コミュニケーションの仕組みを良くしたい
コミュニティーエンジン代表取締役/CEO 中嶋謙互氏(前編)


 「子どもを持つようになって初めて、『30年後どうありたいか』について考えるようになったんですよ。その意味で、会社経営的にはプラスでしたね」。子どもが1歳半になったというコミュニティーエンジン株式会社 代表取締役/CEOの中嶋謙互氏は、こう語る。コミュニティーエンジンは、ネットワークミドルウェアVCEの開発などで知られる、スクウェア・エニックスグループに属する会社だ。

 それまではライブコーディングをしたり、聴衆の前でゲームを作ったりしていた中嶋氏だが、今は前以上に本業に力を入れている。「派手なことではなく、積み残しのやっていないことをやるようになりましたね」。

 子どもがいるとは見えないくらい若い外見だが、言葉の端々に技術に対する思いや知識の深さ、会社経営者ならではの鋭さがうかがえる。中嶋氏が目指すものは何か。起業した理由やプロダクトが生まれたわけなどについて聞いた。

プログラミングに夢中だった子ども時代

コミュニティーエンジン株式会社 代表取締役/CEO 中嶋 謙互氏。1974年生まれ。童顔で、とてもお子さんがいるようには見えない

 1974年生まれで、5歳まで京都で育ちました。その後、18歳までは滋賀県大津市に住んでいました。子どもの頃の自分を一言で言うと、“集団行動ができない子”。やれと言われることは、ラジオ体操などもできませんでした。学校の勉強はあまりしなかったですね。

 京都の実家の前には、山があったんですよ。そこで、木に登ったり池で遊んだりして育ちました。山の向こうまで掘り抜こうとして、失敗したこともあります。山育ちですが、同時に都会にも近いので、パソコンショップに出かけてはゲームやプログラミングに夢中になっていました。父が新しいもの好きで、僕が2歳の頃に、まだ高かったApple IIを買ってきたのです。3歳からBASICに触れ、小学生の時には家にあった富士通のFM-8やMSXパソコンをいじっていました。

 ファミコンをねだって買ってもらったのが、小学3年生頃です。ゲーム機はなかなか買ってくれなくて、「テストで100点をとったら買ってやる」と言われていたんですよ。持っていたゲーム機はファミコンだけです。買ってもらうまでは、友達の家でカセットビジョンをやっていました。カセットを斜めに挿すと違うゲームみたいに見えるので、違う角度に挿して遊んでいましたね。

X68000でゲームを作った中学時代

 中学の頃は、MSXやMZ-80をいじり、BASICでプログラムを書いていました。もちろんアセンブリは使っていましたが、C言語はまだ知りませんでした。C言語を知ったのは、X68000を手に入れた頃です。毎月、ジョーシンで出たばかりのソフトや最新版のコンパイラを買ったりもしていました。今はネットがあるので世界中から取り寄せられますが、その頃は直接買いに行かないといけなかったんですよ。

 1987年、僕が中学1年の時に、X68000が出ました。ゲーム向け機能が豊富で、スプライト(映像技術)機能、FM音源8チャンネル+ADPCM1チャンネル、65536色のグラフィックなどの特徴があるパソコンでした。その後、マイコンクラブに入ったら「X68000でゲームを作りまくっていた」という人がたくさんいたくらい、人気があったマシンです。

 中学の頃はゲームをするより、X68000でゲームを作る方が楽しかったですね。既にあるゲームに気に入らないところがあったり、簡単すぎると感じたら、自分で作るしかなくなってしまうんですよ。最初の頃は、既存のゲームの物まねをしていました。作り始めると、ご飯は食べないわ寝るのが遅くなるわで親に怒られるまでやっていましたね。

 中学ではパソコン部に入り、プログラミングをしていました。学校でゲームを作っては、友達を呼んで遊ばせたり面白く作り直したりしていました。作ったゲームで遊んでいる時に、不良が「学校でゲームをするな」とからんできたこともあります。その頃は、学校中の友達にパソコンを買わせて、みんなで協力してゲームを作っていました。ドット絵を描く人、プログラムを書く人などにわかれて、開発ツールを作って作り上げていたのです。

掛け持ちドラマーをしていた高校時代

 高校では、軽音楽部に入ってドラムを担当していました。ボーカル、キーボード、ギターは多いのですが、ベースとドラムはいつも足りません。そこで、頼まれて、40バンドのうち約10個のバンドに掛け持ちで参加していました。レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ビートルズ、ストーンズ、日本のバンドなどをコピーしまくっていましたね。個人的に一番好きなのはファンキーなロックで、レッチリ(レッド・ホット・チリ・ペッパーズ)などです。

 ドラムの経験があるというのは、珍しいかもしれません。始めたきっかけは、習い事でした。高校に入った時に、親が「何か趣味の習い事をやれ」と言ってきたのです。「自分が面白いと思うことでいい」と言うので、テニスとドラムをやることにしました。

 学校のテニス部は今ひとつだったので、近くに習いに行きました。ドラムも、教えている人が知り合いにいたので習いに行きました。家では、音が出ないように布をかぶせて練習していました。習っていると楽譜を渡されたその場で演奏できるため、さまざまなバンドの手伝いで郊外までかり出されていたのです。

 プログラミングをしている人には、音楽やスポーツとか好きな人が多いですよね。きっと、道具の利用を極めるのが好きなのかなと思います。うちは、親がピアノ教室、リトミック、電子オルガン教室を開いていたため、つねに家で音楽が鳴っている状態だったので、自然と音楽を始めたんですよね。

