「最近は朝ご飯を食べてこない子が多い」「自閉や多動の子が増えた」という話を聞いたり、「頑張りなよ」と励ましてくれるところがあったり、おじいさんの園長先生につかまって戦時中からこれまでの人生を聞く羽目になったり(笑)。足を使って実際にお話を聞き、園や育児現場を見せてもらい、コミュニケーションを取ることの大切さを感じました。
そこで、それまでただ送り付けていたのを、ママアルバイトを雇って直接運んでもらうことにしたのです。「ママアルバイト募集」と冊子に書いたら、応募がきました。次第に足を運ぶ効果が出てきて、冊子は少しずつ流通し始めました。配送スタッフのママたちから、「ここに冊子があったら絶対手に取る」と意見をもらったり、「先輩ママとしてこういうことがしたい」という声があがってきました。
幼稚園や保育園で全員に手渡ししてくれたり、小児科がある病院やスーパーにも置かれるようになりました。読み物として形になると読者が増え、読者が増えると広告のリアクションが増え、広告も再び売れるようになったのです。
(後編につづく)
関連情報
■URL
リトル・ママ -福岡版-
http://www.l-ma.jp/
リトル・ママ -東京版-
http://tokyo.l-ma.jp/
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・ 独身男性でもママと育児を応援したい ~リトル・ママ社長 森光太郎氏(後編)(2009/02/10)
2009/02/09 11:46
取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
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