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ターゲッティング代表取締役社長兼チーフプロデューサー藤田誠氏
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ターゲッティングのビジネスモデルは面白い。普通広告代理店は、広告主とメディアの間に立ち、広告主の商品やサービスを売るためにはどのメディアに広告を出せばいいかと考える。
しかし、ターゲッティングはネットメディア側に立ち、「このメディアにはどのような広告主の商品やサービスが合っているだろうか」を考えて広告の営業をしてくれる会社だ。面白いけれど、営業力がなくて潰れてしまうメディアやWebサービスは少なくない。そういう会社にはありがたい話ではないだろうか。
切り口の新しさから注目が集まり、依頼は順調に増えているという。ただし、どんなメディアでも担当するわけではない。「我々はいわばメディアのセレクトショップ。自分がいいと思った間違いない商品(=ネットメディアやWebサービス)の価値を、広告主や広告代理店にご理解頂いた上でお薦めするのが仕事です。PV以外に、革新性や作り手の面白さなどを重視しています」と、ターゲッティング代表取締役社長兼チーフプロデューサー藤田誠氏は語る。
インターネットに縁がなかった藤田氏は、なぜネットに目を付け、この新しいビジネスモデルを立ち上げたのか。
● いつか世間を巻き込むような話題が作りたい
埼玉県の、田んぼがあるような土地で育ちました。ザリガニや蝉、トンボを捕ったり、秋には刈り入れた藁の上でプロレスごっこをしたりと、自然と触れ合って過ごしていました。毎日のびのびとサッカーをしている、活発なアウトドア系の子どもでしたね。
Windows 95が実家にあったのが、ネットに触れた最初です。父があたらしもの好きだったのですが、1995年当時は就活サイトなどもないネットの創世記の頃です。僕自身は時々サイトを見る程度で、その時点ではあまりネットには触れていませんでした。
学生時代には、マスコミを志望していたこともあり、出版社で編集アシスタントのアルバイトをしていました。当時から興味を持っていたのは話題作りです。どうすれば「話題」を作れるのか、今思えば、話題作りのためのコミュニケーション方法に興味があったのだと思います。いつか自分も、世の中を巻き込むような話題が作りたいな、そんな事を考えていました。
● これからはネットを活用したコミュニケーションがくる」と感じた代理店マン時代
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デジタルがもっともっと広告の領域に入ってくるという確信はあった。販促でも、クーポンなら紙よりも携帯電話で配った方が効果があると思えた。販促の仕事をすればするほどそうしたアイディアが広がり、「これからはネットがくるのでは」という気持ちが強まっていった
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1997年、広告代理店に就職、営業部門に配属になりました。僕のミッションは、担当クライアントである製薬会社の医薬品やドリンク剤を、ドラッグストアや薬局にいかにしてたくさん納入し、売ってもらうかという仕掛けづくりです。
一般的に、広告代理店というと華やかな仕事をイメージされると思いますが、そういうイメージに反して僕が関わった案件は地道な作業が多かったですね。CMを作ってバーン! とか、キャンギャルが来てドーン! とかの世界ではなく、POPといわれる店頭広告や、大量陳列用什器や印刷物、のぼりを作ったり、広告主の営業さんとドラッグストアの物流センターに行って販促ツールを詰めたり、パッケージの陳列を考えたりという、広告の業界で言う、販促プロモーション作業をしていました。
入社する前に想像していた広告代理店のイメージと実際の仕事は違っていましたが、リアルに社会が動いている面白さと、仕事を突き詰めることとは、どういうことなのかを感じ、学ぶことができました。
当時、僕の友人たちは、「ビットバレー」だの「ビットスタイル」だのと、ネットベンチャーを話題にしていましたが、僕はその盛り上がっている話を脇で見ていた口。自分には関係のない、正直浮ついた話という認識でした。
ただ、デジタルがもっともっと広告の領域に入ってくるという確信はありました。たとえば、僕が関わっていた店頭誘引施策としてクーポンキャンペーンなどを展開したことがありましたが、クーポンを紙で作るより、携帯電話で人々に配信されたらどれだけ効果があがるだろう、と思いました。
販促の仕事をすればする程、そのような思いやアイディアが広がり、「これからはネットがくるのでは」という気持ちが強まってきたのです。しかし、僕が在籍していた広告代理店は、そういう領域でビジネスをするつもりがまるでなかったのです。
