イベントレポート

Internet Week 2017

1995年ごろのAPNICやISOCや「インターネットマガジン」を振り返る

 「向き合おう“グローバル”インターネット」をテーマに、一般社団法人日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)の主催で11月28日から12月1日まで開催された「Internet Week 2017」。その中から、いくつかのセッションの模様をお伝えする。

 12月1日には、Internet Weekの全体イベントといえる「IP Meeting」が開催された。その中から、基調講演などいくつかの講演をレポートする。

「1ドルが1ドルでない」
後藤滋樹氏、APNICやISOCの初期を振り返る

 IP Meetingの基調講演としては、日本人として5人目となるInternet Society(ISOC)の「インターネットの殿堂(Internet Hall of Fame)」入りした後藤滋樹氏(早稲田大学理工学術院基幹理工学部情報理工学科教授/JPNIC理事長)が登壇。APNIC(Asia Pacific Network Information Centre)やISOCの初期の活動を、ユーモラスに語った。

後藤滋樹氏(早稲田大学理工学術院基幹理工学部情報理工学科教授/JPNIC理事長)

 1つめのテーマは「1ドルが1ドルでない」。これは、タイのバンコクで開かれたAPNIC第1回会議のころの話だ。データベースを維持するにはお金が必要なので、会費を集めることになった。しかし、国ごとに経済事情が異なり1ドルの価値が違うので、これが一番の問題になったという。そこで、当時の平方根で割合を決めたという。「対数か平方根かで議論があった(笑)」と後藤氏。「当時のGDPを元にしているので、その後GDPが発展した国は今も割合が低い」(後藤氏)。

 公用語とした英語も問題になった。日本も含めて多くの国が英語ネイティブではない。そこで、二重否定など難しい英語の表現は禁止、口頭の説明だけでなくスクリーンに映す、などのルールが決められたという。また、ある提案を後藤氏が英語で改訂したものを、オーストラリアのMary Fleming氏が格調高い英語にしたところ、「このぐらいの英語がちょうどいい」として後藤案が採用になって、「褒められたのか、けなされたのか」というエピソードも苦笑まじりに語られた。

「1ドルが1ドルでない」
横並びにならないアジア

 2つめのテーマは「100%援助より80%が良い」。当時、アジア太平洋地域では、米国との接続は日本が担当し、欧州との接続は欧州政府の援助のもと韓国が担当していた。このとき、日本式ODAの考え方では100%援助となるが、欧州式では80%援助となるという。このとき「100%だと当たり前と思われ、80%だとサンキューと言われる」という逆説的な現象を後藤氏は語った。「自前の部分があると、国内で大騒ぎになり、自分たちのものとして認識される。100%だと他人のものと思われる」のだそうだ。

 3つめのテーマは「友人かライバルか」。日本とは異なり、多くの国には教育研究用ネットワークが複数存在し、「日本では皆が仲良しですね」と言われたという。そのそれぞれと良好な関係を結ぶといった配慮をする必要があり、「訪問するときは、人数を2つに分けて、両方に表敬訪問するようにした」といった苦労を後藤氏は語った。

「100%援助より80%が良い」
「友人かライバルか」

 4つめのテーマは「言論の自由」。後藤氏がISOCの理事になったばかりの1995年に、ISOCが開催した国際会議の「INET'95」は、アジア太平洋地域で開催する番だった。基調講演のテーマは「Freedom of Speech」。当初シンガポールで開催予定だったが、シンガポールには検閲があることが問題となった。結果としてシンガポールでの開催を断念し、「アジア太平洋地域」を広義にとってハワイで開催したという。「ヒヤヒヤものだった」と後藤氏は振り返った。

 5つめのテーマは「フルタイムと掛け持ち」。当時、Internet 2とICANNの両方の会議に、後藤氏や村井純氏を含む日本人たちが出ていた。この様子について、EDUCOMのMichael Roberts氏から、「日本人は同じチームが全部やるのか?」と言われて、「これはいけない」と思ったという。

「言論の自由」
「フルタイムと掛け持ち」

 6つめのテーマは「Best effortの引き際」。「ベストエフォート」といったとき、日本人は95%ルールでがんばるが、アジアの多くの国は95%までがんばらないという。ただし、それは人や国にもより、「がんばったのがタイ」だと後藤氏は語った。

 7つめのテーマは「よいことと悪いことは半々」。後藤氏はベストセラー書籍「失敗の本質」で分析された旧日本軍の問題点の中から「悪いことが上に伝わらない組織は暴走する」という点を紹介した。

