iNTERNET magazine Reboot

「iNTERNET magazine Reboot」発刊に際し、昔話その1

「インターネットマガジン」創刊時秘話

基本コンセプトは、インターネット時代の「月刊アスキー」

インターネットマガジン創刊号(1994年10月号)

 時は1993年。かつてUNIXの本を編集してきた経緯から慶応大学の村井純先生らとのお付き合いがあり、UNIXの最新テーマでの本の発行を考えていた。インプレスが創業してまだ間もない頃で、売れる本が欲しかった時だった。

 そこで「インターネット」というキーワードが盛り上がっていることを聞きつけ、早速、単行本として企画立案することになった。だが、目次を練っていくと、インターネットというテーマは捉えどころがむずかしく、また進展がとても速く、1冊の単行本ではうまく表現することができずなかなか企画がまとまらなかった。ただ同時に、何やらもっと巨大なものだということも分かってきた。そこで、単行本ではなく雑誌形態での出版を検討しようという話になっていった。

 雑誌での検討を始めたら、その基本コンセプトはすぐに思い付いた。インターネット時代の「月刊アスキー」だ。月刊アスキー(当時、株式会社アスキー刊)はパーソナルコンピュータの登場と共に時代を築いてきた、名実ともにパーソナルコンピュータの総合誌でリスペクトを持っていた(私は前職で同社の書籍編集を担当していた)。インターネットはパソコンと同等の革新だという思いがし、インターネットの総合誌を作ることを決意した。名前はそのものずばりの「インターネットマガジン」だ。ただその時は、成功まで3年くらいの歳月を要すと覚悟していた。

 パソコンはマニア層から社会化したものだったので、初期の雑誌はマニア向けのものだった。誕生から10年以上が経過し、すでに一般のツールになった後も、多くのパソコン雑誌がその経緯を色濃く残していた。インターネットは当初からマニアのものではなく、社会のインフラとしての色彩が強かったので、内容面は当然として、デザイン面も強化する必要を感じていた。

 内容バランスは、ハウツウが7割、啓蒙が2割、1割がソーシャル(社会との接点)とした。この決定には、ちょっとしたエピソードがある。

 実は、インターネットマガジンを創刊するにあたり、村井先生に編集方針や具体的なネタどりのアドバイスのお願いをしたら、「香港に来て、WIDEのボードメンバーに夕食をおごってくれたら、ボード会議の半日をインターネットマガジンの編集会議に使ってあげる」という“取引”があったのだ。その頃、村井先生率いる技術研究コミュニティWIDEプロジェクトはボード会議を世界各地でやっていて、その時は香港だった。

 私は喜び勇んで、副編集長の中島由弘氏と二人で香港に向かった。約束どおり、午後からはボードメンバー全員で創刊企画書にさまざまな意見をくださった。行ってよかった。その結果で、インターネットマガジンはより具体的な姿になっていった。前述の「ハウツウ7割、啓蒙2割、ソーシャル1割」は、その際に村井先生がくださったアドバイスだったのだ。当時はソーシャル1割の意味はおぼろげだったのだが、その翌年に起こった阪神淡路大震災でその意味をはっきり認識することとなった。当時の記事は「インターネットマガジン バックナンバーアーカイブ」で参照できる。

 ちなみにこちらも約束を守り、ボードメンバーに本場の中華料理を振る舞った。30万円ほどの出費になりちょっときつかった記憶があるが、いま思えば安いものだった。

 インターネットマガジンは隔月刊雑誌として正式に創刊することが社内決定された。これには、東京大学の故・石田晴久先生の口添えもあったことを記しておきたい。石田先生は当時社長の塚本慶一郎氏に、お手紙でその重要性を伝えてくださっていたのだ。

インターネットマガジン付録CD-ROM

 隔月刊にしたのは、まだ市場性が分からなかったのと、創業間もないインプレスは月刊でいける体力がなかったこともあった。ただ、新しい概念が多いので隔月刊ながら連載は重視した。そして、読者にとっては他に情報がないはずなので、接続に必要になるプロトコルスタックなどのソフトウェアをCD-ROMに詰め込み、巻末には入門マニュアルを掲載するなど、これ一冊でインターネットが始められるようにした。

 制作手法にもこだわった。デジタルに理解の深い岡田章志氏にADを嘆願し(以降ずっと、今回のRebootもお願いしている)、表紙は「環境と人」をテーマにすることにした。制作ではデジタルを意識してフルDTPを採用し、印刷所にインターネットでの入稿ラインも要求した。インターネットマガジンは日本初のインターネット雑誌となったが、CD-ROM付きやフルDTP雑誌としても先駆的だったと思う。

 本創刊前には、「創刊期待号」と題した創刊準備号を製作した。スタッフの手慣らしとプロモーションのためだった。創刊期待号は幕張で行われた日本初開催のインターネットのイベント「NetWorld+Interop94」で無料配布したのだが、数十メートルの待ち行列ができ事務局から指導される一幕もあり、嬉しい悲鳴のスタートを切ることができたのだった。

(次回『「プロバイダーマップ」制作秘話』に続く)