インタビュー
IT業界人「脱・東京」の秘訣、長野に移住したアソビズムの大手智之CEOが語る
『信州ITバレー構想』キーパーソンに聞く<3>
2020年2月28日 12:00
長野県は昨年9月、県内にIT人材とIT産業の集積を図るべく、「信州ITバレー構想」をとりまとめた。長野に暮らしながらITの仕事ができるとなれば、東京など都市部のIT企業で働く人間にとって非常に魅力的に見える一方、地方への移住となるとなかなか決断できるものではない。
「城とドラゴン」「ドラゴンポーカー」などスマホゲームのヒットアプリを開発し、秋葉原の東京本社に90人の社員を抱える株式会社アソビズムの代表取締役CEOである大手智之氏は、2012年に突如、長野に移住して、今年で9年目。東京を離れたきっかけと長野での働き方を語っていただき、「脱・東京」のアドバイスをいただいた。
自然保育の幼稚園に出会って2カ月後には移住
――大手さんが長野に来られたきっかけは何だったのでしょうか?
移住したのは2012年、会社を創業してからちょうど10年経った節目のときでした。そのころはゲーム市場が拡大し、右肩上がりにどんどん売り上げを増やして規模を大きくすることに業界の人たちはみんな躍起になっていました。ゆくゆくは上場やバイアウトをしてキャピタルゲインを得る。それをゴールに描くことが経営者の“常識”になっていたんです。でも、僕はその路線に自分をなぞらえることができず、モチベーションが湧かなかった。それが本当に幸せなことなのかという疑問をずっと抱いていました。
そんな時期に、上の子どもが5歳になって、これから幼稚園や小学校をどうしようかと考えていたときに、仲良くさせていただいている天外伺朗さん(元ソニー、AIBO開発者)から自然保育を実践している長野の幼稚園「大地」を紹介されました。キャンプに一度おいでよと言われて行ってみると、自然の中で大人と子どもが生き生きとしていて、プリミティブな幸せの土台があると感じました。こんな環境で子育てができたらいいな、僕自身もこんなところで仕事できたらいいな、という思いが沸いてきて、2カ月後には長野に移住してしまいました。
――移住にあたって長野市の移住プログラムや補助制度など調べられましたか?
いいえ、何もしていません。僕はまず移住してから、あとでいろんなことを決めていったんです。その過程が楽しかったですね。
――2013年にはアソビズムの「長野ブランチ」を開設していますが、支社を作る計画はあったのですか?
それも決めていませんでした。初めは、会社が東京にあるわけだから、新幹線で通えばいいと思っていました。でも、毎日通うとなるとお金もかかるし体力も要る。じゃあ週の半分ぐらい通おうかなと考えていくうちに、だんだんそんなに頻繁に行かなくてもいいのではないか、支社を作ったほうがいいのではないか、となったんです。
それで東京にもよくあるようなオフィスビルを探し始めたんですが、長野駅前のビルも東京に比べたらびっくりするほど安くて、それだけでテンションが上がりましたが、東京のオフィスと同じような空間を長野に再現しても面白くないですよね。
そうこうしているうちに、リノベーション物件を扱っている方と知り合い、築100年の旅館だった建物に入ることに決めました。善光寺の付近には古い建物がけっこう残っています。これを取り壊さずに次世代につないでいく。これが長野らしさだと思うと、支社を作るときもわくわくしました。
子育てと移住のおかげで働くリズムが変わった
――東京での働き方と長野に来てからの働き方は、違いますか?
それはもう、全く違います。僕は子どもが生まれたことで、意識的に働き方を変えました。
もともと僕はワーカホリックで、一番先に出社して、最後まで会社に居るような人間だったんです。好きな仕事だから苦ではありませんでした。でも、それをやるとどうなるかというと、生真面目な社員からつぶれていくんです。やっぱり社長が帰らなかったら、みんな帰りにくいですよね。ですから、「あいつ先に帰りやがって、この野郎」と思われるぐらいがちょうどいいと思い直したんです。
とはいえ、東京だと、なぜか“働かされて”しまう。オフィスの雰囲気のせいなのか理由は分からないのですが、なぜかずっと会社に居てしまうんです。いったん家に帰って子どもを寝かしつけてから、また出社してしまったり。でも長野に来たら、それが一切なくなりました。
人間は自分の働くリズムを状況に応じて変えていいと思うんです。1回社会に出たら、一生そのリズムでやっていかなければならないということはない。今は産休や育休が社会的にも認められていますが、子どもが生まれるということは、ものすごく大きな変化です。長野に来たことで、その変化をライフスタイルとして受け入れることができたんだと思います。
本物の五感を使った体験を子どもたちに伝える
――社長が地方に移住してしまって、東京の会社は大丈夫でしたか?
