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【 2009/06/09 】
「驚かせ、楽しませ、世に問い続けたい」
~芸者東京エンターテインメント社長 田中泰生氏(後編)
[11:15]
【 2009/06/08 】
「驚かせ、楽しませ、世に問い続けたい」
~芸者東京エンターテインメント社長 田中泰生氏(前編)
[11:20]
【 2009/04/28 】
ブログに恩返しがしたい
~アジャイルメディア・ネットワーク社長 徳力基彦氏(後編)
[11:16]
【 2009/04/27 】
ブログに恩返しがしたい
~アジャイルメディア・ネットワーク社長 徳力基彦氏(前編)
[11:19]
【 2009/03/31 】
ファッションは言語の壁を超える
~プーペガール代表取締役社長 森永佳未氏(後編)
[11:38]
【 2009/03/30 】
ファッションは言語の壁を超える
~プーペガール代表取締役社長 森永佳未氏(前編)
[11:30]
【 2009/03/10 】
物流をもっと身近な生活インフラにしたい
~ピー・アール社長 渡辺陸王氏(後編)
[11:17]
【 2009/03/09 】
物流をもっと身近な生活インフラにしたい
~ピー・アール社長 渡辺陸王氏(前編)
[11:08]
【 2009/02/24 】
一杯のコーヒーで精神的な満足を
~さかもとこーひー 坂本孝文氏(後編)
[11:07]
【 2009/02/23 】
一杯のコーヒーで精神的な満足を
~さかもとこーひー 坂本孝文氏(前編)
[11:17]
【 2009/02/10 】
独身男性でもママと育児を応援したい
~リトル・ママ社長 森光太郎氏(後編)
[10:46]
【 2009/02/09 】
独身男性でもママと育児を応援したい
~リトル・ママ社長 森光太郎氏(前編)
[11:46]

「驚かせ、楽しませ、世に問い続けたい」
~芸者東京エンターテインメント社長 田中泰生氏(前編)


 東大近くに、芸者東京エンターテインメントはある。世界初のAR(拡張現実)を使ったフィギュア「電脳フィギュアARis(アリス)」で知られる会社だ。扉を開けると、懐かしい感じの空間が広がる。そう、大学のサークルに似た雰囲気なのだ。いったん座ると腰が落ち着いてしまう感じ。

 同社代表取締役CEO/ファンタジスタである田中泰生氏は、終始明るくインタビューに答えてくれた。田中氏の印象は、一言で言えば「リア充」。話を聞いていると、やればできないことはないという気がしてくる。田中氏に、同社を作った理由、目指すものなどを聞く。


「知能犯」と呼ばれた子供時代

芸者東京エンターテインメント代表取締役CEO/ファンタジスタ 田中泰生氏。やんちゃで、みんなを楽しませたり驚かせたりするのが大好きな子どもだったという
 大阪の下町出身です。東京で言うと、寅さんが出てくるようなチャキチャキの下町ですね(笑)。子供の頃はとにかくやんちゃで家にいないので、本はまったく読みませんでした。記憶力が良い方で、勉強しなくてもテストの点は良かったですね。

 背は小さいけれどやんちゃな子で、先生の言うことをまったく聞かず、いたずらしまくっていました。先生達には、「知能犯」呼ばわりされていました(笑)。とにかく勉強嫌いな僕の目標は、いかに塾をサボるかということ。ただ、テストの点が良かったらファミコンを買ってくれるとかおいしいもの食べられるとかの約束には釣られていましたね。

 ゲームは好きでしたが、家の方針で平日1日1時間と週末しかできませんでした。楽しく要領よく生きている、執着はなく何かを熱狂的に好きになることもない子供でした。


いたずらでお小遣い稼ぎ

 小学校で生徒会長になったのですが、目的はあくまで塾をサボるため。サボるために頭を絞って、生徒会募金を募ったり、「チャリティのため」と言ってプールで釣り堀大会を開いたりしましたね。作った釣り竿を500円で売って商売したり(笑)。

 クラスメートの塾の宿題を請け負ったりして、小銭稼ぎもしていました。おかげで小学生にしては金持ちだったので、学校に遅刻しそうになった時にタクシーを利用することもあったくらいです。

 ビックリマンシールやキャラクター消しゴムが流行っていたので、自分で稼いだ手元資金で、ビックリマンやSDガンダムをまとめ買いしたこともありました。出てきたレアシールを高く転売したり、買い取ったりして、レアシールの売買でも稼いでいたんです。

