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ハードウェアにも“笑い”を ~ソリッドアライアンス社長 河原邦博氏(前編)
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ソリッドアライアンスのミーティング机に置かれたユニークな製品の数々。オムライスはUSBハブになっており、ハンバーグやエビフライなどのUSBメモリが接続されていた
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まるでレストランの店頭だ。板に乗ったトロ、エビ、タマゴと色とりどりな握り寿司、チキンライス、プリン、ハンバーグ、海老フライなどがそろった豪華なお子様ランチセットに、フォークですくい上げた形で固まっているスパゲッティナポリタン。とても精巧なそれらは、実は全てUSBメモリだ。どれも本物の食品サンプルでできており、とてもリアルで美味しそうに見える。
「食品サンプルってどうやって作るか知っていますか。米や具、海苔などがあって、1個ずつきちんと海苔を巻いて握って、ネギは実際に小口切りにしてパラパラとかけて作っているんです」と、ソリッドアライアンス社長、河原邦博氏は楽しそうに語る。ぐるりをユニークなUSBメモリに囲まれての取材となった。河原邦博氏はなぜこのようなものを作り始めたのか、会社の目指すものは何かを聞いた。
● つながりを求めた子ども時代
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寿司USBメモリをはじめ、お化け探知機付きの「ぱけたん」やほたるいか型など、ユニークなUSBメモリ製品で知られるソリッドアライアンスの社長、河原邦博氏
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僕は西宮出身です。今でこそキャラが濃いとか言われますが(笑)、子どもの頃はあまり人と話さず引きこもり状態でした。今はがっちりしていますが、当時は身体もひょろっと細くて弱々しい子でしたね。動物が好きで、園芸部や飼育部に入って、菊を育てたり、うさぎやひよこの世話をしていました。
もっとも、おとなしいんですが、常に人との接点は求めていました。小学校6年生から中学生の頃、「切手友の会」を作り、会報を発行し始めました。いわゆるミニコミ誌です。
最初は人が出している会報誌を購読していたのですが、面と向かって話すのは苦手な自分でも、「これならできそうだし情報発信もできる」と考えて切手の会報誌発行を始めました。切手を500円分くらい送ってもらい、会員に会報を送ります。会報や会員からの手紙がたくさん来て郵便受けに入りきらないので、郵便局留めにしていました。
会報を出していた頃は、旅行に行った先でも、わら半紙をチェックして、いい紙があったらまとめ買いしたりと、かなりはまっていました。わら半紙って、製造する会社によってかなり紙質が違うんですよ。オタクの走りなのでしょうが、子供ながら、そういう細かいクオリティにもこだわっていました。
そうするうち横のネットワークができてきて、レアな切手を手に入れられるようになって。印刷がずれたエラー切手や見本切手、軍事切手など、レアラインを追求していましたね。レア切手売買でお小遣いを稼いだりもしていました。今はオークションと言えばネットオークションですが、当時も紙ベースのオークションはあったんですよ。会員から委託されて記事にして入札してもらうのです。
中学も後半になると、カメラ好きが高じてあらゆるカメラのカタログを集めるようになりました。メーカーは年に何回かカタログを発行するんですが、たとえば、「06」とついていると6月バージョンのカタログということがわかるわけです。新しいカタログが出たら、どのカメラのどこがアップデートされるのか見比べたりしていましたね。
● ハワイの大学で考えた立ち位置
高校生になった頃、自分の将来について考えるようになり、本当に消極的なままでいいのかと悩みました。自分から相手に対して働きかけないと何も変わらない、そんなことを考えていた時に音楽に出会いました。
非常に単純だったのですが、当時流行っていたアリスの「チャンピオン」を聞いて感動し、自分でバンドを組んで活動し始めました。それをきっかけに、リアルに他の人たちとの交流をするようになり、積極的な人間に変わって行ったんです。
卒業後は、ハワイの大学に進学しました。グランドキャニオンを見て衝撃を受け、海外に出たいと思って選んだのがたまたまハワイだったのです。元々親族がロサンゼルスにいて子供の頃に遊びに行ったりしていたので、海外出ることにあまり抵抗がありませんでした。