いや、最初は大変でしたよ。でも、ゲームの開発は現場主義で、一度ゴーを出したら進んでいきます。今は東京のオフィスでチームリーダーが育ち、自律的に動いてくれるようになりました。だから社長の僕が物理的に離れたことは、会社にとってもよかったと思っています。
一方、長野のほうは東京と違い、ゲーム開発はまだしていません。今は“共育事業”がメインになっています。僕は、ゲームクリエイティブは娯楽だけでなく社会課題の解決にも貢献できると思っていますので、地域の目線から新しいことにチャレンジしていきたい。特に自分の得意なこと、好きなことを言われなくても取り組める強いチーム作りを長野でも目指しています。
――この「横町LABO」は、その共育事業のための拠点になっているんですね。
長野ブランチのメイン事業となる「未来工作ゼミ」は、長野ブランチの設立と同時にスタートしました。当時は、プログラミング教育やICT教育の必要性は、まだそれほど注目されていませんでしたが、アソビズムの得意を生かそうということで、ゲームづくりを中心としたプログラミングの授業から始めました。
あれから8年経ち、今では、国内でもプログラミングを体験できる場所がたくさん出来てきました。そして、2020年からは、いよいよ小学校でプログラミングが必修化されます。
ただ、ここで僕ら大人が気を付けなければいけないのは、知識よりも先に五感を使った体験を子どもたちには伝える必要があるということです。
今は本物を知らない子どもがどんどん増えてきています。インターネットで調べれば大抵のことは詳しい解説と写真付きで見ることができますし、YouTubeを使えば動画で見ることもできます。最近ではVR動画も出てきて、見た目は現実に近づいてきていますが、それらはあくまでも擬似体験であり、やはり本物の五感を使った体験とは全く異なるものです。
例えば、野球が大好きな人が野球ゲームを作る。その人にとっては、野球のプレールールの再現だけではなく、自分がどうして野球が好きなのか、という子ども時代からの経験や思い出に基づいた哲学があるはずです。あるいは自転車で山道を下るダウンヒルの快感を知っている人が、その要素を取り入れたスピーディーなゲームを作る。その人は、危険を冒して山道を下るときに、何が自分を興奮させるのかを、理屈よりも先に五感を通して答えを知っているのです。そしてそれを自分なりのフィルターをかけて濃縮していくからこそ面白いものができるんです。
けれど、ゲームを遊んだ体験だけで模倣したゲームを作るのであれば、込められたエネルギーが薄まっていくのは必然です。これはゲームに限った話ではなく、映像や音楽の世界でも同じことが言えるかもしれません。
この横町LABOで実施している「PLAY & CRAFT」では、ハサミを使ったり、カラフルな紙や糸などの素材を使った、アナログな工作ができる「プリミティブクラフトルーム」 と、電池やモーターなどを使って、簡単な電子工作ができる「テッククラフトルーム」があり、年齢によって部屋を使い分けています。さらに上の階には中高生などがパソコンや高度な道具を使える「フューチャークラフトルーム」があり、子どもたちが段階を踏んでテクノロジーに触れるようにしています。
創造性のベースとなるのは、あくまでもリアルに体感したこと。便利な道具や刺激的なテクノロジーは、あとからいくらでも教えることができると考えています。
――リアルな楽しさは、東京のど真ん中ではなかなか体験できないかもしれませんね。
大人も同じです。やっぱり環境によって体験できることは変わってきます。
僕は本来、子ども心はみんなの中にあると思っています。だから童心に帰れる時間を作ることは大人になっても大切で、長野にはそのための最適な環境があります。アソビズムでは東京の社員を長野に呼んで、冬はスキーをやったり、夏には山に登ったりキャンプをしたりと、季節ごとに1泊2日でイベントをやっていますが、そういう機会に初めて長野に来た社員は、すぐには弾けられないのですが、回を重ねていくと、楽しさが体感できるようになってきます。長野のスタッフは率先してバカなことをしますが、東京のオフィスや街の中でそれをやると、本当にただのバカになってしまう(笑)。でも、自然の中であれば、バカもやりやすいんです。
今までの自分のキャリアを地方から見ることが大きな武器に
――それでも移住となると、勇気が要ります。
ときどき、若い子たちからキャリアプランについて聞かれるんですが、僕自身はもともと美大を目指して三浪し、結局入れなくて行き詰まったときに、小学生のころから好きだったゲームプログラミングを思い出して業界に飛び込んだ人間です。30歳で独立したいという思いが少しはあったけれど、キャリアプランに基づいて生きてきたわけではありません。
起業したあとも紆余曲折ありましたが、目の前にある仕事を一生懸命やってきた結果、周りの人に応援してもらってやってこれたという思いが強いんです。
今の時代は変化のスピードが速く、5年経ったら全く違う世界になります。だから自分のこれからのキャリアプランなんて描けるわけがない。つまりキャリアなんて、途切れて当たり前だと思います。
だから、東京で今まで自分はこの仕事をやってきたのに別の場所に行ったら自分のキャリアがなくなるとか、全く変わってしまうとか、そういうことは心配しなくていいんですよ。
地方に来てみると、多角的に物事を見られるようになります。今までの自分のキャリアを地方から見るとどうだったんだろう、逆に今、自分がいる立場を東京にいた自分の感覚で見たらどうなんだろう、と考えることは、強い武器になりますよ。
1つの視点でしか物事を見られない人よりは、たくさんの角度から物事を見られる人のほうが多くのことに気が付けますよね。その点、地方に移住するということは自然にそれが体現できるので、大きなチャンスにつながる可能性があると思います。
――ありがとうございました。