評判だった塾用英語学習ソフト

高校生の時にバイトで中学生を教え、自分の仕事を楽にするために、英語の単語学習ソフトを作成。実用的な作りで、評判はよかったという

 高校生の時は、中学の時ほどはプログラムをしていません。アクションやシューティング、RPGなどのゲームを作ったり、手伝いで町内会の書類を作ったりしていました。

 その頃ある塾で、英語を聞き取って紙に書き取る英語トレーニング方法、「ディクテーション」の勉強していました。新しめのことをする塾で、LDを見た後、英語で書き取る作業はすべてパソコンでやっていたのです。僕は高校コースの生徒でしたが、同時に、バイトで中学生に英語と理科を教えていました。

 自分の仕事を楽にするために、英語の単語学習ソフトのアイディアを思いつきました。先生に提案したところ作ることになり、1万円で作成したこともあります。生徒にひとりずつ本人のデータが入っているフロッピーを配り、パソコンに入れると前の続きから勉強ができ、結果の統計も出る実用的なソフトで、評判はよかったですね。

高校で作ったなんちゃってゲーム会社

 高校2年の夏、友達となんちゃって起業をしたことがあります。僕とタイ君を含めた日本人2人と、トム君とジョー君という米国人2人の4人が集まって、「マネーキャット」というゲーム制作会社を作りました。マネー キャットとは、「招き猫」のイメージでつけたものです。トム君とジョー君とタイ君は、もともとは国際学校に通っていました。タイ君はその後、日本の学校に入るためにうちの学校に編入してきたのです。

 起業のきっかけは、トム君ことThomas Callaghan(トーマス・カラハン)が言い出したからです。起業と言ってもなんちゃってなので、法人化などはしていないんですけれどね。トム君は今もうちの社外取締役をしてくれており、少し前まで、ソネット・エムスリーのCOOをしていました。今は米国に戻り、Webスタートアップをやっています。

 会社では、ペロポネス戦争のゲームを作りました。4つの国の軍隊がそれぞれ違う統制の仕方をしていて、「この軍隊は大きな盾と槍を持つため、斜めにしか歩けない」などの決まりがあり、自由にシミュレーションした方が勝ちというものでした。実際の歴史に忠実なユニットや設定を使用したゲーム、「エイジ オブ エンパイア」みたいなものです。ただ、やろうとしたことが大きすぎて完成しなかったんですけれどね。

 ゲームを作るというのも、社長のトム君の考えです。「売れる」と踏んだんですよね。夏休み中、タイ君の家にパソコンを持ち込んで、ネットワークでつないで作業をしていました。僕はツールやデータ設定を作り、トム君はマネージメントをするなど、4人で役割分担をしていました。と言ってもたった4人なので、マネージメントだけをやる人は今思うと要らなかったと思いますけれどね(笑)。

浪人の時にはまった京大マイコンサークル

 勉強しなかったので、結局浪人してしまいました。その頃、大学入学前だったのですが、大学のサークルに入りました。京都大学のマイコンサークルです。

 高校3年の秋、タイ君が「京大に行きたい」と言うので見学に行き、マイコンサークルの部室に行ってみたのです。そこには、インターネット環境とサン・マイクロシステムズのワークステーション、UNIX OSの開発環境がありました。PC-98があり、X68000でゲームを作って公開したりしていました。みんな、ほとんど住み込むようにして熱心にプログラムを書いている人たちばかりでした。

 今仕事で使っているネットワークの知識は、ここで学んだと言っていいと思います。この出会いが、僕の人生を変えたのです。

世の中を梃子の原理で変えたい

入学後は、UNIXのネットワークを使ってネットワークゲームを作ったが、人気があったのはプログラム同士を戦わせるゲーム。取材の際には、ホワイトボードでゲームを図解してくれた

 1994年、京大農学部に入学しました。マイコンクラブに入りたくて入ったようなものでしたが、入学後に他の大学の人たちもいることを知りました(笑)。ただ、京大はプログラムを組みたい人には良い大学だと思います。ワークステーションが何百台もある部屋が使い放題なのです。使っていてマシンが壊れたことが何度かありましたが、おとがめなしでしたし(笑)。

 入学後は、UNIXのネットワークを使ってネットワークゲームを作りました。人気があったのは、プログラム同士を戦わせるゲームです。ロボット同士を競わせるロボットコンテスト、通称「ロボコン」みたいなものですね。油を運ぶのをロボットで邪魔する仕組みで、ユーザー間にイノベーションが起きたので大成功でした。

 他にも、自動的にマップを作る、不思議のダンジョンみたいなものも作ったことがあります。僕は、使われることで作り手が思いも付かないようなことが生まれるものが作りたかった。エンジニアなら、「世の中を梃子の原理で変えるようなものを作りたい」と思っている人は多いのではないでしょうか。

 大学でも軽音楽部は続けており、やはり掛け持ちでドラマーをやっていました。軽音楽部は10個あったので、中でも一番ロックなところを選びました。衣装はTシャツとジーパンで、ライブハウスなどで演奏していました。ロック系でコンテストに出ることは負け組なので出ませんでしたが、ジャズ系オーケストラ系などはコンテストに出たりするんですよね。

(明日の後編につづく)


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2009/12/21 06:00


取材・執筆:高橋 暁子
小学校教員、Web編集者を経てフリーライターに。mixi、SNSに詳しく、「660万人のためのミクシィ活用本」(三 笠書房)などの著作が多数ある。 PCとケータイを含めたWebサービス、ネットコミュニケーション、ネットと教育、ネットと経営・ビジネスなどの、“人”が関わるネット全般に興味を持っ ている。