 喧嘩もいっぱいしました。何かあった時には先生たちに「お前やろ」と怒られる、ボス的な存在でした。誰が誰を好きとか、そういう情報も全部把握していて、情報と暴力でクラスを支配していました(笑)。

 大きな子ともひるまずに戦ったし、先生にも歯向かって生意気なこと言ってました。組織的に隣の学校に喧嘩を仕掛けたこともあります。ほんと、やんちゃだったなあと我ながら思います(笑)


灘中へ

 中学は灘中に行きました。父は高卒なんですが、昔同志社の人とつきあっていて、相手の親に交際を反対されて別れたそうです。それで、父は自分の子どもは同志社に行かせたかったんで僕を進学塾に入れたそうです。入ってみたらすごく成績がよくなって、結局、塾の先生の薦めもあって灘中に行くことになったんですが、進学にあたって両親と、「灘中に行くけど、中学に入ったら一切勉強しない」という約束を取りつけました。

 家で遊ぶより外にいる方が圧倒的に多くて、パソコンなどもまったく使っていなかったんですが、中学生の時に、友だちの家にあったPC98に触れたことがあります。ゲームの「三国志」や「チンギスハン」などをやっていましたが、パソコン自体には興味はなかったですね。実は、今でも特にパソコンそのものが好きというわけではないんですよね(笑)。


女の子と遊んだ高校時代

「高校はラグビーのために行っているようなもので、毎日遊び歩いていた」。IT業界には比較的珍しい“超リア充”な高校生活を送っていた
 高校ではラグビーをやりました。県で3位になったこともあります。高校はラグビーのために行っているようなもので、朝は10時に行って賭けUNOをやったり、「ゴルゴ13」を読んだり、昼から行ってお弁当を食べてうだうだしたりしていました。灘高校は私服なので、ふらふらしていてもぱっと見では高校生とわからないんですよね。

 勉強はしないし遊び歩いてばかりなので、両親もだんだん「この子はダメやな」という扱いになってきて(笑)。下に妹が2人いるんですが、妹は真面目で。僕は中3の頃から無視されて、すっかり放任状態でした。中高生の頃は家でゲームができないので、ほとんど外で賭けUNO、ゲーセン、ボーリング、ビリヤード、パチンコという生活でしたね。

 高校生の時はしょっちゅう女の子と遊んでいましたね。神戸の女の子はお金持ちのお嬢さんが多くて、「遊びに行く」と言うと親が1万円くれるような家ばかりなので、お小遣いがない僕はおごってもらってばかりいました。2時に学校が終わって6時くらいまで部活。それから夜9時10時くらいまで外でふらふらする生活です。両親は、僕が何をやっているかもわかっていなかったと思います。


東大へ

 灘高と言えば、学年の6割が東大に行く学校なので、なんとなく僕も東大に行くつもりでいたんです。でも、高3になって全国模試を受けてみると30万位とかなわけです。あれだけ勉強しないでいたので頭が錆びついてました(笑)。さすがに「これじゃ受からない」と思ったんですね。そこで、高3の秋くらいからそれこそ意識がなくなるくらい猛然と勉強を始めました。受験前は、1カ月くらい学校にも行かず、朝から晩までケンタッキーやファミレスで勉強していました。

 一浪して東大に合格した時は、先生たちはびっくりしていましたね。僕を扱いかねて放任状態だった両親にも、「『勉強をしなくても大学に行けた』という話を今なら信じられる。この子が勉強しているのを見たことない」と言われて、一気に株が上がりました。実際は外でしてたんですけどね(笑)。今では、「これまで評価を間違っていた。どんなことでもあんたなりに考えがあるんやろ」と言われています。

 入ったのは法学部です。職業や社会の仕組みについてもあまりよく知らなかった僕が、なりたかった唯一の職業が医者でした。漫画の「ブラックジャック」が好きだったからです。けれど、東大の中でも医学部は別格。レベルがものすごく高くて、高3から急にやって追いつくレベルではないんです。

 医学部か東大か、となると当時好きなマンガだった「お天気お姉さん」と「サンクチュアリ」のふたつとも主人公が東大卒だったので、その理由で東大にしました(笑)。医学部がだめならと、次に難しいとされている法学部に進むことにしました。


 入学した1995年は、Windows 95が発売されて、インターネットが盛り上がってきたところ。ちょうどパソコンのブームでした。ところが僕はというと、情報処理の授業はありましたが、授業には1回も行かずにテストの時だけ受けに行ったりして、相変わらずパソコンとは縁がなかったですね。