 7つめがもう1つあり、「最後まで迷ったので」とは後藤氏の弁。こちらのテーマは「避けられない『重点化』」。後藤氏は「日本ではほとんどの産業分野や研究分野がそろっているが、そのような国は数少ない。多くの国は重点分野を決めている」という。「日本はこれまでNo.2の国だったが、もはやNo.2ではない」として、「重点でない領域をやめるか? それを誰が決めることができるのか。ここでは問題提起のみしておく」として講演を締めくくった。

 なお、講演後には「インターネットの殿堂」入りを祝う花束贈呈が行われた。

「Best effortの引き際」
「よいことと悪いことは半々」
「避けられない『重点化』」
「インターネットの殿堂」入りを祝う花束贈呈

「プロバイダーマップは不動産情報と同じ」
「インターネットマガジン」創刊期を振り返る

 インプレスグループ25周年記念として、かつての雑誌「インターネットマガジン」の1号限りの復活として発売された「iNTERNET magazine Reboot」と、当時のインターネット事情について、井芹昌信氏(株式会社インプレスR&D代表取締役社長)が講演した。なお、来場者は「インターネットマガジン」を読んだことがある、あるいは知っている人が大半だったようだ。

井芹昌信氏(株式会社インプレスR&D代表取締役社長)

 「インターネットマガジン」は、1994年12月に創刊(当初は隔月刊)。当時、インターネットにつながっていない国はアフリカや中東など戦争の多い国だったという。「インターネットがつながれば戦争がなくなるんじゃないか、という使命感があった」と井芹氏は振り返りつつ、「今どうなったかは皆さんご存じのとおりですが」と苦笑し、「でもプラス面も多い」と語った。

 創刊号には、村井純氏や砂原秀樹氏など、日本のインタネットを作った人たちが寄稿した。基調講演を行った後藤滋樹氏もコラムを連載しており、「創刊号から最終号まで、一度も落とすことなくコラムを入れていただいた」と井芹氏は感謝を述べた。JPNICの連載では、インターネットの殿堂入りしている平原正樹氏(故人)も寄稿していた。なお、初期には実際に自宅にインターネットをつなぐ「Do It Yourself」という連載も掲載されており、その著者は、その後に日本インターネットエクスチェンジの社長となった石田慶樹氏だったという。

 「インターネットマガジン」を知っている人には、全国のISPの接続構成を図示した「プロバイダーマップ」の印象が強いだろう。プロバイダーマップは、月刊化した1995年9月号に登場し、当時は33社が載っていた。これが最終号には1200社となった。

 プロバイダーマップでは、回線の太いところは太い線で、細いところは細い線で表現していた。「これでISPが自分のところが細いと分かるので、負けじと頑張って線を増強してくださった」というエピソードも井芹氏は語った。

 このプロバイダーマップの掲載には、ISPの反発も想像された。そこで村井純氏や石田晴久氏(故人)に相談したところ、「もちろん構わない。不動産情報に駅から徒歩何分と書いてあるのと同じだ」との回答を得て、掲載に踏み切ったのだという。

 また、当時は個人ユーザーがインターネット接続するには、電話回線を使っていた。そのため、夜中の混雑時にはISP側が話中でつながらないこともよくあった。そこで、実際に編集部のモデムから電話回線でつないでみる「話中度調査」の結果も、長い間「インターネットマガジン」に掲載されていた。

「インターネット昔話」(本誌記事より)
「プロバイダーマップ」最終号版

 本誌「INTERNET Wach」については、時間が押していたため、「詳しくはINTERNET Watchの連載で」と省略。その中で、創刊準備号にソフトバンクが米Yahoo!に初めて200万ドル出資したときの記事が載っていたことを井芹氏は紹介した。

 最後に井芹氏は、「インターネットマガジン」創刊のころからインターネットを見てきた「ネットビジネスの教訓」を語った。「1つの技術革新は必ず新しい価値を生み出す」「どんな小さいことでも1つのことを掘り下げると価値がある」「先にやった人が勝つ」「基本はユーザーの価値向上」「双方向を活かす」「ゼロからやったほうがうまくいく。既存組織があるとうまくいかない」という6点を井芹氏は述べた。

「INTERNET Watch」創刊準備号に載った、ソフトバンクによる米Yahoo!への出資
ネットビジネスの教訓