僕の親族の間では、どちらかというと関西から関東に出る方が大きなチャレンジだと思われていて(笑)、「東京に行くくらいならハワイに行け」という環境だったんですよね。
ハワイの大学に進学してみると、日本から来ている学生は大会社の会長の息子など、大金持ちばかり。自分はこんなところにいていいのかと場違いな気がしたくらいです。英語は喋れないし、苦労ずくめでしたね。
高校までは、学校やクラスの中というのは、住んでいる地域や偏差値などで限定されるので、ある程度均質な人間の集団だったでしょう。ところが、大学に進学して、素質でもバックグラウンドでも、自分とはまったく違う人がたくさんいることを知って、ショックを受けました。大学を卒業したらどうしようと、自分の立ち位置について深く考えさせられました。
● ITの世界との出会い
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大学を出る頃はちょうど就職氷河期だった。なかなか就職が決まらず、遊んでいるわけにもいかないので親戚の建設会社で働くことにした。現場仕事で、いろいろな人生があることを肌で知ったという
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卒業後帰国したのですが、その頃はちょうど就職氷河期だったんです。ハワイの大学を出ても特に特技があるわけでもなく、なかなか就職先が見つかりません。今から考えると笑っちゃうのですが、当時の本人としては、外資系の航空会社など、英語が使えてかっこいい仕事をしたいと夢見ていました。そこで毎週「The Japan Times」を買ってきては、応募し、書類選考で落ちるという繰り返しでした。
ずっと何もせずに夢見気分でいるわけにもいかないので、親戚が建設会社を経営していたこともあり、とりあえず建設現場で働くことにしました。実際2年近く働いたのですが、いろいろ面白いこともありました。
たとえば、現場でやたら段取りのいいおじさんがいるわけです。聞いてみると、どこどこの会社を経営してダメになって今はここにいるなどの事情があったりする。人生のわびさびを感じましたね。
その後、セイコーエプソンの中途採用に応募したら拾っていただいて、半導体の海外営業担当になりました。周りの人たちは超一流の大学を出ている人たちばかりです。そんな中で僕は、英語が話せるところを買われて、米国の顧客対応を中心に仕事をするようになったわけです。実際はビジネス英語どころか、誇れるような英語のレベルではなかったのですが。
やがて、米国に本拠地を置くサンディスク(SanDisk)というメモリカードを扱う企業に誘われました。「半導体がわかればできるはずだし、これまでの経験があればできるはず」と言う。当時の社長と、4~5時間話をして、ビジョンがよくわかったので、日本法人初の営業として入ることにしました。
サンディスクに入ったとき、「3年やってダメだったら諦めよう」と考えていました。期限を切ってやらないとダラダラしてしまうし、ダメなら他のところに移ろうと考えたわけです。その代わり、3年は真剣に集中してやろうと、会社の近くに住んで徹底的に仕事をすることに決めました。
新大阪なら、羽田にも北海道にも九州にも、日本中どこにも時間を無駄にせずに行けると考えて住み始めたんですよね。
● コンパクトフラッシュで成功
当時、東芝サムスングループは、スマートメディアを開発していました。一方サンディスクは、コンパクトフラッシュ(以後CF)カードを開発していました。
これら2種のメディアを比べると、スマートメディアはメディア上にコントローラ部分を持たないため、薄くて安価でした。それに比べてコンパクトフラッシュは、カード内にコントローラを内蔵しているため、どうしても価格的には高くなります。
ところが、現在もそうですが、記録容量というのはどんどん大きくなります。大容量化にともなって規格変更も必要になってきますし、コントローラ自体の性能も向上させていかなくてはならない。
テクノロジーがどんどん進化していくことを考えると、それに対応するためにはコントローラ部もどんどん新しくしていく必要があるわけです。ところが、パソコンやカメラの側にコントローラ部を搭載してしまうと、そう頻繁に仕様変更するわけにはいきませんし、販売した後での交換は不可能です。
CFカードの場合は、コントローラ部を内蔵していますから、パソコンやデジタルカメラなどの側でその都度対応する必要がありません。
営業では、相手に伝わるストーリー――シナリオといってもいいですが――を作って納得してもらうことが大事です。そこで、僕はこうした理由を述べて、「カード側でコントローラ部を内蔵している方が有利でしょう」と営業したのです。
もっとも、ストーリーと言っても荒唐無稽でいいというわけではありません。きちんとした根拠があるのが前提で、それをどう伝えるかという部分の話です。実際に、現在ではスマートメディアは生産中止になっている一方で、コンパクトフラッシュは生き残っています。
