iNTERNET magazine Reboot

「iNTERNET magazine Reboot」発刊に際し、昔話その4

「INTERNET Watch」誕生秘話

新聞というメタファー、つまり「電子メール新聞」

 皆さんがいま読まれている、この「INTERNET Watch」はインターネットマガジンから生まれた企画でした。今回は、INTERNET Watchがどうやって出来たかについてお話ししたい。

紙メディアからインターネットメディアへ

 インターネットマガジンの発行が安定してきた時期に、ある問題に気づいた。誌面で紹介したサイト(URL)が、雑誌が販売される頃には内容が変わってしまったり、時にはなくなってしまったりする問題だ。これはインターネット専門誌としては大きな問題だが、月刊誌というメディア形態の宿命でもあり、解決不能問題だった。

 そこで、もっと発刊サイクルの早い週刊誌を出したらどうだろう、という案が出た。しかし、すぐに原価問題、流通問題の壁に当たることになる。そして考えた末に思いついたのが電子メールをメディアとして使うことだった。電子メールなら原価は安い、というかタダに近い。流通もこの上なく速く、光の速度だ。

 このアイデアは、当時副編集長の中島由弘氏とデスクの故・山下憲治氏と私の3人の夕食の席で生まれたものだった。いま思えば、こんなすっとんだアイデアを出せたのは、時代の革命児であるインターネットにどっぷり漬かっていたからだし、雑誌の販売が好調でいけいけどんどんだったからだろう。ついでに、ちょっと難色があった現場をなだめて、当初想定していた週刊ではなく日刊にしてしまったのだった。

完全な新組織としてスタート

 新しい編集体制は別部隊とし、山下氏が現場リーダーとなった。3.5人の所帯(0.5は兼任の私)。インターネットマガジンから派生した企画だったが、インターネットマガジン編集部とは完全な別部隊とし、内容面でも、著者人脈、ニュースリリースの受信も一切継承しないという徹底した切り離しを行った。これには、口が立つデスクに対し、「そんなに言うんなら、全部自分でやってみろ」という副編の親心があった、かも知れない。だが、この完全分離が日本初の本格的な商業インターネットメディアを成功へと導いたのだと思う。

 ちなみに、日本初という意味では、Watchの前にガリレオ社のNewsStandという電子メールサービスがあった。Watchを出す際には、ガリレオの故・赤木順彦社長に、Watchを「本格的な商業メディア」という意味で日本初と名乗っていいかとの了解をいただいたのだった。私が知る限り、日本初の電子メールメディアはNewsStandだったことを記しておきたい。

とにかく早く

「INTERNET Watch」初代ロゴマーク(1996年)

 基本的編集方針は極めてシンプルで、日々のニュースをとにかく早く届けることだった。極端だが、多少誤植があってもいいから早く、というくらいの意気込みだ。間違ったら、明日、修正記事を出せばいいじゃないか。それと、URLも積極的に掲載した。URLを掲載することは今ではあたり前だが、当時はネタ元を読者に教えることになり、一部に不安もあった。ただ、インターネットは(記者だけでなく)誰でもネタ元にアクセスできるわけなので、隠してもしかたない。それに、もっと知りたい読者はネタ元を見たいだろう、という思いもあった。また記事だけでなく、その日に新規オープンするサイトも末尾に掲載したことが、業界の活性化につながったように思う。

 ちなみに、「Watch」という名前は山下氏の命名だ。インターネットの動向を注視するという意味合いが、初代のロゴマークにも反映されていた。

流通システムの開発

 コンセプトはできたが、当時それを実現する大量のメールを送信する仕組みはなかった。大量メールの発行システムは、当時のインプレスラボの池田健二氏が開発してくれた。たしか、SMTPを改良して性能をあげたと聞いている。最初のシステムは市販のPCにUNIX、回線も64Kだったように記憶している。今ではプアーと言えるこのシステムで、毎日2万通のメールを配信していたわけだ。

 余談だが、INTERNET Watchを最初に世に送り出す時は、関係者が見守る中、リターンキーが押されたのを覚えている。緊張し、ワクワクし、最高に嬉しかった。みんなで飲んだシャンパンはとても美味しかった。