 授業はほとんど出なかったんです。当時仲のよかった女の子が「東大の授業を受けてみたい」というので、「俺も受けたことないから一緒に行ってみようぜ」と参加したことはありますが(笑)。体育とか、どうしても出なくてはならない授業も、合宿で短期間で単位が取れるクラスを選んだりしてました。「家族の介護で大変なので出席できない」とか申請を出したりして、自分で言うのも何ですが、僕は要領がいいんですよね。

 テストは、クラスの女の子に「どの授業を受けるかは一任するから、時間割同じにして、試験前にコピー持ってきてくださいませ」とお願いして乗り切っていました。テストの時だけは勉強して、単位は取ったのですが、さすがに「可」しかとったことないです。

 わりと腰が重い方で、自分で何か始めることはないんですが、誘われると断らないタチで。外国人留学生と遊ぶボランティアに誘われて、子供の世話をする係になって、相撲や能を見たりしました。

 そういうボランティアをやるのはお金持ちが多いんです。お金持ちのおばさんに気に入られて、家庭教師をやることになって。そういえば、子どもの頃から僕はおばちゃん受けがすごくいいんですよ(笑)。

 そういうお金持ちの家なので、家庭教師でも時給5000円とか1万円くらいもらえました。意外と無駄使いはしない方なので、大学4年生の時にはバイト料なんかで貯金が300~400万円くらい貯まっていました。


リサイクルの仕事、手に入れたPC

自分のパソコンを持ったのは24歳の頃。東大のアドレスはもらっていたが、アクセスする手段がないので、それまではメールを代筆してもらったりFAXや電話で済ませていた
 4年生になって就職も考えないといけない時期になって、給料がいいと聞いて、外資系証券会社の内定を取りました。でも、東大は全体の3分の1くらいが官僚や弁護士浪人などで大学に残るので、5年くらいいてもおかしくありません。

 自分ももう少し学生でいたいと思って、残ることにしたんです。ただ、さすがにふらふらしているのはよくないので家庭教師はやめ、弁護士にでもなろうと司法試験の勉強をし始めました。ところが、そんな時に好きな女性が現れて、毎日朝から晩まで遊んでいたら、1年はあっと言う間に過ぎてしまいました。

 大学6年生になっていました。家庭教師をやめてからも好きになった女の子におしゃれなレストランでおごったりとバブリーな生活をしていたので、貯金もなくなっていました。そこで、「自分で金儲けしなければ」と思ったんですね。

 ちゃんと調べてみたら、弁護士も思ったほど年収が良くない。弁護士になったOBは「辞めたい」と言っている。それに、弁護士というのは、人が困ったとき、うまくいかない時に出てくるトラブル処理の仕事ですよね。自分のやりたいこととは違うんじゃないかと思えてきた。留年はそれ以上できないので、さすがに焦ってきました。

 そんな中、思いつきで、後輩と2人でリサイクルの商売を始めました。建築学科の建築資材や製図板をひきとって、学生に売り始めたのです。その売上で、友達にPCを組んでもらいました。2000年、24歳の頃ですが、その時まで僕はパソコンを持ってなかったんです。当時クラスでメーリングリストを使うのが流行っていて、みんな大学のアドレスを持っていたのですが、アクセスする手段がないので僕だけFAX(笑)。電話をもらったり、みんなに連絡するのも友達にメールを代筆してもらったりしていたんですよね。


コンサルティング会社入社

 自分で商売を始めてみて、「商売は面白い!」と感じました。同時に、「学生がベンチャー企業を作ってもたかがしれている」とも思いました。コンサルティング会社の人が、「プレイヤーになりたいなら、コンサル会社は訓練になるぞ」と言ってくれたので、なるほどと思い入社することにしました。オフィスも格好よかったですしね(笑)。

 入ってみると、僕に対する評価は割れました。好きなものはとことんやるものの、自分が興味のないことはやらないからです。お客に「あなたのところは何をやっても無理ですよ」と言ってしまって怒られたり(笑)。ただ、「コンサルタントも審判だな」と感じました。僕は、自分自身がプレイヤーになりたかったのです。

 1年後、2つの会社に誘われました。ペットの健康保険を手掛けているベンチャーと、ゲーム会社テクモの子会社です。ゲーム会社の方では、子会社の社長というポジションで入社を勧められました。正直どちらでもよかった。25歳で大学を出たのですが、「30歳までに道を決めよう」と考えていました。どちらかに行き上場してまとまったボーナスをもらってから起業して、勝負を賭けようと思っていたのです。