● 「ネット関連の会社に行きたい」
広告代理店で働いて4年半経った頃、「次はインターネット関連の会社に転職しよう、そしていつかは起業を。」と考えるようになっていました。これからはネット関連ビジネスが伸びるという思いは、確信があったので、とにかくネットの世界、ネットの仕事に触れたかったのです。
そんな時、台湾や韓国の財閥と共同で某ゲーム会社内の事業開発部が独立し、ネット上で「ドリームキャスト」のゲームを配信するための会社ができる、という話が舞い込みました。思いを実現するために即入社し、サービス開発をすることになりました。ゲーム会社から配信ライセンスを頂いて、ネット配信を可能にする仕事です。
ところが、潤沢な資本金にも関わらず、肝心なエミュレータ開発が進まず、債務超過に陥ってしまったようなのです。給料が未払いになるなど、いよいよ危険な状況となったため、2年目のはじめに転職することにしました。
2002年10月、アトムショックウェーブ、今のショックウェーブエンターテインメントに転職しました。flashゲームやショートフィルムなどが楽しめるエンタメ系サイトの営業を担当することになったわけです。サイト内の広告営業とブロードバンドでコンテンツを配信する会社やケーブルテレビなどに、ショックウェーブが持つコンテンツのライセンスを提供する営業をしていました。
ところが、ネットバブルがはじけていた頃のこと。売上はなかなか上がりませんでした。やがて、残念なことに会社の雲行きが怪しくなってきたのです。さすがに焦りました。自分のいる会社が2社連続で「大変なことになる」ということだけは、絶対に避けなければならないというか、それでは後々冗談にしかなりません。これからは絶対ネットだと思って勝負を賭けたのに、こんなことではいけない――僕は奮起しました。
● 努力が実を結び売上急上昇
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メディア営業に関わるあらゆる要素を徹底的に分析。その結果、月間の売上を飛躍的に伸ばすことができ、黒字化も達成した
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僕の強みは、広告代理店と広告主マインドを理解していることと、販売促進に関わるプロモーションを理解していることです。そこで、媒体の特性やユーザー属性、使うタイミングや気分などメディア営業に関わるあらゆる要素を徹底的に分析したのです。
他社との差別化はどこで図るのか、競争優位は――誰にどう売れば一番売れるのかを考え、売れるコンテンツとは何かを考え、コンテンツの仕入れをしました。広告代理店がわれわれのサイトを広告主に売りたくなるにはどうしたらいいかを考えなければならないのですが、これには広告営業マン時代の体験が役に立ちました。
結果、月間の売上を飛躍的に伸ばすことができ、黒字化も達成して、営業部員も大量増員することができました。「やりきった」という思いがありました。
ただ、自社のサイトがエンタメサイトなので、広告を出してくれる業界はゲーム関連、エンターテイメント系に限られてしまいます。営業成績が伸びるにつれ、もっと違う業種の広告案件を扱ってみたい、もっと大きなことにチャレンジしたい、という乾きが胸に湧き上がっていたのです。
● 営業に行ったライブドアで逆提案される
その頃、ライブドアのポータルサイトにはゲームカテゴリがありませんでした。これは、と思った僕は営業に行きました。ところが、「赤字で作っている媒体だから、まず売上を立てないといけないんだ」と断られてしまったのです。しかし、続けて「それよりうちで営業をやってみないか。チームはないけれど、これからゼロから作るつもりだ」と逆に提案されたのです。
営業チームをゼロから作ることは、既にやってきていました。売りにくいものを売ったという自信もあります。先方からは、その場で好条件を提示されました。2005年1月頃のことです。大きなチャレンジの場が整いました。
堀江元社長とは、ライブドアがニッポン放送の株式を取得して話題になった翌日に、最終面接で話をさせてもらいました。「今回の株式取得は本気なんですか?中途半端な気持ちでメディアビジネスをやってもらっては困る」と思いを伝えたところ、堀江社長は「本気です」と言っていました。
「放送と通信は融合するんだ」と熱く語っていた堀江氏に、テレビの印象とは違う、誠実な印象を持ちました。僕は「放送と通信の融合」が実現するならば、テレビとネットを使っていろいろな面白いメディア展開ができるかもしれない、そんな環境で、広告企画を考え、チームを一から作るのは絶対に面白いと思い、社長面談後、入社を決めたのです。