新聞というメタファー

 電子メールを媒体に選んだことで、ビジュアル性は諦めざるを得なかった。そこで、ニュースを中心に構成することに決定。それは、雑誌より新聞だった。つまり「電子メール新聞」。「インターネットの、インターネットによる、インターネットピープルのための新聞」、それをINTERNET Watchの合言葉とした。ちなみに「電子メール新聞」という言葉は、当時インターネットマガジンで用語解説を担当してくれていた、ターミノロジー研究家の金森國臣氏が強く推奨してくれた言葉だった。

 新聞というメタファーを決めたことで、その後のモデル化は一気に進んだ。たとえば、「号外」はすぐに思いついた。また、新聞なら有料で購読してくれるはず。INTERNET Watchは最初から有料購読で行くと決めていた。それはたぶん出版をやっていたからだろう。最初から無料のメディアをつくったら、テレビのように広告主導のビジネスモデルを志向することになるような気がしていた。「出版物の価格を安くしたがるのはよくない。それをやるとテレビのようになる」と教えてくれたのは、ユズ編集工房の故・柚口篤社長だった。

 購読料の徴収システムは、出版営業の村田哲史氏らが作ってくれた。いまでは当たり前のオンライン・クレジットカード決済だが、当時では先駆的な取り組みだった。

 有料の値段は読者に聞いて付けたものだ。INERNET Watchは本創刊までの2ヶ月間、無料期間を設けていた。それは、配信実験とマーケティングのためだった。プロモーションはインターネットマガジンの力を借りた。広告企画を折り込みのプロバイダーマップの裏面に入れたのだった。効果は抜群。それで集めた2万5000人にアンケートを実施し、「月500円で購読してくれますか?」の問いに、約6割がYESと回答してくれた。最終価格は、6割から逆見積りし300円とした。結果、最終ユーザーの3万人に対し、ぴったり6割の1万8000人が定期購読してくれたのだった。教訓:読者は信じよう。

 このことについての記述が、インターネットマガジンに掲載したINTERNET Watchの自社広告に載っている。

「INTERNET Watch」の自社広告。「6ヶ月購読料:2400円」とあるが、最終的には1800円とした(「インターネットマガジン」1996年3月号より)

文字だけの広告モデル

 新聞なら、広告もとれるはず。新聞を参考にして、文字中心の広告を創作した。文字だけなので、できるだけ見やすいようにと試行錯誤し、縦は5行で、横は画面の横80文字(半角)より少し少な目の76文字までにし、上下に罫線を引いたりなどした(5行広告の誕生)。工夫のかいあって、このフォーマットがその後のメール広告のデファクトになっていった。

 掲載料はヘッドを10万円、その他を7万円に決定した。また、広告の総数を1日6本以内と自主規制もした。電子メール広告という誰もやったことのない営業だったと思うが、インターネットマガジン広告営業の境輝正氏、樋渡貴春氏に加え、Watch専業の四家正紀氏、副島伸浩氏らが、そのモデルを確固たるものにしていってくれた。

 購読システムに加え、これで電子メール新聞のビジネスモデルができあがった。その後Watchは、ウェブが主力になり現在の無料型になっていくのだが、当初は電子メールを媒体とした有料購読型というビジネスモデルだったのだ。

ユーザー参加

 INTERNET Watch成功の鍵の1つにWatcher制度があったと思う。Watcher(ウォッチャー)とは、インターネット上で募ったアマチュアの記者予備軍である。彼らにネットサーフィン(いまや死語?)でネタを探してもらうことで、編集部はインターネット世界の出来事を広く、即座に知ることができたのだった。Watcherの募集は創刊号(1996年2月1日)で呼びかけたのだが、約30人が応えてくれた。

 Watcherからは日々、新鮮な情報が届いていたが、その管理をしてくれたのは高橋正和デスクだ。彼は山下氏と共に、インターネットマガジンのCD-ROM制作担当だったが、そのチームがそのままINTERNET Watch編集部になったのだった。彼らはソフトウェア作りに長けていて、インターネットマガジンのCD-ROMでは、ツール収録だけでなくHTMLでウェブのようなメニューを作ったりもしていた。いま思えば、このCD-ROMがINTERNET Watchの種の1つだったようだ。

 Watcherの方々には、その後この業界で活躍されている人も多いと聞いている。ちなみに、この昔話連載を始めたら、何人かのWatcherの方からお便りをいただいた。当時の、熱気むんむんのエモーショナルなオフ会を思い出した。

 Watcherの皆さま、その節はありがとうございました。

次回に続く)