● 人とつながり、仕事につなげる
僕は、「メーカーに採用されることでカード自体もメジャーになるだろう」というストーリーを考えていました。しかし、人数がいないので自分たちだけでは物理的な制限が大きい。そこで、代理店の人に行動を指示して、その人の売上が上がるようにし向けたのです。最初は小さな会社だからと相手をしてくれなかったのですが、売上を上げたら見直してくれるようになりました。
結局、サンディスクの売上は、僕が入社してからの5年間で、数億から140億にまでなりました。
その頃は、1日に何回も飲み会をしていましたね。まず18時からお客様と飲んで、その後21時くらいから親しい人と飲み、午後11時から代理店と若い仲間たちと飲む。そして午前2時には米国の本社に国際電話で日本の状況を報告、という日々を送っていました。米国本社に報告した後、自宅に帰って寝るほどは時間がなくて、朝までファミレスなどで時間を潰すこともありましたね。
なにしろ人数がいないので、きちんと優先順位を付けて仕事をやらないといけないわけです。都内のお客様のところだけではなく、地方にも月に1回は話を聞きに行くようにしていました。
実際に足を運ぶことは大事ですね。10年ものの付き合いに等しい関係が、1日で作れてしまうこともありました。いったん“仲間”という関係ができたら、通常は足を運んで説明しなくてはならない用事も、電話だけで済むようになることもあります。
そうするうち、協力してくれる人が増えてきました。僕が若くてサンディスクという会社時代も知名度が低かったので、大手メーカーなどではなかなかアポが取れないこともあったのですが、日本の某メーカーの部長さんに相談したところ、まったく関係ないのに代わりにアポを取ってくれたこともありました。
● 大手メーカーのオーダーをゲットせよ
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当時はPCマニアから、電子手帳的に使うライトユーザーまで、幅広いユーザーに人気だったPDA。供給やサポートなど多くの課題をクリアする必要があったが、ついにCFカードが採用された
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その頃、関西に本社がある某大手メーカーのPDAが人気で、僕自身もそのPDAを愛用していたこともあって、CFカードをその大手メーカーさんに採用してもらうのが夢だったんです。でも、これが難しかった。
なんとかアポが取れて、話を聞いていただいて、交渉でいいところまでは行ったのですが、「自社のメインの商品にリスクのある小さな会社の商品を採用するのは厳しい。特にサポートの面で不安だ」と言われてしまって。じゃあサポートデスクを用意すればいいんだなと考えて、自分のお金で家を借りて電話やFAXも入れて、サポート拠点を作ったんです。おかげで、無事採用されることになりました。
その大手メーカーのオーダー1つで14億5千万にもなったんです。すごいですよね。その頃営業は自分を入れて2名、オフィス総務が1人、技術サポートが2人という少人数でやっていました。そのメーカーからオーダーを受けることが目標だったので、嬉しくて嬉しくて。
そうこうするうち、じょじょにサンディスクという会社も知られるようになり、CFカードという製品自体もメジャーになってきました。
メモリカード製品はCFカードのほか、先に話の出たスマートメディア、MMC(マルチメディアカード)、メモリースティック、SDカードなどいろいろありますが、僕はCFカード以外の製品にも関わっていました。
苦労はありましたが人気PDAに採用され、次のゴールとして考えていたのが携帯電話です。携帯電話は、日本の人口の過半数を超える人が持っているという巨大市場ですし、いつでも身近に24時間持っている電子機器は携帯電話だけです。だから、当然外部記録メディアも必要になってくるはずだと考えました。
やがて、携帯電話にカメラ機能が搭載されたので「きた!」と思いました。携帯電話に採用されたら、それはメモリカードのひとつのゴールだろうと考えたのです。これも、無事採用されました。
(後編につづく)
関連情報
■URL
ソリッドアライアンス
http://www.solidalliance.com/
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取材・執筆:高橋暁子 小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っている。 |
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