堀江社長の席は、メディア事業部の島にありました。入社後、僕の席は堀江社長のスグ隣の島、お誕生日席に当たる場所にありました。裁判において処せられた事由、彼が何の罪を犯していたのか、その実態は当時僕にはわかりませんでした。悪いことをしたならば当然罰せられるべきですが、個人的な印象としては、彼はネットメディア事業に本気で取り組んでいた方だと思っています。
● 既存社会VS破壊者の板挟みで苦労
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2005年2月8日、ニッポン放送の株式を35%取得したことを記者会見で発表したライブドア堀江社長(当時)。「既存体制の破壊者」としてファンも多かったが敵も多かった。ライブドアで広告営業を担当した藤田氏は、世間を騒がす社長への批判の矢面に立たされることになった
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ライブドアでは想定以上に苦労しました。「ライブドアが広告業界では嫌われている」という噂は本当でした。広告代理店から総スカンを食らい、仲が良かった広告代理店の人にメールしても返事が来ないのは序の口です。
「襟を正して媒体運営をしなさい!!」と新任の挨拶に代理店に伺った際、幹部に諭されたこともありました。世間を騒がす社長とは裏腹に、こちらはひたすらぺこぺこ謝ってばかりいました。自分まで評判の悪い人になってしまって、あらゆる批判の矢面に立たされたような状況になっていました。僕は騒いでいる世間における“傍観者”ではなく、世間を騒がせている“当事者”へ変わったのだと実感していました。
既存社会で大きな役割を担っている会社は、別の観点から言えば大手広告主ともいえます。一方、既存社会を打ち砕くことで人気になったのが堀江社長でした。
僕の仕事は、突き詰めれば社会で大きな役割を担っている会社からいかに広告を出してもらうかということになります。しかし、これら大手広告主は、好き嫌いが二分している媒体にはお金を出さないものです。
話題重視になっている媒体に出稿することにより、「誰に悪印象を持たれるかわからない。不用意に生活者の反感を買いたくない」と思うのは、社会的責任のある大手広告主からしてみれば当然のことだと思います。
そういう具合なので、大手広告主にはなかなか売れませんでしたが、チーム始動8カ月の年末には、売上を当初の5倍くらいまで伸ばすことができました。当初3人で始まったチームは、12月末には20人くらいまで増強していました。
● まさかのホリエモン逮捕!
2006年になっていました。1月になり、風向きが変わったことを感じました。大手広告代理店などが認めてくれるようになり、そろそろライブドアにも出稿してみようか、という機運になっていたのです。
しかし、やっといい感じになったその翌週の2006年1月16日、証券取引法違反の容疑により、六本木ヒルズ内の本社などに、東京地検による強制捜査が入ってしまったのです。ほどなく社長まで逮捕されてしまいました。ほんの1週間前には、あんなに調子の良さを感じていた広告事業でも、瞬く間に広告掲載中止が相次ぎました。
最終的には広告はほとんどなくなっていました。僕らは、ひたすらお詫びと情報提供を繰り返すだけでした。お世話になったところを行脚して、説明しに行っては怒られて。励ましてくれる人もいたものの、チームからも徐々に人がいなくなっていきました。
6月に弥生の代表取締役社長だった平松庚三氏がライブドアの代表取締役社長に就任して、営業チームが再編され、新しい営業チームを10人くらいで始めることになりました。売上は最初は地を這うレベルでしたが、じょじょに右肩上がりになり、3月には前年度の12月くらい、当初の7~8割くらいまでには戻すことができたのです。僕は、「これでマネージャーとしての責任は果たした」と思いました。
(後編につづく)
関連情報
■URL
ターゲッティング
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「仕事人日記」~ターゲッティング社長 藤田誠のBlog
http://blog.livedoor.jp/targeting/
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・ “メディアのセレクトショップ”への挑戦 ~ターゲッティング社長藤田誠氏(後編)(2008/08/12)
2008/08/11 11:15
取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
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