 僕は犬は好きですが猫やフェレットはそんなに好きじゃないんですね。ところが、ペット保険会社の方は、当然と言えば当然ですが、みんな動物が大好きで、社内にペットがいたんです。仕事としてはものすごく魅力的だったんですが、そこが引っかかる。

 その点ゲームなら、誰かがゲームを作って僕はビジネスをやればいい。そこで、ゲーム会社に社長として入りました。コンサルで生意気なことばかり言っていたので、雇ってくれた本社の社長からは賢く見えたのでしょうね。26才のことです。


社長のはずがなぜか「開発」

 コンピュータのことはまったくわかっていなかったので、「ゲームの素にお湯をかけたらゲームができる」くらいに考えていました(笑)。それは冗談ですが、ゲーム会社なら作る人がたくさんいるので企画が決まればできると簡単に考えていたんです。

 ところが、実際ゲーム会社に入社したら、ゲーム開発って集団で小説を書くような、まるっきりの手作業でびっくりしたんですね。ゲームの素にお湯をかけるどころの話ではない(笑)。コンピュータとまともに向かい合ったのは、この時がはじめてででした。僕の転機です。

 僕をスカウトしたテクモ社長には、「お前もコンピュータがわかった方がいい」と言われて、研修を受けました。3カ月間毎日居残りさせられて、「1バイトは8ビット」などの基礎から勉強しました。簡単なプログラムを書いて、PS2で3Dピンボールなどのゲームを作ったりもしました。できなくて泣きながらやっていたのですが、元々理数系は得意だったのもあり、じょじょにプログラミングの仕組みがわかってきました。

 僕の入った会社は、新しく立ち上げた子会社なので人がいなくて、リストラ予備群の寄せ集めみたいなことになっていました。新会社を作るといっても、本社のどの部署も開発のエースは出せないですからね。そんな状況の中、とりあえず携帯電話向けのゲームを作ってみることになりました。開発メンバーは僕とエンジニアの2人だけ。毎日企画書を書いて絵を描いてプログラムを動かして何とか作り上げ、NTTドコモに提案したのです。


苦労したゲーム開発時代

意気揚々と入社したものの、簡単に考えていたゲーム開発も、体制もまったく整っていない。周囲からは完全に浮いていた。「最初の1年は鬱になるくらいつらかった」。
 意気揚々と入社したものの、他の社員には、「東大出の子がなんぼのもんや、無理やろ」と思われていました。半年くらいはそもそも目を合わせて話してくれないし、話も合わない。とりあえず話をしようとずっと一緒にいたら、萌えゲームとかネットがどうのとアキバ系情報が出てきたので、話を合わせるために勉強しましたね。

 そうするうち、じょじょに心を開いてくれるようになりました。「本社の人間たちを見返そう!」と言って、ゲーム作りに励みました。iモード初期の時代です。ファミコンゲームを移植したりするうち、会社は儲かり出しました。

 最初の1年くらいは鬱になるくらいつらかった。会社でまったく浮いていたしコンピュータもわからない。会社に行くのが嫌だったし、辞めようとも考えました。けどここで辞めたら、前の会社を辞めて退路を断ってきたので行くところはないし、信頼も裏切ることになる。耐えた1年でしたね。


わからないことは聞きに行く

 開発で行き詰まると、スクウェアエニックス、ナムコやハドソンなどのライバル会社に教わりに行きました。意外なことに、全面降伏して行くと、同情して教えてくれるんですよね。「テクモも大変だねえ」と(笑)。エンジニア同士の会話になると、もともとみんなゲームが好きだしいい人たちなので、きちんと教えてくれますよ。

 このあたりはコンサル会社にいた経験が役に立ちました。コンサル会社というのは、インタビューと称して、うまくいっている会社にいろいろと話を聞きに行くということが多いのですが、そのやり方を踏襲したんですよ。

 携帯電話向けの移植ゲームで売り上げが伸びて、会社も「おおっ」となりました。だんだんゲームの作り方がわかってきたので、オリジナルを出したら少し当たって。そのうち、携帯電話向けゲーム以外のゲーム開発でも意見を聞かれるようになり、Xboxオンラインなどのオンラインゲームの設計を見直したりもしました。

 やがて、家庭用も含めて全社のほぼすべてのプロジェクトに口を出すようになっていました。ここには4年いましたが、3年目からは重鎮扱い。昼過ぎに行って、経費は使い放題、毎日焼き肉の生活です(笑)。


後編につづく


関連情報

URL
  芸者東京エンターテインメント
  http://www.geishatokyo.com/

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2009/06/08 11:20
取材・執筆:高橋暁子
小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。

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